ヒトを喰らうケモノを喰らう人(ケモノ)たち

モドキもん

序章

ヒトを喰らうケモノ

 澄んだ夜の空気は、血の匂いがした。

「いやっ、嫌だああああああああああああっ!」

 悲鳴とともに男の上半身は巨大な顎に食い千切られていた。無残にささくれた断面からは真っ赤な血が流れ落ち、足元に血溜まりが広がっていく。力を失った体が傾斜して倒れ、内臓が零れて飛び散らかった。巨大な口が開閉するたびに、内部からは男の残骸を咀嚼するぐちゃぐちゃと湿った音が聞こえてくる。

 満天の星空からは宝石のように色取り取りの輝きが降り注ぎ、涼しい風が豊かな木々の梢をくすぐって楽しげな葉音を奏でている。

 いっそ幻想的なまでに美しい夜空の下で、無残な捕食が繰り広げられていた。

 周囲に散らばっているのは木の破片。丸太に板を張りつけただけの簡素な家や、家具の残骸。そして同じように、喰い散らかされて肉片となった人体だ。

 長閑なはずの農村は見る影もなく荒らされていた。丸太の家々は軒並み破壊され、道や畑も大穴を穿たれて足の踏み場も見当たらない。作物も同じように倒され、潰されて駄目にされている。

 平穏に日々を送っていたはずの村人は血と肉の塊となって喰い散らかされていた。死体から流れだした血によって村全体が真っ赤に染まっている。

 正気ではいられない光景だ。異界にでも迷いこんでしまったようにすら思える。とてもではないが、つい数時間前までここが人里であったなどとは想像もできない。

 猛獣よけの鋭く尖った木の柵も、なんの役にも立たなかった。

 村人を喰らう生物は小屋ほどの大きさがある。全体的な見た目はタコかクラゲを連想させた。体はやや潰れた球形で、下方から生えた大蛇のようにうねる無数の脚によって空中に支えられている。軟体的な印象に反して表皮は強固な外殻に覆われており、生半可な武器では血を流させることは難しいだろう。体を一周するようにいくつもの口が配置され、それぞれの口が村人を咀嚼しては呑みこんでいく。目に相当する器官は見当たらない。

 怪物は人を喰らう魔獣だった。

 村を壊滅させた魔獣〈ヨロイオオクラゲ〉の周囲に立ちはだかる男たちがいた。手にはそれぞれ錆の浮いた農具や斧、包丁を木の棒に縛りつけただけの即席の槍などを握っている。最も武器として見映えがいいのは電動鋸や猟銃だろうか。身にまとうのも鎧や防弾服などではなく、普段着を兼ねた農作業着だ。

 男たちはそれぞれが誰かの父や夫や兄、子や恋人なのだろう。大切な人たちを守ろうと、恐怖で挫けそうになる心と体を叱咤して魔獣に立ち向かってきたのだ。あるいは、彼らの目的はすでに復讐になっていたのかもしれない。

 しかし男たちは今や四人しか残っていなかった。減った人数は魔獣の胃の腑におさめられている。斧や農具の金属部品も、魔獣の強固な歯と顎の力でキャラメルのように形を変えていく。

 男たちはもはや戦意喪失していた。目には勇敢さの輝きも復讐の炎もない。一様に恐怖の表情で凍りつき、口からは歯の鳴る音が漏れている。身を震わせて立ち竦む者、腰を抜かして後退りする者、失禁する者までいる。

 魔獣の注意が年若い男に向けられた。涎を垂らす口がねっとりと開かれる。魔獣の口腔の内部から、かつて仲間だったものの成れの果てが視線を向けてきた。

「う、うあおああああああああああああっ!」

 男の悲鳴に重なるように背後から足音が鳴り響く。

 生き残った村人たちが反射的に振り向いた。村人たちは最初、後方になにもないことに安堵した。しかしそれはすぐに間違いだと気付く。彼らの背後には守ろうとして、それでも守れなかった村の惨状が広がっているはずなのだ。

 村人たちの視界は黒一色。巨大な影によって景色が覆い隠されていた。

 黒一色が動く。村人たちに向けて一歩を踏みだした。

 近付いてくる黒一色とは反対に、村人たちの視線が上げられていく。景色を覆い隠していたのは生物の腹だった。ヨロイオオクラゲと同じく小屋ほどの大きさがある。黒一色に思えたのは黒い毛並み。体の下からは二本の太い脚が伸びて人間のように直立歩行している。

 黒一色の正体はクマ。魔獣〈ギガントグリズリー〉の威容だ。

「ま、魔獣が二体……っ!」

 村人たちの表情は恐怖から抗いようのない絶望へと落ちていった。体から力が抜けて地べたに崩れ落ちてしまう。

「もう駄目だ……。一体だけでも歯が立たないってのに、二体も相手にして生きていられるわけがねえ……」

 生き残った四人の考えはまったく同じだ。

 ギガントグリズリーはそんな村人たちを無視した。のしのしとした足取りで村人たちの横を通りすぎて、ヨロイオオクラゲへと向かっていく。

 夜空を震わせる大声。ギガントグリズリーの喉から張り裂けんばかりの咆哮が放たれていた。

 咆哮を引き金として、ギガントグリズリーがヨロイオオクラゲに向かって走りだしていく。丸太のような剛腕が振られ、ヨロイオオクラゲの外殻に叩きつけられた。衝撃で外殻が砕け散り、ヨロイオオクラゲの輪郭が歪む。苦痛にあえぐ口からは、人間と同じ真っ赤な血が滝のように吐きだされた。

 しかしヨロイオオクラゲはそれで絶命していない。すぐさまお返しとばかりに大蛇のような脚が鞭となって横薙ぎされる。

 すでにギガントグリズリーの姿は消えていた。

 地上に落ちる影。ヨロイオオクラゲと村人の見上げた先、月を背景にして夜空にギガントグリズリーの巨体が舞っていた。重力など無視したかのように軽やかな跳躍だ。

 ギガントグリズリーの全身が強烈に光を放つ。それは夜空に現れた小型の太陽かと思えるほどに、見上げる全員の網膜を灼いていった。

 ほどなくして輝きの内部から影が飛びだしてくる。影はギガントグリズリーよりもずっと小さく、なにより人の形をしていた。

 人影は空中で円盤のように縦回転。落下と回転の勢いを乗せた蹴りがヨロイオオクラゲの中心へと叩きこまれる。真上からの、そして二度めの衝撃によってヨロイオオクラゲの体が地面に激突。地表が割れ砕け、体の半分ほどが地中にめりこまされる。ヨロイオオクラゲは一度だけ大きく痙攣し、それきり動かなくなった。

「し……死んだのか?」

 男の口からは疑心の声が漏れる。相手は次々と仲間を喰い殺してきた魔獣だ。その死が信じられず、疑うのも当然だろう。

 男は二度三度と包丁の槍でヨロイオオクラゲを小突いてみる。それでもぴくりとも動かないのを確認して、ようやくその死を受け入れた。

「やった……やったぞ! 魔獣が死んだ! 死んだんだ!」

 男たちの口からは次々に喝采と勝鬨が上げられた。

「あ、あいつはなにをやってやがるんだ……っ!」

 しかし歓喜の声は、次の瞬間には恐怖と困惑に変わっていた。男の一人が青い顔で死したヨロイオオクラゲを指差している。正確にはその上に立つ、ヨロイオオクラゲを屠った人影をだ。

 人影の口からは水音が響いていた。滴っているのは真っ赤な血だ。

 人影はヨロイオオクラゲの死骸に歯を立て、肉を噛み千切って呑みこんでいた。先ほどまでは魔獣の口から聞こえていた音が、今は人影の口から聞こえている。

「こ、こいつ、魔獣を食ってやがる」

 男の一人が嘔吐した。周囲に胃液の酸っぱい匂いが広がっていくが、誰もがそんなことなど気にすることができない。

 人影は人間を喰らった魔獣を喰らい返していた。

 それはある種、魔獣に捕食されるよりもおぞましい光景だ。魔獣は人間を喰らって血肉にしている。人影が行っているのは同族食いにも通じる禁忌の行為だ。

「ば、化けものだあっ!」

 男たちの恐怖と敵意の刃が、一斉に人影へと向けられた。

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