第29話 宣戦布告


『三木若葉は七万円で売られたヤンチュ』


 チョークを横にして書いたらしい太い文字で黒板の幅いっぱいにそう書かれていた。翔真が無言のまま黒板に駆け寄り、黒板消しでその落書きを乱暴に拭い取った。


「リキ、お前の教室も……」


 翔真のいわんとすることを理解して、力太郎は教室を飛び出し、そしてすぐに戻ってきた。


「あっちもだ。もしかしたら一年と三年にもあるかもしれん。翔真は一年の教室見てこい。俺は三年に行く」

「わかった。桃華は若葉とここで待ってて。大丈夫、こんなくだらないイタズラをした犯人、すぐに見つけてやるから」


 力太郎と翔真は慌ただしく教室を飛び出していった。

 結論からいえば、普通科と農芸科のすべてのクラス、そして一部の特別教室にまで同じ文言の落書きが書いてあった。力太郎も翔真も突然のことに苛立ちと怒りを隠せずにいられなかった。


「こんなこと、絶対に許さねえ。必ず犯人を捕まえて、罰を受けさせてやる」

「繁田くん、別にいいよ……わたし、気にしていないから……」

「いいわけねえ! それに、今やめさせないと、もっとエスカレートするかもしれないだろ!」

「大丈夫。若葉はなにも悪くない。あんなこと、誰も思ってないわ」


 桃華はそういったけれど、クラスメイトの中には、二年前の放火事件のことをいまだに口にしている者がいることは事実だった。若葉の下まぶたにたまった涙が一滴、彼女の頬を伝い落ちた。

 ヤンチュはかつてこの島が薩摩藩による統治下にあった時代に、借財によって身売りせざるを得なかった島の農民のことだ。落書きの主はそれを意識して、わざと「七万円で売られた」という言葉を用いたのだろう。


「離島留学制度では、受け入れ先家庭に国から毎月七万円の助成金が出るの。たぶんそのことなんだと思う」

 桃華が差し出したハンカチを受け取って若葉は目許を拭った。

「でも、変よ。ヤンチュというなら、売った側と売られた側の関係が逆よ。若葉の両親が留学制度で七万円を手に入れたというのならわかるけれど、小林さんが自治体から七万円を受け取っているのなら、若葉をヤンチュと呼ぶなんて当てはまらないわ」

「違うな。この場合、七万円を受け取っているのは清正オジじゃない」

 力太郎が真剣な声でいった。

「じゃあ誰?」

「七万円を受け取っているのは……俺たちだ」


     ♉


 力太郎は一年生の教室の前で登校する虎徹を待った。間もなく予鈴が鳴ろうかというころに、ようやく虎徹は姿を現した。左肩でスクールバッグを担ぎ、のろのろとした足取りで通り過ぎようとしたのを、力太郎が呼び止めた。


「あれぇ、生物部の繁田先輩じゃないっすか。どうしたんすか、そんな怖い顔して」

「単刀直入にきく。校内のいたるところに三木若葉を貶める落書きを書いたのは、お前か?」

「そういうからには証拠があるんだよね?」

 にやけ面で虎徹が問いかける。しかし力太郎は首を振った。

「証拠はない。ただ、若葉をヤンチュ呼ばわりするってことは、俺たちが清正オジに調教を受けることに反感を持ってるヤツだとは想像がつく。消去法でいけば、お前以外に思い当たらない」

「ふぅん。それで、どうしようっての? 怒りに任せて殴ってみるか? いっておくけど、ここは学校内だ。証拠もなく、犯人だと決めつけて下級生をぶん殴れば、学校は間違いなくあんたや、生物部を処分するぜ」


 ゲームを楽しんでいるような品性を感じさせない笑み。それに、この好戦的なのにどこか虚ろな目が、力太郎に嫌悪感を抱かせた。


「お前は何を企んでる」

「とんでもない。牛主たちの中には、アンタらが清正オジの調教をタダで受けることに反感を覚えるやつもいるんだよ。当然、この学校の生徒たちの中にもだ。だから、教えてやったんだ。生物部は、三木若葉を差し出して、その助成金でちゃんと清正オジに支払ってるんだってね。親切心だよ、わからない?」


 力太郎の中で、怒りとも恐怖ともいい難い感情がふつふつと湧き上がってくる。こんな男に、まともな闘牛なんてできるものか。


「しかし、あんた、マジでダセえよな。ももタロを手放したんだろ」

「……ももタロは俺が信頼できる人に預けたほうが、いい成績を出せると思ったから譲渡した。それだけだ」

「要するに、調教師として自分が劣ってるって認めてんだろ。自分の牛もろくに育てられないくせに、お情けで試合で出してもらって。それも結局、三木若葉を身売りして調教してもらって。ダサすぎるだろ」

「俺のことはなにをいっても構わねえよ。けど、部のやつらは関係ねえだろ。何の恨みがあるのかは知らねえけど、翔真や若葉に関わるんじゃねえ!」

「そりゃあ、何ともお優しいことで。まあ、オレは邪魔になるものは排除したいだけなんで。じゃあ、そういうことで。ダサ太郎センパイ」


 薄気味の悪いほくそ笑みを浮かべて、虎徹は一年の教室へ入っていった。ちょうど、そのとき鳴った予鈴のチャイムが、何かを告げているようで、力太郎の心がざあっと波立った。

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