⑤
「……危ういわね」
ディノを指したヴェイルの問いに、女は言葉を探しながら答えていく。
「そうか。危うさか」と、ヴェイルは理解の呟きを発した。ディノにはどこか心を搔き乱すような、目を離してはいけないような、漠然とした不安な印象があった。女の言葉でようやくその正体が危うさだと気付かされる。
「私には彼の人間を守りたいという言葉がどこか空虚に感じられたわ。彼の動機の根源は村人の中でただ一人だけ生き残ってしまった罪悪感や後ろめたさ、つまりは贖罪意識によるものだと思う。だけど彼が守りたかった家族や友人、村の人はもういない。彼の目的と理由は逆転してしまっているのよ。
確かに彼は彼女を救うために飛びだした。けれども私には彼の行動が勇気や覚悟というより、人間を守って死んでいきたい自殺願望や自己犠牲の表れであるように感じられた。だから彼は最終的に、己の身を顧みずにどんな危地へも飛びこんでしまえる」
女が口にした分析に、ヴェイルは「ふうむ」と頷く。
「どうすればいいと思う?」
「そうね……。必要なのは時間じゃないかしら? 普通に生きていれば友人に恩人、それに恋人。守りたい人の一人や二人くらい自然にできていくはずよ。彼に必要なのは失った人間関係ではなくて、これからの人間関係。絶対に生きて帰ってきたいと思わせる人の存在だと思う」
「言い替えるなら生への執着ってやつか」
かつて自分はそれに突き動かされて天魔獣を喰らった。そして天魔獣しか喰えなくなった。それが善であるのか悪であるのか、ヴェイルに判断を下すことはできない。
ヴェイルはふと、隣の女に視線を注いだ。女も視線に気付いて、ヴェイルを不思議そうに見つめ返してくる。
(俺にとっての、お前のような存在が必要ってことか)
「……あの子のことが気になるの?」
ヴェイルの内心も知らずに、女はヴェイルの表情を窺うように覗きこんできた。ヴェイルを見つめるその瞳には、どこか焼きもちのような感情が見え隠れしている。
「いや、なに。あいつは俺とは正反対だと思ってな。信念も覚悟もないのに力だけ持っている俺と、信念も覚悟も持っているのに力だけ持っていないあいつ、ってな」
「そうかな? 私はヴェイルに信念や覚悟がないとは思えない」
「そんなことは……」
「あるわよ!」
女は強く言い放った。ともすれば、それは隣に腰を下ろしているヴェイルが圧倒されてしまいそうなほどの剣幕だった。
「だってヴェイルは、どんなにお腹が空いても人間の肉を口にしないじゃない」
「そりゃ当たり前のことだろうが。腹が減ったからって人間にまで手を出したら、俺は天魔獣と同じになっちまう」
「それよ。普通の人はどんなに決意していても、結局は空腹や生きたさに負けて人間の肉を口にしてしまうと思う。ヴェイルのように耐え続けるのは強い信念がなければできないことだわ」
力説されても、ヴェイルは「……そうなのだろうか」と懐疑的に首を傾げるばかりだ。そんな反応を見せるヴェイルに、女はくすっと微笑む。
「あなたと彼、似ているところが一つあるわよ」
「なんだよ?」
「自分に自信がないところ」
ヴェイルは反論するべく口に開いて、しかしなにも言えずに口を噤んでしまう。確かに彼女の言うとおりなのかもしれない。ディノに一番必要なのが自信だと感じたのは、当の自分が自信を必要としていたからではないだろうか?
ヴェイルは一つ溜め息。
「まあ、なんだ。その……励ましてくれて、ありがとうな」
ぶっきらぼうに礼を口にした。
「どういたしまして」と、女も微笑んで礼を受け取った。
「それにしても」とヴェイルは牢獄の内部を見回した。その目つきはどことなく鬱陶しそうだ。
「どうにも気が滅入っていけないな」
誰が好き好んでこんな狭くて暗くて陰鬱な牢獄に閉じこめられていたいと思うものか。
「だけど私たちの素性は切り札よ。明かして協力を仰ぐことはできない」
「わかっている。内通者はあいつから俺たちの正体を知らされているはずだ。知っているからこそ出してしまう尻尾もある」
それでもヴェイルは「はあ……」と重苦しい溜め息を吐きださずにはいられなかった。
「そうだ!」
と、唐突に女が顔を輝かせた。いいことを思いついたとばかりに手を叩く。
「それじゃあヴェイルが頑張れるように、なんでもお願いを聞いて上げちゃおう!」
「じゃあおっぱい揉ませて」
「即決か!」
女は声を張り上げて立ち上がった。
「もうちょっと他になにかあるだろうが!」
「馬鹿野郎! 男にとって女のおっぱいを揉むこと以上に叶えたい願いなんかねえんだよ!」
ヴェイルは拳を握って力強く力説した。説得力しかない言葉だ。
「私としては、もっと雰囲気を考えてくれるんだったらいつでも触らせてあげるのに……」
「で? 結局揉ませてくれるの? くれないの?」
口を尖らせた女の呟きは、どうやらヴェイルの耳には届かなかったらしい。指をわきわきさせながら女へと詰め寄っていく。
女は拗ねたように視線を逸らした。
「い、今は駄目よ」
「なんで?」
「今日はまだ、シャワー浴びてないから……」
その日、ヴェイルの慟哭は日が暮れるまで続けられたという。
多機能生徒手帳の表示と、目の前の教室を交互に見比べる。どうやらここが自分の教室で間違いないようだ。
「しかし一人だけ遅れて顔を見せるとなると緊張するな」
そうはいっても踏みださなければ始まらない。ディノは自分の頬を二度三度と叩いて気合いを入れると、意を決して扉を開く。
「お、ようやくきたか」
教室に入ると途端に声をかけられた。声の出どころを探すと、二人の男子生徒が目に入る。
「ケビンスにグラサン。同じクラスだったのか」
「そーゆーことだ。ちなみにお前の席はここな」
言って、ケビンスは自らの尻で温めておいた机と椅子を指差した。ディノは仕方なく、隣の席から椅子を拝借する。
「どうして一人だけ遅れてきてんだよ? もう昼休みだぞ?」
「そうだそうだ。俺たちなんか朝からぶっ続けで体力作りの基礎訓練をやらされてたんだぞ」
ケビンスとグラサンが続けざまに疑問と愚痴を口にしてきた。荒波を立てぬようにと、ディノは朗らかな笑顔を形作る。
「いやあ、悪い悪い。ゼヒルダ会長に呼びだされてお茶を御馳走されていたんだ」
「はあっ? なんだそれ? どういうことだ?」
ケビンスとグラサンはわかりやすすぎるほどの困惑顔を浮かべた。
「どうもなにも、言葉のままだけど?」
気楽に言いつつ、弁当箱を取りだす。
「女の人の部屋に呼ばれて、紅茶を淹れてもらってきた、ってだけだけど?」
「それはつまり女の部屋に呼ばれて、紅茶を淹れてもらった、ってことか?」
「だからそうだと言っている」
「だから、女の部屋に呼ばれて、紅茶を淹れてもらったんだろ? 羨ましすぎるだろうが!」
そこでようやく、ディノにもケビンスの言わんとしていることがわかってきた。「あ、ああー」と微妙な声を漏らす。
「ケビンス」
「おうよ!」
「なんていうかその、思春期男子特有の妄想は、周囲に漏らさないほうがいいと思うぞ?」
すでに教室の内部には「あいつ絶対に女子と付きあったことないだろ」「青い。青臭すぎて近寄りたくねえ」「この童貞め」という空気が満ちていた。
グラサンはそっとケビンスの肩を叩いて慰める。
「いやいや、さすがは噂の特待生様。まさか重役登校の理由が女と会っていたからだなんてね」
声は嫌みったらしい悪意に満ちていた。
ディノは弁当箱の蓋を外しつつ、声の方向へと目を向ける。腕を組み立っていたのは、爽やかな好青年然とした男子生徒だ。友好的に浮かべた笑みからは、しかし隠し通せぬ陰湿さが滲みでている。
「そりゃまあ、特待生なもので」
ディノはエメラルドマスの焼き身を箸で挟んで口に運んだ。黙々と木の芽の揚物やカブの漬物など、弁当箱の中身を口に運んでいく。
ディノは疑問符を浮かべた。
「どうした? 昼休みなのに昼飯を食わんのか?」
「無視してんじゃねえよ!」
男子生徒は激高した。怒号とともに唾が飛ばされ、ディノはさっと弁当箱を避難させる。そして苦々しく顔を歪めた。
「面倒臭そうだからこの世に存在しないものとして対応していたのに……」と失敗を口にする。
「お前なんだよ? そもそも誰だ?」
確認のためにケビンスやグラサンに視線を向けてみるが、二人とも「さあ?」「誰?」と存じてはいないようだ。
「オレは隣のクラスのメッシュ。生意気って噂の特待生を冷やかしにきてやったんだよ」
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