エピローグ 決戦前夜
「翔真! モモ! こっちこっち!!」
バスの待合所と見紛うほど小さな平屋建ての空港の到着ロビーを出た先、無駄に広い駐車場へと続く歩道の上で力太郎が手を振っていた。
成人式以来、二年ぶりに見る彼はさらに巨大化していた。あごを覆うように生えそろったひげのおかげで、森の中で出会えば熊か猪と見間違えそうだ。
「よう、リキ。ますますでかくなったな!」
親指と小指を突き立て、牛の角に見立てたこぶしをお互いにこつんとぶつける。
「お前こそ都会かぶれになりやがって。それにしても、モモはすっかり有名になったなぁ。雑誌のモデルをしながらファッションブランドまで立ち上げちまってよ。あ、モモじゃなくてTOKAって呼んだ方がいいのか?」
「やめてよ。リッキーにそう呼ばれるの、違和感しかないんだから」
胸の前でゆるく腕を組む桃華が顔をしかめたが、頬がほんのり色づいている。
横に流した長い前髪と対照的に、襟足は短く詰めたボーイッシュなヘアスタイルで、高校生の頃のトレードマークだった、ハーフアップツインテールは見る影もない。
ノースリーブのサマーニットに、黒をベースにしたタイトスカート。首元はピンクの差し色のあるストールを緩めにまいていていた。
「とりあえず乗れよ。続きは移動しながらでいいだろう」
力太郎は一世代前の軽自動車のバックドアを開けてキャリーバッグを積み込むと、運転席に体を押し込んだ。後部座席で桃華が笑い声をあげた。
「リッキー、車のサイズ間違えてるわよ」
「いいんだよ! しがない生産農家は贅沢しないんだ」
か細い悲鳴のようなエンジン音をうならせて、軽自動車が発進する。こころもち運転席側に傾いている気がした。
駐車場を出て海岸線に出ると、青く輝く海が視界いっぱいに広がった。かつては毎日のように眺めていた海も、久しぶりに見ると、驚くほどに青く澄んで、巨大なサファイアのような美しさだった。
「翔真も就職が決まってよかったな。しかも名の通った大手企業だし、これで安泰だな」
「ようやく、リキや桃華においつけたってだけ。桃華はプロモデルとして活躍して、今や『Pêche(ペシェ)Brillant(ブリアン)』のプロデューサー兼チーフデザイナーだし、リキは奥乃島ポークの養豚で共進会の最優秀賞を取って、全国の有名高級料理店も認める養豚農家だ。おれだけだよ、そういうのがないのは」
「なにいってるのよ。私たちはいつ食いぶちに困るかもわからないような世界で生きなきゃいけないのよ? よっぽどショーマのほうが堅実で賢い人生の選択をしてるじゃない」
「そうだぜ。万が一、モモのブランド展開が失敗したら、翔真の嫁にもらわれろよ」
「縁起でもないこといわないで!」
後部座席の桃華が力いっぱい力太郎の頭を引っ叩いた。
力太郎の自宅前に車を停めると、若葉が玄関の外まで出てきて出迎えてくれた。腕の中には小さな赤ちゃんを抱いている。桃華がとろりと溶けそうな視線をむけて、子どもの頬を指でつんとついた。
「こんにちは、さくらちゃん」
「さくらちゃん、桃華おねえちゃんですよぉ」
二人して猫なで声でいう。その様子を少し離れて眺めながら、翔真が微笑んでいた。
「リキと若葉が結婚してもう二年か」
「養豚農家の嫁が公務員ってのもなんだか変だけど、まあ、ウチは親父とおふくろがいるし、それに離島留学生がそのまま島で就職したってのも、島愛に溢れてていいじゃねえか」
力太郎は桃華達を玄関先に残したまま、翔真を家の中にあげた。台所で料理をしていたカツ子がひょいと顔をのぞかせ、翔真の顔をみて「あげぇ」と大げさに驚いてみせた。
「まあ! 翔真君、立派になって! おばちゃん、見違えたがね! うちのはお腹周りばっかり立派になって、おばちゃん、いつ出荷してやろうかいって思っとるのよ?」
力太郎は不満げに口をとがらせて「つまんねえ冗談いってんじゃねえよ」と悪態をつく。
居間に入ると、翔真はそのまま縁側まで歩き、庭先の小さな牛舎を眺めた。小屋の入口にはしめ縄が飾ってあった。
「中、見てもいいか?」
「もちろんだ」
翔真は縁側においてあったサンダルを履いて牛舎にむかう。入口をくぐって、中にいた巨大な黒牛の首筋をそっと撫でる。
「ただいま、若力」
若力は翔真の姿を認めると、しきりに尻尾をふりながら「ムウォゥ」と一声鳴いた。
「どうだ、若力は」
牛舎の入口にもたれかかりながら力太郎がたずねた。
「いいね。毛艶も最高で、元気そうだ。それに面構えもすっかり横綱が板についてる」
「だろ? 隻眼の大横綱、翔龍若力。無敵の十二連勝中だ」
二人は若力の前に積んであるコンクリートブロックの上に座る。力太郎の手には焼酎のボトルが握られていた。
「ま、先に一杯やろうぜ」
グラスに注いだ焼酎を手に、乾杯する。一口飲んで、力太郎は懐かしそうにつぶやいた。
「あの夏の大会から、もう五年以上経つんだな」
「それでどうだ? 理事として見る最近の大会の様子は?」
「毎年少しずつだけどパワーアップしてるぜ。なにより、青年部会の連中は活きがいい」
「今は生物部は?」
「さすがに、今は部で闘牛は飼ってないけど、島の固有種の調査と保護をしてるんだって」
「ずいぶんとアカデミックな部になってるじゃないか」
くくっと翔真が肩を震わせて笑う。
「リキの家はもう牛はやってないのか?」
「ああ、豚のほうが儲かるからな」
力太郎がヒヒヒと、品のない笑い声をあげると同時に、入口から「やっぱりここにいた」と桃華の声が飛び込んできた。
「まったく、いくつになっても闘牛馬鹿が治らないんだから」
「モモも一杯やるか?」
「いらない。おばさんがご飯の支度するって。ちゃんと手伝いなさいよ!?」
「わかった、すぐ行くよ」
翔真が立ち上がろうとしたところで、力太郎が「翔真」と呼んで大きなやすりを放ってよこした。それを、あたふたと受け取ると、力太郎がニヤっと笑った。
「実は、まだ角研ぎが半分残ってるんだ。研いでやってくれ」
食卓にはごちそうがずらりと並んでいた。角煮、豚足、とんかつにホルモン。あとは豚骨と呼ばれるスペアリブの煮込み。もちろん、使っているのは奥乃島ポークだ。この分量の奥乃島ポーク、東京でならフルコースで一万円はくだらないだろう。力太郎が肥大化する理由がよく分かった。
「よぉし、始めるか。翔真、乾杯の音頭とれ!」
力太郎に指名されると、翔真は咳払いを一つして「それじゃあ」とグラスを手に取った。
「新年のお祝いと、久しぶりの再会と、それから若力の勝利を祈念して、乾杯!」
「かんぱーい!!」
威勢よく唱和して、四人が高々とグラスをかかげた。
「虎徹も来たらよかったのにな」
一気に飲み干して空になったグラスに、力太郎がおかわりのビールを注ぎながら若葉にいった。
「来月、作業療法士の資格試験があるから、猛勉強中みたい」
「そっか。でも、なんだかんだいって、あいつなりに頑張ってるよな。なんだったっけ、ADSL?」
「全然違うわよ、リッキー。ASD。自閉症スペクトラムよ。まあ、あれも本来なら大問題だったけれど、さすがは奥島会理事長の肥後義虎。見事にもみ消したわね」
「うん。義虎お祖父さんが虎徹君のASDを治療しようとして、日本では未認可の向精神薬を輸入して投薬していたの。どうしても、肥後君を跡取りとして医者にしたかったみたい……」
「でも、カフェインや焼酎を餌に混ぜることなら聞いたことがあるけど、向精神薬を牛に飲ませるなんて、前代未聞だよ」
呆れながら翔真がいう。翔真が見たあの牛のうつろな瞳は、虎徹の向精神薬を牛に投与することで、攻撃性が高まった異常興奮状態だったのだ。
「まあ、一つのことにこだわりが強くなったりするのもASDの特徴みたいだから、肥後君にとっては圧倒的な強さを持つことが、自分の存在価値だったのかもね。鬼虎も威虎も、最終的に薬の影響で逆に闘争心をなくしてしまって、廃牛になったらしいけど」
「まあでも、虎徹なりにケジメをつけようとしたことは、俺は立派だったと思うけどな」
虎徹は自分がおこなったDNA鑑定の検体が、謙三のものではなく義将のものである可能性をメディアに告白した。そのせいで記者が病院に殺到して大変なことになった。メディアはよりセンセーショナルな話題を求めて日本中を走り回る、血に飢えた生き物なのだ。
義将は、しばらく雲隠れしたのち、ひっそりとホームページにお知らせを載せて事態を収拾しようとして失敗。さらなる大炎上が、理事長である義虎の逆鱗に触れたのか、この島よりもさらに南の小さな離島の病院に異動することとなった。当然、妻も虎徹も同行を拒否したため単身赴任だ。
「一番びっくりしたのは、ワッキーのことだな」
力太郎が握りこぶしほどもある豚の角煮に箸をのばし、それを一口にほおばった。
「そうね、若葉はほんとに立派だったわ」
桃華も薄く笑みを浮かべて、若葉を見つめていた。
町長の龍田謙三が会見で、自身に婚外子がいると告白した日。
桃華から若葉の実母を訪ねるといわれ、半ば無理やり翔真たちは東京へとむかった。若葉の母親は、まだ彼女の自宅アパートに住んでいた。
若葉の母親は、懺悔をするように訥々と語った。
彼女は研修医時代の義将と、義虎の議員秘書として働いていた謙三との間で二股交際をしていたのだ。そんななか、彼女は義将の子を身籠った。それが若葉だった。
しかし、義将は彼女に堕胎を迫り、これまでの関係を絶対に公にするなと逆に圧力をかけてきたのだ。一職員である彼女に理事長一族に逆らうことなどできなかった。
そこで、彼女は同時に交際していた謙三に頼ろうとした。ただ、親子関係の立証を求められれば若葉の父親が謙三ではないことが発覚してしまう。そこで、謙三が町長選挙に立候補していることを知り、それを逆手にとった。この秘密を誰にも公にしないことを条件に、養育費を支払って欲しいといい、謙三もそれを承諾したのだ。
若葉の母親は単純に男にだらしがなく、そもそも母親としての資質も覚悟もない女性だった。そんな母親を前にして、若葉は凛とした力強い目をむけていった。
「わたしはもう大丈夫だよ。一人じゃないから。だから、お母さんはもう、わたしのことは忘れて、自分の人生をやり直して、今度こそ幸せになって」
生まれた街も、学校も、家族も、何もかもをリセットして、遥か遠くの離島で暮らす。
そんな決断ができる十七歳の少女が、この東京にいったいどれほどいるというのだろう。
母親を許す若葉を見て、翔真たちは彼女の本当の強さを知った気がした。
「ところで、今日は面白いもの持ってきたんだ」
思い出したように、翔真は鞄から取り出したディスクをDVDデッキにセットした。
キュゥンとかすかなモーター音のあと、テレビ画面にはおなじみのルーレットの抽選画面が映し出され、『鹿児島県奥島郡へ行ってらっしゃい!』というタドコロさんのお決まりの台詞とともにテーマソングが流れる。
「もしかして、ルーレットの旅が奥乃島に来た時のやつ?」
「ご名答」
翔真は桃華にむけて片目をつむってみせた。
もはや様式美である第一町人発見のくだりは、空港から市内にむかう途中にある野菜の無人販売所で、スモモを買っている最中のおばあさんだった。強烈な方言が解読できず、テロップも〇×◇☆※~と無秩序な記号の羅列になっていた。
「あ、ここ、私たちのシーン!」
画面に大写しになった翔真と桃華を見て、力太郎が「若いなあ!」と驚きの声をあげる。
テスト勉強をすっぽかされたという翔真と、それに抗議してバシバシと肩を叩く桃華の映像を見て、「これ、完全に付き合ってるよね?」と、若葉が笑った。
「見て。ももタロが映るわよ」
桃華が画面を指さした。ルーレットの旅は、力太郎がももタロを座間に譲渡する場面を、最後のシーンに編集していた。
桃華が手作りのガウンを、ももタロにかけているシーンが映る。
あざやかな島の景色を切り取ったようなガウンを、桃華は感慨深そうに見つめている。思えば、これが桃華にとっての、最初のデザインの仕事だった。
譲渡式が終わり、テレビ画面はトラックに乗る座間のインタビュー映像となった。ディレクターの『譲渡してもらった牛をどうするのか』という問いに、座間が答える。
『僕は全国各地の闘牛文化が残る場所を旅して、そこで何頭もの牛を見てきた。そんな中、僕はひとつの夢を描いたんだ。それは日本一のチャンピオン牛を決める大会を開くこと。それぞれの地域で一番強いチャンピオン牛どうしが対戦して、真の日本一を決める大会をね。
僕はこの牛を沖縄一のチャンピオンにする。でも、力太郎君は、もっと強い牛を育てるだろう。だからいつか、僕は彼の牛と日本一をかけて戦ってみたいんだ』
ルーレットの旅は座間のこの言葉で終わった。
テレビ画面から視線を少し横にむけると、そこには真っ赤な筆文字で「正月記念特別 闘牛日本一決定戦、翔龍若力(奥乃島) 対 ももタロショーグンZ(うるま市)」と書かれたポスターが貼ってあった。
力太郎との約束通り、ももタロを島一番のチャンピオン牛にした座間が、翔龍若力と日本一の座をかけて戦うために、この島にやってくるのだ。ポスターに記された日付は明日の正午開催となっていた。
「すげえよ、座間さんは。ももタロをチャンピオンにした上に、夢だった日本一決定戦まで開催してしまうんだから」
「ほんとね。でも、絶対に負けないでよ、リッキー。なんといっても、またタドコロさんのテレビ取材がはいるんだから」
「え? 本当に?」
「本当よ。そのために私も島に戻ってきたんだから」
「なんだぁ、撮影を見たくて帰ってくるって、モデルやってるのに、なんでそんなにミーハーなんだよ」
呆れた笑い声をあげる力太郎を、「違うよ、リキ」と翔真が遮った。
「その番組のレポーターをするのが桃華、というかモデルのTOKAなんだよ。『あの村人は今』っていう企画で、桃華が『あのときの町民は、今この番組のレポーターをやってます』ってね。TOKAのテレビ初仕事らしいよ」
目を白黒させている力太郎に、悪戯に成功した子どもみたいに、桃華が無邪気な笑顔でピースサインを送っていた。
力太郎にだけ内緒にしておく、というドッキリは大成功だったようだ。
祝いの宴は一晩中にぎやかに続いた。牛小屋では翔龍若力が「早く寝ろ」といいたげに一声鳴いた。
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