第7話 友

「リキ」

「おう、翔真か」


 コロセウム外にあるヤドリへと戻った力太郎は、太い眉をハの字にして、ため息混じりに微笑んだ。


「悪りぃ、負けちまった」

「なんで謝るんだよ」

「お前に花を持たせてやるっていってたのに、約束守れなかった」

「どうだっていいよ、それくらい。それより、ももタロの傷は?」

「ああ、そこまで深くはないけど、しばらく休養かな」


 ももタロの脇腹にざっくりと赤い裂傷があった。力太郎は傷口に化膿どめのための馬油を塗り込んでいる。二人の間に短い沈黙。やがて、力太郎はももタロを優しく撫でながら、どこを見るでもなく呟く。

「今日の負けはももタロのせいじゃない。俺の油断が敗因だ。翔真はまだ鬼虎がなにかをしてくるはずだと気づいていた。けど、俺は気付けなかった」

「あんなふうになれば誰だって勝ったと思うって。客席だってみんなももタロの勝ちだって思ったんだ」

「けど、翔真は気付いたんだろ。あれは遁走したんじゃないって」

「……なにかをしてくる気がしていた。それがあの牛のやり方だと思った」


 俯き加減にぼそりという。「あーあ」と力太郎が大きなため息をこぼした。


「翔真のいうことをちゃんと聞いていたら、あんな油断をしなかったかもしれないな」


 力太郎はそういったきり、うなだれてただ静かにももタロの体をいたわるように、優しくその体表を撫でていた。


「悪りぃ。今は一人にしてくれ」

「わかった。明日また電話するよ」

「すまん」


 翔真は力太郎の背中を軽く平手打ちして、コロセウムへと戻った。しかし、その後の試合はあまり見る気になれず、結局、次の軽量級の取り組みまで見ることなく、三人で三津間港行きのバスに乗り込んだ。


     ♉


 昨夜は悶々としてなかなか寝付けず、ベッドの上でゴロゴロしているうちに窓の外が白んできた。結局、夜明け前に眠ってしまって、起きたらすっかり日が昇っていた。

 朝一番で力太郎の家に行くつもりだったが、完全に出遅れてしまった。

 翔真は朝食も取らず、自転車のスタンドを蹴り上げ、サトウキビ畑の間を編み目のように広がるあぜ道を、全力でペダルを漕いだ。


 この広大なサトウキビ畑の多くが翔真の父親の畑だ。

 鶴野家は昔からサトウキビ畑をたくさん持っていて、今みたいに農作業が機械化される以前は、牛が貴重な労働力だった。土を耕し、刈り取ったサトウキビを運び、収穫したサトウキビを圧搾するのは牛の役割だった。

 そのときから、畜産農家だった繁田家とはお互いに付き合いがあった。鶴野家は繁田家から牛を譲り受け、一方で鶴野家は牛の餌となるサトウキビを分け与える。そうやって、お互いに持ちつ持たれつしながら、この島で暮らしてきた。

 本土を遠く離れたこの島では、生きるために、誰かを助け、助けられることはあたり前に行われている。今でこそ、都会に比べれば不便とはいえ、食料や日用品が容易に手に入るようになったが、船も飛行機もないような時代には、そうやって支え合わなければ生き抜くことはできなかったのだ。

 この島ではそうした相互扶助を「ユイ」と呼び、その精神を長く紡いできた。

 翔真と力太郎もまた、友情という一点での繋がりではなく、もっと精神的な深い部分で、お互いに支え合って成長してきた。

 だからこそ、力太郎の気持ちは痛いほどわかる。


 闘牛で負けたことが悔しいんじゃない。自分の未熟さが腹立たしくて歯がゆくて、それまで足元を支えていたはずの自信が音を立てて崩れて、どこにも行き場のない気持ちが風船みたいに膨らむのだ。

 春疾風が負け、稜真が大怪我を負い、そして春疾風を文字通り失ったときも、力太郎はそばにいて、くだらない冗談をとばしたり、馬鹿をやったり、いつも通りに接してくれた。だから、今度は自分があいつのそばで笑わせてやる番だ。

 ペダルを漕ぐ足はいつもみたいに軽快ではないけれど、森の香りを運ぶ青い風は、どこか心を穏やかにしてくれる。どんな話をしようか、まだ思い浮かんでもいない。でも、会えばきっといろんなことを話したくなるはずだ。


 サトウキビ畑の風景はやがて、背の低い牧草地帯へと変わる。あちらこちらで牛がのんびりと草を食んでいる。どれも力太郎の家で育てている牛だ。仔牛たちはここで一年ほど過ごし、やがてセリにかけられる。

 やがて食肉となる運命にある牛たち。

 不思議なもので、闘牛が廃牛になると、痛いほど胸が締め付けられるのに、この牛たちがセリにかけられても、胸が痛むことはない。

 同じ命だというのに、人間はなんと勝手な生き物なのだろう。

 その勝手な生き物が、自分の飼う牛が勝負に負けて落ち込むなんて、それはそれで、ひどく滑稽に思えた。


 力太郎の家に到着すると、庭へと回り込み、開け放たれた縁側から家の中に声をかけた。

「リキ、いる? 翔真だけど」

 家の奥からぱたぱたと足音を立てて現れたのは力太郎の母、カツ子だった。

「あげぇ、翔真君いらっしゃい。力太郎、さっき桃華ちゃんが来て、一緒に出て行ったみたいよ?」

「え、そうなの?」

「ちゃー。もう一人、おばちゃんが知らない女の子と一緒に。桃華ちゃん以外の女の子が来たの初めてで、おばちゃん、はげぇー、びっくりしたがね!」


 若葉だ、と咄嗟に翔真は思った。


「どこ行くとかいってた?」

「さあ。でも、自転車は置いていったみたいだから、歩いて行けるところかしらねぇ。まだ三十分もたっとらんし、そのあたりにおるかもしらんね」

「わかった。ありがとう」


 翔真は礼をいうと、自転車のところへ戻る。途中、母屋に隣接する牛舎をのぞくと、ももタロは特に疲れた様子もなく、のんびりと餌を食べてた。その姿に翔真はほっと胸をなでおろした、この様子なら、十分に休養をさせればまだまだ戦えるだろう。

 力太郎の家から歩いて行ける場所なら、二見灘漁港か、クバネ崎展望台だろう。ただ、展望台はここからさらに歩いて山を登る。あの力太郎がそんな場所に好んで行くとは到底思えなかった。

 スタンドを蹴り上げてサドルにまたがると、翔真は急いで二見灘魚港を目指した。


     ♉


 力太郎の家から坂を下った先にある二見灘漁港は、島の東側の外洋に面した港で、長い堤防に囲まれた港の中は、青空を映してガラス細工みたいに鮮やかなエメラルドグリーンに輝いていた。海中へと続くスロープには船台に乗せられた漁船が一艘。よく手入れされた白い船体が空と海の色によく映えて美しかった。

 漁港のそばには大きな芝生広場があって、イベント用のステージもある。町内の運動会や祭りが行われるとき以外は、使われているのを見たことがない。

 その芝生広場には力太郎たちの姿はなかった。


「クバネ崎だったかな……」


 独り言ちてステージの上から周囲を見渡す。いつもなら、ここで遊ぶ子どもたちの姿があるのに、今日に限っては、みんな三津間コロセウムへと闘牛観戦に出ているのか、ひっそりとしている。

 漁港の堤防は翔真の背丈の倍近くある。その端に手製のはしごがかかっているのを見つけ、翔真は堤防の上によじ登った。初夏を思わせる生ぬるい潮風が翔真の頬を撫でる。

 外海と港を隔てる長く伸びた堤防の一番先に、小さな三つの影を見つけた。

 ビンゴだ!

 小さくガッツポーズをして、翔真は堤防の上を駆け出した。

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