Per favore lasciami piangere

 不思議な男だった。

 彼は決まって毎週水曜日の夜、そこにいた。

 暗めの照明の店内で、ワインを片手に愛を語り合う恋人たちを押しのけて彼は存在感を放っていた。

 彼の細い指が艶めかしく情熱的に鍵盤の上を踊る、その指使いを見ているだけで体が熱くなる。

 目は彼から離れられなくなり、シャトー・ラトゥールのワインさえも味気なく感じてしまう。

 店のBGMに過ぎなかった彼は、次第に男女問わず視線を集め始める。

 あの仕立ての良いスーツの下に秘められた体を、あの繊細な指使いが私の体を翻弄するのを想像し、吐息が零れた。


 ――彼は、ベッドの上でどんな顔をするのかしら。


 やがて、彼の指先は最後の和音を奏でてゆっくりと鍵盤から離れていくと、店内から拍手が湧きあがった。

 彼はそれには何の反応も示さず、そのままバックヤードへと姿を消していく。

 再び恋人たちが主役となり、私の店を訪れる意味がなくなり、ちっとも減っていないワインを一気に飲み干した。


「美人がそんな酒の飲み方なんてするモンじゃねえ」


 時間が止まったようだった。

 今までこの店の視線を独り占めしていた彼が、私の手からワイングラスを奪い音もなく、カウンターに置きながらも、視線は私に向けられていた。


「どうして・・・・・・」


「いつもああ熱心に見つめられちゃあ、なァ?」


 少し困ったような表情と腰に響くような甘い声に当てられて、急激に顔に熱が集まる。

 気づいていたのだ、後ろからしか見たことなんてなかったのに。


「今日の演奏はどうだった?」


「オペラの曲でしょう? 凄く素敵だったわ、確か曲名は・・・・・・『わたしを泣かせて下さい』」


「詳しいんだな」


「有名だから・・・・・・」


 なんてことはない雑談を交わしつつ、私の手に彼は手を重ねてきた。

 先程まで素晴らしい演奏を奏でていた指が、私の指の隙間を埋め、情熱的に絡めてくる。


「貴女はいつも美しいが、今日は一段と美しい。 ほら、ヘーゼルナッツの瞳が・・・・・・濡れてる」


 返事をする間もなく、キスで口を塞がれて、背筋を切なさが駆け抜けていく。

 息をする余裕は与えられないのに獣のような乱暴さはない、初めてで不思議な感覚のキスに頭が真っ白になる。

 今までの男たちとは次元が違う・・・・・・。 今までのキスがただ、べちゃべちゃと犬のように舐めまわしていただけだと思ってしまうほど、彼の舌使いに骨抜きにされていた。

 もっともっと欲しくなって首に腕をまわすと、彼は私を挑発するように指先で背筋をなぞった。

 触れるか触れないかの絶妙な指使いに、体が跳ねる。

 ようやくキスが終わると、彼は悪い顔を耳に寄せた。


「腰、揺れてる」


 なんとか声がでそうになるのを必死にこらえている様が面白かったのか、彼はクスクスと笑いつつ、今度はその指をとん、と下腹部にあてる。


「もうギブアップかァ?」


「ギブアップするわ・・・・・・、お願い、貴方が欲しいっ・・・・・・」


 我慢できずに、彼の皺1つないスーツのボタンを外したくなる衝動をこらえて胸に飛び込んだ。

 すると煙草と女物の香水の香りと、ほのかに香る汗の匂いに頭がくらくらとした。

 一流ブランドのスーツを着こなし、先程までピアノを弾いていたこの不思議な男は女物の香水を使っている洒落た男だった。


「ねえ、名前は、名前はなんて言うの?」


「名前・・・・・・?」


 ――レオン、って呼ぶといい。


 その晩、私は何度も天国を見ながら、数え切れないほど彼の名前を呼んだ。

 彼は、1度も私の名前を呼ばなかった。







Per favore lasciami piangere――(私を泣かせて下さい)

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