サムライ・ブル
麓清
第一章 闘牛の島
第1話 春の嵐
プロカメラマンが撮影したポスターを広げたのかと思うほど、嘘みたいに晴れ渡った五月の連休初日。
高らかに鳴り響くラッパの音色に導かれてゲートをくぐると、そこは歓声という荒波のうねる大海のど真ん中だった。綱を握る
「大丈夫だ、ハル。いつも通り、お前の力をみせてやればいい」
四年前に竣工されたばかりの『闘牛』専用の施設、
すり鉢状になった観客席が取り囲む中央、リングと呼ばれる直径二十メートルほどの円形柵の内側に立つ翔真の傍らで、ハルと呼ばれた黒い雄牛が前脚で二度、三度と地面の土をかいた。
「翔真」
呼びかけられて振りむくと、翔真の兄、
「無茶をして怪我することだけはないようにしろよ。牛に踏みつけられでもしたら、怪我どころじゃすまないんだ。
稜真はぽんと翔真の肩をたたき、踵を返す。法被の背中には白い江戸文字で『春疾風』と染め抜かれていた。
「今年も始まりました! 全島一闘牛大会、花形牛の封切戦。まず入場したのは二見灘(ふたみなだ)町の春疾風。七百四十キロと小柄ながら、公認大会二連勝で、全島大会デビュー! まさに島に吹く一陣の疾風! 勢子の鶴野翔真はなんとまだ中学二年という、注目の若手花形です。続きまして入場するのは、一ノ瀬(いちのせ)町の烈豪鬼虎(れつごうおにとら)!」
場内アナウンスでその名が呼ばれた途端、あちらこちらで島太鼓(チヂン)が打ち鳴らされ、威勢のいい指笛(ハト)が響き渡った。
「ワイドッ! ワイドッ! ワイドッ!」
揃った掛け声が入場ゲート付近から一斉にあがったかと思うと、黒い法被に股引き姿の血気盛んな男たちが、清めの塩を撒きながら入場ゲートから駆け込んできた。人数は六名。大半が、三十代半ばから四十代といった風情だったが、牛の綱を引くのはまだ二十歳にもならなそうな若い男だ。
「鶴野のところのボンか。中学生が闘牛ごっこか?」
でっぷりと贅肉をつけた男が進み出て、見下すようにあごを突き出す。翔真はむっとしたが、いい返すのはやめた。相手にすべきは、牛主の肥後(ひご)義将(よしまさ)ではなく、黒曜石のような瞳でこちらを見据えてくる烈豪鬼虎だ。どうせこの男は勢子をするわけじゃない。関係者席の最前列で観戦するだけだ。
春疾風と烈豪鬼虎はお互いを睨みつけたまま、一メートルほどの位置で立ち合い。首を低く構えて鋭く尖る二本の角を突き出す。次の瞬間。突然一時停止を解除したように二頭の闘牛がその頭を激しくぶつけあった。
ゴツッ! と鈍く硬い音がして、春疾風から唸り声が漏れる。春疾風は角を相手の角にひっかけて、鍛えた首の筋力で鬼虎を押し込んでいく。土煙をあげながら鬼虎がずるずると二メートルほど後退する。
場内がどっとどよめいた。
しかし、鬼虎は踏みとどまり、逆に春疾風を力に任せて押し返した。すかさず、翔真は春疾風の鼻綱を解き、首元を強く平手で打った。
「いけ、ハル! 右だ!」
まるで指示を了解したかのように、春疾風は一度深く首を沈めると、相手の角を外し、勢いをつけて自分の左角をハンマーのように鬼虎の左側頭部めがけて打ち付けた。
しかし、相手の勢子は鬼虎の耳を引いて後退させ攻撃をよけると、足で地面を二度、三度と踏みしめる。
「ヒーヤイッ! ヒーヤイッ!」
ヤグイと呼ばれる牛を鼓舞する叫び声をあげながら、鬼虎の体を力いっぱい叩く。
鬼虎は、力強く前脚を蹴り、春疾風の眉間を狙って鋭い角を突き立てた。
それを嫌がった春疾風の体が鬼虎に対して横をむき、くの字に頭をつき合わせる形になった。その一瞬を狙っていたかのように、鬼虎は春疾風の右脇腹の下に角を差し入れ、そのまま春疾風を首一本ですくいあげた。
翔真が声をあげる暇もなく、バランスを崩した春疾風は舞い上がる砂埃の中で横倒しにされていた。八百キロ近い巨体が、牛の首一本で引き倒されてしまったのだ。
島太鼓が滅多打ちされ、場内のあちらこちらからひときわ高いラッパや指笛が鳴り響き、勝鬨があがる。
勝負は決した……はずだった。
本来ならば勝負があった瞬間に、勢子は相手の牛から自分の牛を引き離さなければならない。
しかし、烈豪鬼虎の勝利に歓喜しリング内になだれ込んだ肥後一族は、勢子たちと共に手舞い足舞いをして勝利に酔いしれている。
その間にも鬼虎は、横倒しになり四肢を突き出した春疾風に、槍のような角で追撃を加える。春疾風が悲鳴にも似た鳴き声を上げた。
たまらず翔真は鬼虎の首筋に飛びついた。
「やめてくれ! このままじゃ、ハルが! ハルが死んでしまう!」
しかし、八百キロの巨体すらもやすやすと引き倒すほどの闘牛の力の前に、翔真はあまりにも無力だった。
首のスイングの一撃で軽々と撥ね飛ばされると、地面に背中をしたたかに打ち付けた。その衝撃に、呼吸ができなくなる。
横たわる翔真の目に映ったのは、牛という概念である境界線が世界に開けた二つの黒い穴。そこから漏れ出でている原油のようにどろりとした黒い感情。
その狂気のうねりはまっすぐ翔真にむいていた。
場内を埋め尽くしていた歓声は、にわかに小さな悲鳴に変わった。
身体がふわりと宙を舞ったかと思うと、またもや地面に叩きつけられた。翔真は誰かにリング際まで投げ飛ばされたのだ。
翔真はその目の前の光景に驚愕し、目を見開いた。「春疾風」と染め抜かれた黄色い法被の背中が、烈豪鬼虎のと翔真の間に立ちはだかっていた。
「兄ちゃああああん!」
翔真の叫び声が、ドーム天井にこだまする。
それからのことはほとんど覚えていない。
気付いたときには、母親に肩を抱かれ、兄を乗せた救急車がサイレンを鳴らして遠ざかっていくのを、ぼんやりと見送っていた。
それはあまりにも晴れ渡った、穏やかな風が舞う午後だった。
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