一章
モログニエ/天魔獣 ➀
白い波を蹴立て
ただ、内陸育ちの僕には潮の匂いが生臭くも感じられる。長時間の海上移動で今はもう慣れてしまったが。
頭上では「ニャーニャー」という海鳥の鳴き声。見上げると毛玉からクチバシと翼が生えているようなウミヒツジの群れが飛びかっていた。次々と海に飛びこんではクチバシに小魚を銜えて浮上してくる。
目的地は目の前だ。広い大海原の真っ只中に迷子のような孤島が浮かんでいる。
片手を伸ばして、背負った鞄の中から冊子を引っ張りだす。記載された島の地図に従って魚鱗バイクを走らせていくと、目的の桟橋が見えた。徐々に速度を落としながら接近し、魚鱗バイクを接岸させ、桟橋に足を下ろす。
魚鱗バイクを係留していると、僕と同じように魚鱗バイクを係留する人影が目に入った。グラサンが絶望的に似合っていない男子だ。首に巻かれたネッカチーフは巻貝で留められている。口笛を吹いて綱を結んでいるが、結びかたを間違えたらしく、首を傾げては何度もほどいて結んでを繰り返している。
海風に背中を押されながら波止場を歩いていく。真新しい学校指定の靴はまだ硬い。
波止場の先はなだらかな坂となっている。山を切り崩して海岸を埋め立て、そうして整地した平地に居住区が、元々は山だった小高い丘には校舎が築かれている。この島は一つの学園とその関連施設で占められているのだと、入学案内の冊子に書いてあった。
坂道の左右では防風林を兼ねた並木が海沿いに伸びていく。今日はいい天気だ。
「あんな木陰で昼寝できたら、気持ちがいいんだろうなあ」
我ながら馬鹿らしい言葉が口を突いて出てきた。言ってから激しい自己嫌悪で唇を噛む。
脳裏に蘇るのはいくつもの顔だ。汚い髭面で土臭い親父に、丸顔で温厚な母さん、鼻水を垂らした妹。お隣の夫婦に、妹の友達だったヤンチャな女の子。同年代でよく一緒に行動していた馬鹿な友達に、紅一点の大人しい少女。兄貴分の兄ちゃんに、その兄ちゃんを尻に敷く肝っ玉の据わった美人の嫁さん。次々と浮かんでは消えていく。
僕はもう、あの穏やかで退屈だった日常には戻れやしないのに。
坂道を進んでいくにつれて、僕と同じ学生服に身を包んだ連中がちらほらと目に入ってきた。僕は着慣れない制服の襟元を緩めて一息入れる。
「おい、見ろよあの特待生章」
「もしかして、あいつがディノ・クルスか?」
「エルビキュラスの惨劇で唯一生き残ったっていう」
「天魔獣を追い払って特待生になったやつだっけか」
ひそひそとした噂話が僕の耳に聞こえてきた。食い縛った歯が軋みを上げる。
思いだしたくなんてない。だけどあいつらの無遠慮な話し声で否応なく思いだしてしまう。僕の生活が、故郷が、天魔獣によってすべてを奪われてしまったあの日のことを。
「よし、石を投げよう。手当たり次第に投げよう」
決意した僕は、なるべく殺傷力の高そうな大きくて硬くて尖っている石を探すために周囲を見回そうとした。
「言わせておけばいいさ」
そのとき気楽な調子で肩を叩かれた。振り返ると金髪にピアスの、いかにもチャラそうな雰囲気の男が僕の肩に手を置いていた。
「あいつらは天魔獣を見たことがないから気楽に言えるんだ」
「君は? あと正直馴れ馴れしい」
僕はチャラ男の手を払いのけた。チャラ男は「お前結構辛辣なのな」と苦い顔をする。
「俺はケビンス。お前と同じ新入生さ」
ケビンスは白い歯をキラーンと輝かせながら言った。その歯を無性に折りたい。
「そうか。これからよろしくだね」
「おう。よろしくだ」
陽気に笑うケビンスの顔には、それだけではない翳りがあった。彼が特待生である僕とよろしくしたいという魂胆だけで近付いてきていたならば、僕は特待生という看板にものを言わせたあることないことの吹聴で彼を社会的に抹殺していたことだろう。そして歯を折っていた。
しかし彼も僕と同じく、奪われた者の目をしていたのだ。
「俺たちにはこの学校にこなくちゃいけない理由があった。違うか?」
ケビンスの神妙な言葉に、僕は顎を引いて頷く。
僕たちの目の前には門がある。門には『聖ヴォルフガング学園 入学式』という立て板がかけられていた。
僕は二度と、天魔獣に奪われないための力が欲しい。
ここは天魔獣と戦う戦士を育てるための学校。僕が力を手に入れるための場所だ。
聖ヴォルフガング学園。大陸から高速艇で半日ほど離れた絶海の孤島に建つ戦士の養成機関だ。島には正式名称があるのだけれど、誰からも学園島とだけ呼ばれている。
主な移動手段は月一の物資運搬を兼ねた定期船に乗るか、僕のように付近を通過する船から途中下船して単独で渡航するか。
設立は六十年ほど昔。第五次大陸戦争時代の研究施設を再利用する形で開かれた。今も校門を抜けてすぐの前庭から、初代学園長であるアルバート・ヴォルフガング・キューリアスの偏屈像が生徒たちに睨みをきかせている。
年間で輩出される何十人もの卒業生たちが軍や民間企業、傭兵の真似事などで活躍している。
そう、何百人もの入学生に対して、卒業生は数十人だけ。その数字がこれからの学園生活の過酷さを物語っていた。
僕たちは彼女の異様さに言葉を失ってしまった。講堂に集まった新入生の全員が、だ。
講堂は階段状の緩やかな擂鉢構造になっていて、中央の一番低い場所にある舞台には教師たちが並んでいる。よくある入学式の光景だ。
舞台を進んでいく女子生徒は車椅子に座っていた。それだけで脚が不自由なのだとわかる。右腕は失われ、短い袖が車椅子にあわせて痛々しく揺れていた。左目にはアサガオをあしらえた眼帯。赤い髪はまるで燃え盛る炎のようで、逆に瞳は清流のように淡い水色。
今にも息絶えてしまいそうな様相とは裏腹に、決して手折られることのない凛とした気丈さのある女性だった。
「続いて在校生代表、生徒会長ゼヒルダ・ハーネストの挨拶です」
事務的な進行に沿って、ゼヒルダ生徒会長は力をこめて車椅子から立ち上がった。付き人らしき女子生徒の介助を拒否して、よろよろとおぼつかない足取りで舞台の中央まで歩いていく。
そしてなにを思ったか、彼女は全新入生の前でいきなり服を脱ぎ捨てた。講堂中から息を呑む音が聞こえてくる。
豊満な胸に、引きしまった腰。申しわけ程度に張りついた扇情的な下着は、思春期の少年少女にとって抗いがたい誘惑だ。しかしそれらが僕たちの目を奪ったのではない。
彼女の体は傷だらけだった。全身に大きな古傷や火傷が広がっている。端的に言うと醜悪だ。とても少女の体だとは思えない。スカートまで達するニーソックスも、お洒落のためではなく両脚の傷を隠しているのだと言外に察することができた。
「わたくしの体を目に焼きつけなさい!」
ゼヒルダ会長の凛とした声が講堂に響く。
「あなたがたは天魔獣と戦うために集まった志高き者たちです。なればこそ、天魔獣と戦うという言葉の意味を目に焼きつけなさい」
この学園では実習として天魔獣の討伐を行っている。彼女の怪我もその際の負傷か、または激しい訓練によるものだろう。
「かつてわたくしには何人もの級友がおりました。しかしある者は天魔獣との戦いに倒れ、あるいは挫折して学園を去っていき、今では数えられるほどしか残っていません。わたくしと同じ身になる覚悟なき者は、今すぐここから立ち去りなさい!」
烈火のごとき言葉が僕らに叩きつけられた。新入生の間には早くも動揺が走っている。英雄願望や肩書欲しさに入学した連中は、天魔獣と戦う戦士を育てるという意味を考えたことがなかったのだろう。あるいは考えていたとしても想像力が足りていなかった。そこに現実を突きつけられて臆してしまったのだ。
「なにを今さら、当たり前のことを」
それでも僕やケビンスのように動じていない連中もいた。僕と同じように天魔獣への復讐に燃えるやつ。他者を守ることに使命感を持ったやつ。絶対の自信を漲らせた狩人の眼差しのやつ。最初から覚悟を持って門をくぐった連中だ。
ゼヒルダ会長は服を着直すと、疲れたというふうに車椅子へと腰を下ろした。すぐさま付き人の女子生徒が車椅子を引いて壇上を去っていく。
「凄い人、だったな」
「ああ。あんな女は中々いねえ。女傑ってやつだな」
僕とケビンスは呆けたように呟いていた。
ゼヒルダ会長は隠しておきたい乙女の素肌を衆目に晒してまで、未熟者たる僕たちに戦いの過酷さと残酷さを知らしめてくれたのだ。
僕は一生、彼女のとこの日の出来事を忘れることはないと思う。もしかしたら、僕はこの時点で彼女に魅了されていたのかもしれない。
僕の体は驚くほど素早く飛びだしていた。だけど間にあわない。
異変は講堂の真上、天井から始まった。天井が大きく落ちこんできたかと思うと、底を突き破って銀色の物体が飛びこんできたのだ。銀色の物体は舞台の後方に控えていた教師たちに突っこんで血の挽き肉へと変えていく。
「あ、あ、あああ……」
前方に伸ばした僕の手は、虚しく虚空を彷徨った。
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