第13話 サムライのように
土曜日の朝。ももタロショーグンXの譲渡先との挨拶に立ち合ってほしい、と頼まれていた翔真は、いつもしているように繁田家の母屋の庭へとまわった。
庭先にある牛舎のそばに、落ち着かない様子で力太郎が座っていた。
「よう、リキ。ももタロはどうしてる?」
「ん、俺よりはずっと調子いいぜ。食事量もだいぶ戻ってきたし、散歩も行くようになった。まあ、上がれよ」
力太郎は立ち上がり、縁側から家の中に翔真を招き入れた。居間の真ん中には異様な存在感を放つ巨大な一枚板の座卓がある。なんでも屋久杉でできているらしい。
翔真がその端っこを陣取ると、カツ子が菓子器にこれでもか、と地元名産の黒糖せんべいをを詰め込んで寄越してくれた。
「ところで例の牛はどうなったんだ? 貰い手というか、アテはできたのか?」
「それが、学校に俺とワッキーの入部届を出して、生物部として飼育しているっていったら、すんなり通ったってよ」
「マジかよ。大丈夫か、うちの高校。それで、リキは本気で若葉と二人であの牛を飼うつもりなのか?」
「そのつもりだぜ。まあ、まだ警戒心が解けてなくて、散歩に連れ出すのも一苦労なんだけど、ワッキーもなんとかあいつと仲良くなろうと頑張ってるよ。だから翔真も一緒にやろうぜ」
懇願するように力太郎がいうのを、翔真は「いや、まだちょっと」と、曖昧な苦笑で保留した。翔真の脳裏に昨日の桃華の言葉がよぎる。
「どうして若葉は、生物部に入ろうと思ったんだろう」
翔真が独り言のように呟くと、力太郎が小さく首を振った。
「闘牛を見て、自分もやってみたいってそう思ったんなら、きっかけなんてそれでいいじゃねえか。別に闘牛はこの島の人間じゃなきゃダメなんて決まりもねえんだしよ」
「それは、そうだけど……」
どこか煮え切らないように、翔真が返事をしたところで、玄関から快活な声が響いた。
「はいさーい、こんにちはー! 座間ですー!」
台所にいたカツ子が「はーい」と甲高い返事をしながら、ぱたぱたと足音を鳴らして玄関まで出迎えた。翔真の心拍が、心もち速くなる。
程なく力太郎と翔真がいる居間に、浅黒い肌をした、いかにも職人っぽい白髪交じりの角刈りの壮年男性と、同じくよく日焼けをしたどんぐり眼の長身の青年が入ってきた。青年の方に翔真は見覚えがあった。全島大会のときに力太郎のヤドリにいた男だった。
この青年が、ももタロの次の牛主の座間なのだと、翔真は直感した。
二人が翔真たちの正面に座る、無意識に翔真も背筋がぴんと伸びる。
最後に、力太郎の父親、源三郎(げんざぶろう)が居間に入ってきて、庭を背にして座った。
「長旅で疲れたでしょう?」
「いえ、那覇から飛行機で一時間もかかりませんから。空港からはタクシーでしたけど、いつ来ても長閑でいい場所です。牛たちものびのびと暮らしてますね。それで繁田さん、彼が沖縄で闘牛の繁殖農家をしている、
座間はその爽やかな顔によく似合う声で、隣に座る男を紹介した。男は少し畏まった様子で「知念です」と短い自己紹介をした。
「一端の生産農家として、知念さんの噂はかねがね伺ってます」
深々と頭を下げる父につられて、力太郎と翔真も座ったままペコリと礼をした。
「ここにいる木偶の坊みたいなのが、せがれの力太郎です。ももタロの世話はすべてこいつがやっておりました」
「以前に牛をすこし見させてもらったが、実にいい調教をしていると感じたさ。物怖じしないし、何よりも面構えがいい。高校生が育てたとは思えん見事な牛さぁ」
知念にそう褒められて満更でもないのか、鼻をこすりながら「ありがとうございます」と力太郎は亀のように首をすくめた。
「あの、今回はあくまで俺の牛の譲渡なので、親父……あ、いや。父ではなく、俺が決めたいと思ってます。ただ、父がいった通り、ももタロは俺が心血を注いで育てた牛です。そのせいで俺の判断に迷いがあったらだめだと思って、こいつに立会人を頼んでます」
力太郎の視線が翔真にむき、それを追うように、座間と知念も翔真を見た。翔真は慌てて姿勢を正す。
「えっと、今回の立会人をすることになりました、鶴野翔真といいます。よろしくお願いします」
翔真が自己紹介すると、翔真の真向かいに座っていた知念がひょいと眉を持ち上げた。
「鶴野……翔真君? もしかして、鶴野一真の息子さん?」
「はい。一真はおれの父ちゃんですけど……」
翔真がいうと、知念は立ち上がり、座卓を回り込んで翔真の両手を握りしめた。
「翔真君、でーじ大きくなったさぁ! 覚えとるか? 君がまだ小学生のとき、君の兄さんと一緒にうちに牛を買いに来てくれたんさぁ!」
「あのとき……ハルを譲ってくれたおじさん?」
「そうそう、君はあの牛に春疾風って、かっこいい名前を付けてくれたんさぁ。いやぁ、本当に立派な青年になった! それで、春疾風は元気にしているか?」
知念は喜悦の色を満面に浮かべている。けれど、翔真の胸の奥には、コンクリートブロックを何個も積み上げたような重さがのしかかっていた。
春疾風が鬼虎との取り組みでこっぴどく負けた結果、処分せざるを得なくなったことをどう報告すればいいのか。
頭の中は一瞬でパニックに陥った。いわなければならないと思えば思うほど、胸の奥のほうに言葉がつかえて出てこなかった。
俯いて黙ったままの翔真に、知念が心配そうに「どうかしたのか?」とたずねた。翔真は声を絞り出すようにいう。
「……ハルは、三年前の全島大会のとき、暴走した相手の牛に怪我を負わされて、戦えなくなりました。それで……」
そこまで口にしたところで、翔真はまた黙り込んだ。悔しさと申し訳なさと情けなさとで、嗚咽がこみ上げてきて、それ以上言葉にならなかった。
闘牛の生産農家をする知念が、その言葉の意図を汲み取れないわけがない。しかし、彼は相好を崩したまま、肩を震わせて嗚咽する翔真の体を抱きとめた。
「そうか。翔真君は春疾風を全島大会に出せるくらい、大切に、大切に育ててくれたんだな。きっと立派な素晴らしい闘牛をしたんだろう。その結果、最後は処分されることになったとしても、こうやってあいつのことを想って泣いてくれる牛主に巡り合えて、彼は幸せだったさぁ」
ハルは幸せだったのだろうか。
ずっと胸の片隅にわだかまっていたその気持ちが、角砂糖のように崩れていく。
自分自身を縛り付けていた、あの日の春疾風の最後の声。その呪縛がするりとほどけていく。
今、翔真の胸の中に聞こえる声は、処分されることへの恨みも、離別の悲しみもない、むしろ堂々として、けれどどこか愛嬌と優しさに満ちていた。
闘牛は、戦うためだけに生かされている。そうであるからこそ春疾風は、最期の瞬間まで勇猛果敢であろうとしたことに、今ようやく気付かされた。
「ごめん、ハル……ごめんよ」
漏れ出た言葉は処分したことへの謝罪ではなく、その高潔さにこれまで気づいてやれなかったことへの悔恨。
知念は腕の中の翔真にそっと告げた。
「春疾風のことをこんなにも愛してくれて、ありがとう」
嗚咽は止まらなかったし、涙もぼろぼろとこぼれてくる。なのに、こんなに幸せな気分になったのは、三年前のあの春の日、全島大会へ出陣して以降、初めてだった。翔真は力太郎の方を見ると、「今度はお前の番だな、リキ」と泣き笑いの顔でいった。
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