③
旧校舎にある地下牢には年月が刻みこまれていた。ひび割れの補修やカビの痕跡からして、少なくともここ十数年のものではない。
学園が設立される以前、この島はキャリバーの研究施設として使われていたという。この旧校舎が当時の建造物というわけだ。研究のために天魔獣を閉じこめておく檻が、そのまま生徒の懲罰房や犯罪者の一時的な拘置所として使われていた。
よく冷たいとか言われるが、南国なので蒸し暑いとすら感じられる。強度と可視性を両立した透明の壁は、天魔獣〈ミラージュパール〉の貝殻から作られたものだ。高レベル帯天魔獣の膂力や鏖力をもってしても破壊できない絶対の牢獄も、経年によって薄汚れ、曇っていた。
無色透明の隔絶の向こう側に少年が立つ。どこにでもいるごく普通の、それでいて確固たる信念を宿した瞳の少年だ。
少年の視線は一直線に、静かに座した上半身裸の美少年を見つめていた。どこか寂しげで、諦観した瞳の少年だ。
「よう」
「やあ」
壁の彼我を挟んで、二人の少年が軽い挨拶をかわした。
ディノは少年との距離感をはかるように、恐る恐ると近付いていく。
「元気…………では、ないよね?」
少年の足元に並ぶ皿には変色した料理が乗っていた。手を着けていないのだ。そういえば三日前よりも少し頬が削げているような気がする。
「……なにも喋らないって聞いたけど?」
「あいつらには人間の言葉が通じなくてな。会話が成立しないんだよ」
少年の頬には暴行による青痣が作られていた。唇の端にはかさぶたが蓋をしている。少年はつまらなそうに自らの頬をさすった。
「……こんな状況でなにを言えばいいのかわからないけれど、とりあえず、初めましてと言ったほうがいいのかな? 僕は」
「知っている。特待生のディノ・クルスだろ」
少年の返した言葉に対して、ディノは(なるほど)と納得した。
(下調べはばっちり、って感じだ。これじゃあ確かに、今回の件に彼が一枚噛んでいるって教官たちが疑うのも理解できる)
だが、ディノは彼を疑ってはいけない。彼には返しきれないほどの恩義があるからというだけではなく、彼の物静かな瞳は今回のように疑われることが日常茶飯事だと如実に物語っていた。世界中の誰もが彼を疑おうと、ディノだけは彼の側に並び立たねばならないのだ。
「ヴェイルだ」
少年はぽつりと呟いた。
「ヴェイル・ゼルザルドだ」
それが少年の名前だと理解するまでに、ディノはいくばくかの時間を要した。「そうか。ヴェイルだね」と復唱したところで、「うん?」と疑問に首を傾げる。
目の前の少年、ヴェイルはなにも喋っていないはずだ。彼自身の名前も含めて、だ。
「お前はまず、自分の名前を口にしようとした。お前とは話が通じると思った。だから俺も名乗った。それだけだ」
「それは……僕を信用してくれたと考えていいのかな?」
「おい!」と、ヴェイルは声を荒らげた。
「言葉にされるとこっ恥ずかしいだろうが。そういうのは口に出さずに心の引出しにひっそりとしまいこんでおけよ」
ヴェイルはぶっきらぼうに言い放ち、間が持たないとばかりに尻を搔いた。
ディノはなんだかヴェイルとの距離がぐっと近くなったような気がした。目の前の少年は恐れの対象でも、忌み嫌う存在でもなんでもない。自分の内心を口に出すのを恥ずかしがるような、どこにでもいる普通の少年なのだ。
ディノは突然に頭を下げた。
「ごめん!」
そして謝る。謝罪の理由がわからずに、ヴェイルは銀色の瞳をぱちくりとさせた。
「僕は君の手柄を横取りした!」
「……手柄?」
「僕の村で、山のように大きな天魔獣を撃退してくれた」
「ああ、あいつのことか」
ヴェイルにもようやく事情が呑みこめたらしい。理解したとばかりに顎を引く。
「捨てた手柄だ。気にするな」
「だけど」
「それにお前は、悪事に利用しようと思ったわけじゃないんだろ?」
「それは、そうだけど……」
まだ承服しかねるという調子で言葉を濁らせ、ディノは床に腰を下ろして座りこんだ。
「だったらそれでいいだろうが。俺が捨てた手柄でも、誰かが拾って有意義に使ってくれるのなら、それはそれで使い道に恵まれたってことだ」
「有意義なんかじゃない!」
ディノの語気は苛立ちをぶつけるかのように荒々しかった。振り上げた拳を床に叩きつける。
「僕は天魔獣から人間を守る力を求めてここにきた! なのに、結局なにも変わらなかった。僕はまた誰も助けられなかった。一歩を踏みだせなかったんだ」
「お前は一歩を踏みだせていたじゃないか」
ヴェイルの声は弟にかけているように優しかった。ディノは顔を上げてヴェイルを見る。
「お前は彼女を助けようとしていた。お前に足りないのは勇気や覚悟じゃない。ただの力だ。力を得るためにここへきたんなら、不貞腐れるのはまだ早い」
「そう、なのだろうか?」
励まされてもまだ、ディノは懐疑的に自己批判を繰り返した。二度に渡る悔恨の経験が深く爪痕を残しているのだ。今のディノに一番必要なのは勇気や覚悟でも、ましてや力でもなく、それは自信なのかもしれない。
「お前に比べたら、俺のほうが臆病で覚悟の足りない人間だよ」
ヴェイルの口からは自嘲の言葉が吐きだされていた。
「俺は飢えていた。口にするものがなにもなくてひもじかった。すぐにでも空腹で死んでしまいそうだった」
ヴェイルは滔々と、在りし日の自分を語っていく。
「ただ、その日だけはいつもと違った。俺の目の前には天魔獣の死体が転がっていたんだ。傍には人間の死体もあって、おそらく相討ちになったのだと思う。誰もが恐れ、忌み嫌う天魔獣も、そのときの俺には山盛りの御馳走にしか見えなかった」
ディノは真剣な表情で、ヴェイルの話に耳を傾けていた。
「さもしい話だ。俺は信念も覚悟もなく、ただ死にたくなくて天魔獣の肉を口にした。例え人間を喰らう魔獣を喰らってでも俺は生き延びたかった。その結果がこれだよ」
ヴェイルは並んだ皿の上から適当に料理を見繕うと口に放りこむ。
「んぐっ!」
直後、便器に顔を突っこんで盛大に吐き戻していた。
ヴェイルの背中が弱々しく上下する。ヴェイルの変化が痛んだ食事によるものでないのは明白だ。ようやくヴェイルは便器から顔を離し、壁に背中を預けて息を整えていく。それから洗面台へと向かい、コップに蛇口からの水を注いで、呷るように喉へと流しこんで一息入れた。
「俺は天魔獣以外を喰うことができなくなっちまったんだ」
ヴェイルの声は痛切だった。疲労と消耗で顔は急激に老けて見える。
「……つらくないのか?」
「逆に訊くが、生きることがつらくないことだとでも思っているのか?」
躊躇いがちに尋ねたディノは、しかしヴェイルから返された問いに面食らって黙ってしまう。
「そりゃあ確かに、毎晩のように天魔獣に喰われた犠牲者が悪夢に出てきて、うなされて飛び起きちまう。喰った直後に吐きだすこともしょっちゅうだ。俺が天魔獣を喰うと知った途端に誰もが掌を返して、あまつさえ刃を向けられたことだって一度や二度じゃない」
「だがな、」とヴェイルは言葉を続けていく。
「そんなものは当たり前のことだ。悪意や暴力に傷つけられたり、意見の相違で仲違いしたり、理不尽に憤慨したり、大切ななにかを失ったり。美味いものを食いたいとか、モテたいとか、金が欲しいとか。眠くてベッドから出たくないとか、家具に小指をぶつけてとんでもなく痛かったりだとか。俺の事情もそんなもんと同じで、普通に生きていればぶちあたる問題の一つでしかない。だから俺は天魔獣を喰らってでも生きていくことに、なんの疑問も後悔もない」
鋭い刃のような、鬼気迫るほどの信念だった。
ディノは目を細める。目の前の男の太陽のような輝きに瞼を開けていられなくなったというように。そしてその輝きに灼かれてなお、目の前の男を見極めようとするかのように。
「君は強いな」
ディノの口からはしみじみとした言葉が出される。
「僕も天魔獣を喰えば、君のように強くなれるのかな?」
「お前……っ!」
途端にヴェイルの顔つきが険しくなる。
「君の魔身変現の力、あれは天魔獣を喰っているからなんだろ?」
ヴェイルは表情を硬くしたまま語らない。その無言がディノの予想を肯定していた。
ヴェイルはディノの様子に危ういものを感じた。村を壊滅させられた恨みに、二度に渡る失敗の悔しさ。ディノには力を渇望する土壌が整っていた。
「馬鹿なことは考え」
「僕は絶対に天魔獣を喰ったりするものか」
しかして、ディノが宣言したのはヴェイルの予想とは真逆の言葉だった。
「僕は村の皆を天魔獣に喰われた。だから天魔獣から皆を守ろうと誓ったんだ。天魔獣を喰えば力が手に入るとしても、人間を守るための力が不安を与えてどうするんだ!」
ディノはあらん限りの力で言い放った。それは断固とした決別の言葉だ。
「…………っぷ。くくく……」
それは最初、空気が漏れたかと思うほど小さな音だった。徐々に大きくなるに従って、腹の底からの笑い声になっていく。ヴェイルは喉を反らして笑っていた。
「くははははははははははははっ! 面白いやつだなあ。大抵は俺を遠ざけようとするか同情するだけだ。お前みたいに面と向かって拒否してきたやつは初めてだよ」
ヴェイルは「ひー。ひー」と酸欠であえいだ。ディノはむすっとして、拗ねたようにそっぽを向く。
「お前に一つ、話しておくことがある」
ヴェイルの声は穏やかだった。十年来の親友へと、ごく当たり前に声をかけたように。
「今回の騒動、まだ終わっていないぞ」
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