第三章 闘牛がしたい
第20話 出会い
気象庁が例年よりも早く奄美・沖縄地方の梅雨明けを宣言した六月後半。
夏の匂いをたっぷりと含んだ日差しが降り注ぎ、野鳥のさえずりに混じって、気の早い蝉の声がちらほらと聞こえ始めていた。
翔龍若力を学校の裏山に散歩に連れ出していた力太郎は、牛舎に戻ってくるなり椅子にどかりと腰を下ろし、首にかけたタオルで額から滝のように流れる汗をぬぐった。
「後は頼んだ、翔真」
力太郎から綱を受け取った翔真が、それを杭につなぎ止め、それから、水道に繋いだホースを延ばしてきて、洗車をするように若力の背中から水をかける。よほど暑かったのか、若力は気持ちよさげに目を細めた。
この学校の文化部は大半が部室を持っておらず、教室や特別教室を借りて活動をしている。生物部も部室はなかったが、牛舎の中に勝手に椅子と机を持ち込んで部室替わりにしていた。ただし、小さな扇風機が一つだけの牛舎は、快適とはいいがたかった。
若葉は二リットルのペットボトル茶を紙コップに注ぐと、椅子に座ってファッション雑誌を読みふけっていた桃華に差し出した。
「お茶どうぞ、桃華ちゃん」
桃華は生物部に入部はしていなかったけれど、週に二度ほど、こうして牛舎をたずねてきては、特に何をするでもなく、本を読んだり、携帯をいじったりして過ごしていた。
「ありがとう、若葉」
桃華が受け取った紙コップには目印に大きく「桃」と書き込んである。若葉自身も「若」と書いたコップにお茶を注ぎ、こくんと喉を鳴らして飲み干した。
「若力の調教もかなり慣れてきた感じはあるし、そろそろ実戦メニューを組まなきゃな」
若力をブラッシングする翔真に視線を送りながら力太郎がいう。すると雑誌を見ていた桃華がちらりと顔をあげた。
「実戦って、相手はどうするつもり? 校内はもちろん、三津間の街中じゃ牛を飼ってる人、少ないわよ?」
「そこで、ワッキーにちょっとお願いがあるんだけどな」
「え? わたし?」
突然、名指しされて、若葉は声を裏返した。思わず振り向いたせいで、力太郎と翔真のコップに注いでいたお茶をこぼしてしまった。
桃華が眉をひそめて翔真を見遣ったが、視線に気づいた翔真は大きなため息をついて、肩をすくめただけだった。
力太郎は悪だくみを思いついた子どものような顔で、若葉を手招きしていた。どことなく不安な気持ちが、入道雲のようにもくもくと成長していた。
♉
若葉は下宿している小林家の前で足を止めた。隣で桃華が心配そうな顔をむけている。
「やっぱり私も付き添おうか?」
「ううん、平気」若葉は首を振る。
「なにも、闘牛馬鹿コンビの無茶なお願いを真に受ける必要なんてないのよ? ただでさえ留学生としてこの島に来て、人間関係ではいろいろと複雑なんだから」
「ありがとう、桃華ちゃん。でも本当に大丈夫だから。それに、わたし、闘牛のことも、牛の飼育のことも、全然二人の役に立ててないから、このくらいのことはしてあげたいし」
「そんなことないわ。若葉がいなければ生物部自体がなかったのよ? あの二人はもっと若葉に感謝しなきゃいけないくらいよ?」
それを聞いてくすりと笑った若葉は、ほんの少しだけ間をおいて、躊躇いがちにいった。
「ごめんね、桃華ちゃん。わたしが余計なことをしたばっかりに、その……二人とのこと」
「ねえ、別に否定するつもりはないんだけれど、若葉はあの牛馬鹿肉団子のどこがいいの? たしかに、おおらかな性格だとは思うけど、恋人にしたいと思うタイプの人種じゃないんだけど」
「そんな! わたし、別に付き合いたいとか……そういうんじゃなくて……ただ……」
語尾が小さくなっていく。
若葉と力太郎との出会いは、彼女が転入してきて数日してからだった。
午前中の授業が終わり、昼休みの教室内はいつもの通りに仲良しグループが集まってお弁当を食べたり、友達同士で連れ立って学食にむかった。
若葉は、廊下側の自分の席でぽつんとひとり座って、小さなお弁当箱を取り出していた。
もともと、人見知りな性格ではあったが、クラスの中には、意図的に彼女を避けようとしている空気があった。どうやら、この学校では離島留学生にあまりいい印象を持っていないらしく、彼女と昼食をともにしようというクラスメイトはいなかった。
「翔真、飯行こうぜ!」
突然、そばの窓に真ん丸に棒線を引いたみたいな顔が出現して、若葉はびっくりして体を引いた。
「お、見慣れない顔がいるな。転校生か?」
「離島留学プログラムで東京から来たんだ」
クラスメイトの一人が、彼に近寄りながら答える。
「そっか」
彼は廊下から教室の中に入ってきて、若葉の正面に立った。
突然、大柄な図体をした男子生徒に見下ろされて、若葉は捨て猫のように怯えた目で彼を見上げた。彼はニッと口を舟形にすると、右のこぶしを突き出した。咄嗟のことに、若葉は思わず目をつむって体をこわばらせた。
一瞬殴られるのかと思って体を強張らせたけど、どこにも痛みはなかった。恐るおそる目を開けると、目の前に突き出された右手は親指と人差し指がぴんと立っている。ゆっくりと視線をその先にある顔にむける。彼は屈託なく笑っていた。
「俺、繁田力太郎。君、名前は?」
「三木……若葉……です」
「若葉か。じゃあ、ワッキーだな。よろしく!」
ぐい、とこぶしをさらに前に突き出す。
「知らねえか? ほら、こうやって親指と小指を立てると牛の角みたいだろ? 俺と同じようにして、ぶつけてみろ!」
若葉が不安げにこぶしをそっと合わせると、彼は満足げに微笑んだ。
「これで俺たちも友達だな」
「ばっかみたい。リッキーが考えた挨拶を、昨日今日やってきた転校生が知ってるはずないでしょ? こんなやつ、相手しなくていいわよ」
横から鋭い声が割り込んだ。窓側の席から、長い茶髪をかき上げながら、女生徒が近寄ってきた。
「なんだ、モモ? 俺が見知らぬ女の子としゃべったから、ヤキモチ焼いたのか?」
「焼くわけないでしょ。あのね、こいつチョーゼツ単細胞人間だから、マトモに受け答えしちゃだめよ?」
「あ、あの。でも……」
「あー、気にしないで。私はこいつの幼馴染の龍田桃華。こいつに困らされたら、いつでも私にいって」
「酷えなぁ。ところで、ワッキーは離島留学生らしいけど、今はどこに住んでるの?」
「三津間の小林さんの家に里子というか……下宿のかたちで……」
「小林って
若葉がこくりと首を縦に振ると、力太郎は感心したように「へぇ」と声をあげた。
「まあ、立ち話もなんだし、ワッキーも一緒に飯行こうぜ。な、翔真。いいだろ? あいつも俺の幼馴染で鶴野翔真だ。それじゃあ、さっさと飯に行こうぜ! 腹が減りすぎて、こんなにひっこんじまった」
ぽてっとしたお腹をパンと平手で打ってみせ、「さあさあ」と有無もいわさず若葉を立ち上がらせると、力太郎は後から彼女の両肩を押して教室の外へと押しやる。若葉は焦ったように振り返った。
「あ、でもわたし、お弁当が……」
「翔真! ワッキーがお弁当持ってこいってさ!」
「わたし、そんなことは……」
しどろもどろになる若葉に、三人は声をあげて笑った。それは、彼女への偏見など微塵もない、ごく普通の友達同士が交わす愉快で気持ちのいい笑い声だった。
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