第二章 牛が来た!

第9話 高校教師

 朝からしとしとと絹糸のような細い雨が大地を濡らしていた。

 連休が終わり、闘牛熱に浮かされていた島の熱狂は、嘘のように静まっていた。

 五月の中旬を過ぎるころ、この島は一足早く梅雨を迎える。梅雨が明けるまでの約一カ月半ほどは、週の半分以上が雨だ。

 翔真はレインウェアを着こみ、自転車にまたがる。日課の高校までの約三〇分間のサイクリングだ。いつものようにサトウキビ畑の広がる一本道を走っていると、いつものように背後からベルを鳴らされた。ただ、今日はチンと弱弱しく一回だけ。


「どうした? いつもならうるさいくらい鳴らすのに」

「いつも一回でわかるっていうのは翔真だろう?」

「まあ、そうだけど」


 翔真は横目で力太郎の顔を見る。普段から表情は読み取りにくい男だけど、明らかにこの日は元気がなかった。


「何かあったのか?」

「ももタロの譲渡日が決まった。それでこの週末、挨拶のために沖縄から畜産農家さんと、座間さんが来ることになった」

「へえ。ちゃんとした人たちじゃないか」

「その席に、翔真も立ち会ってくれないか?」

「おれが?」

 驚いて思わず力太郎を見る。力太郎はこくんとうなずいた。

「なんていうか、不安なんだよ。俺一人だと、ちゃんと踏ん切りをつけられるかどうか……けど、お前がいてくれたら、きっと大丈夫だと思うんだ。親父にはもう相談してある。好きにしていいっていわれた」

「そうか? まあ、リキの父ちゃんがいいってんなら……」

「悪りいな兄弟」


 任侠映画みたいなセリフを吐いて、力太郎は右手を突き出す。いつもならピンとたっている親指と小指は、弱弱しく曲がっていた。翔真はそっとそのこぶしに、自分のげんこつをぶつけた。


     ♉


 学校に着くころには、雨はほとんど霧のようになっていた。レインウェアを脱ぎながら、ふと駐輪場の奥にある豚舎が目に留まった。

 この高校の農芸科では授業の一環で豚を飼育しており、この豚たちは最終的には加工業者の手に渡る。食肉加工に出される日には、泣き出す生徒もいるらしいが、豚たちはその後、食肉となって戻ってきて、文化祭の名物『奥乃島ポークの串焼き』となるのだ。しかも、文化祭では毎年ダントツ一位の売り上げをあげるモンスター模擬店でもある。それはそれで、無常さを感じさせる。

 その豚舎の隣にある牛舎へと何気なく視線をむけた翔真が、不思議そうに力太郎にたずねた。


「なあ、リキ。農芸科の連中、牛も飼うのか?」

「さあ? 豚はやってるけど、牛は知らん。なんで?」

「牛舎のまわりがきれいになってる。ちょっと前まで雑草が伸び放題だったのに」

「こんなとこからよく見えるな。用務員が掃除でもしたんじゃねえの? それよりもほら、急がねえと遅刻するぜ」


 力太郎にせっつかれて、翔真は牛舎を気にしながらも、校舎を回り込んで雨の中、昇降口へと向かった。授業が始まると、牛舎のことは頭の中から追い出されていた。高校生は覚えるべきことが多いのだ。


 昼休み、朝の落ち込みぶりを疑うほどの上機嫌で、力太郎が翔真を学食に誘いにやってきた。その体型から察せられるように、力太郎は昼食の時間をなによりも楽しみにしている。飯は楽しく食う、それが彼のモットーだ。

 ところが学食にむかう最中、おなじみのピンポンパンポーンというチャイムに続くノイズ混じりの校内放送が、力太郎から笑みを奪った。


「農芸科二年、繁田力太郎君。農芸科二年、繁田力太郎君。校内にいましたら、職員室のさくのところまで来てください。繰り返します……」


 横を見ると、力太郎が苦い薬でも飲まされたような顔をしている。翔真はきょとんとしてきく。


「リキ、何かしでかした?」

「してねえし! つうか、作先生ってたしか、翔真たちのクラス担任してる先生だろ?」

「うん。クラスのことじゃないとしたら、もしかして、日本史のテストの点数があまりにも悪すぎたとか?」


 思い当たるフシでもあったのか、力太郎は「むぅ」と唸ってあごに手を添えた。

 一緒に来てくれ、と頼まれたので渋々、力太郎とともに職員室にむかう。ただでさえ職員室なんて行きたくない場所なのに、呼出しともなると妙に緊張してしまう。ところが、ドアをノックして中を覗くと、教員たちも昼食をとったり談笑したりしていて、なんだか出鼻をくじかれた気になった。

 さくみのるは四月に三津間高校に転任してきた

先生で、担当教科は日本史で、二年の普通科の担任教員でもある。

 作は翔真と力太郎に気がつくと、少しだけ周囲を気にするそぶりをみせ、


「やあ、すまないね。ちょっと頼みがあってね。ついてきて」


 と手招きをして、二人を職員室から連れ出した。

 わけがわからないまま翔真と力太郎は作を追って校舎を出る。少なくとも、叱責を受けるようなことではないらしい。

 外は霧状の雨が舞っていて、傘をさすほどではないけれど、校舎外に出ている生徒の姿はない。


「いやあ、昼時に悪かったね。放課後はいつもすぐに帰るみたいだったから」

 口ぶりから、どうやら作はこれまで放課後に呼び出しをしていたようだ。

「鶴野君も一緒にいてくれて助かったよ。ところで、お昼はまだだろう?」

「ええ。学食に行く前でしたから」

「だったら、これ」


 作は持っていたビニール袋を力太郎に突き出した。中にはサンドイッチや菓子パンがたくさんと、パックの牛乳、あとペットボトルのお茶が入っている。


「なんすか、これ?」

「いや、もしお昼食べ損ねてたら悪いと思って」

 力太郎は「はあ」と気の抜けた返事をした。

 作は翔真たちからすれば、すこし年齢の離れた兄のような雰囲気で、少し長めの、良くいえば無造作な(悪く表現するなら、だらしない感じの)髪型で、ワイヤーフレームの眼鏡のむこうは、普段通りに呑気な笑顔を浮かべている。どうにも、この作には教師らしさがまるでない。

力太郎が翔真の耳もとで「なんだ?」ときくが、翔真も首を横に振る以外にこたえようがなかった。

 作が足を止めたのは豚舎の隣にある牛舎の前だった。

 翔真が「あっ」と小さな声をあげる。それと同時に、牛舎の中から聞き慣れた「ムォゥー」という鳴き声が響く。


「繁田君に頼みたいことっていうのは、こいつのことなんだ」


 作が見遣った牛舎の小さな窓から、立派な二本の角をはやした真っ黒な頭部がのぞいていた。

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