二章

聖ヴォルフガング学園 ➀

 足の裏が伝えてくるのは、柔らかく、湿った、肉の感触だった。

 足の裏だけではない。周囲一帯、至る場所、一面に人肉が敷き詰められて真っ赤な草原となっていた。

 地面には肋骨や大腿骨や橈骨や尺骨が並べられて道となり、小石のように眼球が転がっている。内臓の木からは実のように脳漿や髑髏が垂れ下がり、空からは血の雨が降り注いでいた。

 大地も、草木も、雲も、空も、すべてが真紅の世界だ。空気は鉄錆と脂の匂いがした。

 少年は自分の両手に視線を下ろす。白い肌が腕から胸元、そして臍から足まで続いている。一糸まとわぬ全裸であった。

「ここは……」

 見覚えがある。見たくもない景色だ。

「ここはお前の内面世界だ。知っていると思うがな」

 この場には少年の他にもう一人の姿があった。

「精神や魂の世界とか、夢の世界とか、あの世とこの世の境目なんて呼ぶやつもいる」

 少年の前に立つのは少年自身だ。ただし肌は少年の白に対して黒曜石の黒。髪の毛や瞳の色まで黒一色になっている。

「久し振りだな」

「久し振りだな」

 声まで少年と同じだ。どちらがどちらに向けた言葉なのかもわからない。

「……なんの用だよ?」

 少年は苛立ったように銀の髪を搔き毟った。一言たりとも話したくないとばかりだ。

「誤魔化すなよ」

 対して影の少年は他人の神経を逆撫でするような嫌味ったらしい口調で喋る。

「俺はお前だ。お前の心の片割れだ。お前は望んでここにきた。俺に会いにきた。自分の心に嘘がつけると思っているのか?」

 少年は無言。その反応こそが影の言葉が真実であると肯定していた。

「飢えているんだろう? 腹が減っているんだろう? 最近はめっきり食事の回数が減ったからな。当然だ。お前は泣き言を言うために俺に会いにきたんだよ」

「……違う」

 否定の言葉も弱々しい。少年の言い分など耳に入っていないとばかりに、影はけたけたと笑いながら言葉を続けていく。

「だったら喰え。それがお前の本心であり欲望だ。この景色を見ろ。飢餓感の塊じゃないか。俺たちは飢えていた! あのときも! 今も! いつだって! どうしようもなく腹が減って減って仕方ないんだろうが!」

 少年の視線が下ろされ、足元を見る。足元には人肉が転がっていた。ごくりと唾を呑みこむ。

 ここは内面世界、精神の世界だ。夢の中で人肉を口にしたからといって現実世界にはなんの影響もない。実際に腹が膨れるわけでもないし、ましてや誰かが死ぬわけでもない。

 だけど夢の中だとしても、いや夢の中だからこそ、その一線を越えてしまったら終わりだという確信があった。歯止めがきかなくなる自覚があった。

「知っているだろう。俺は天魔獣しか喰えない」

「いいや違うね。天魔獣は人間を喰う。そしてお前は天魔獣を喰う。だったら天魔獣を経由せずに、直接人間を喰うことだって可能だろうが」

「……やめろ」

「人間を多く喰らってきた天魔獣は、それだけ人間の味に近付いていく。お前は人間の味が忘れられないんだろう?」

「違う」

「お前は人間に近いやつらほど美味いと感じていたはずだ」

「ちょっと待て!」

 そこで少年は待ったをかけた。手を突きだし、明後日の方向を見上げて考えこむ。

「俺は、味音痴なんだが?」

 影の少年は「ん?」と首を傾げる。

「美味いも不味いも、そもそも人間の味の優劣がわからないだろうが」

 影の少年は動きを止めた。腕を組み、顔を俯けて、「あっれぇ~? どこで間違えたんだ?」とばかりに考えこんでしまう。

 そしてふっと姿を消した。

「え? あの、ちょ、おい。逃げやがったぞ」

 途方もなく広い血と肉の世界の中で、少年の困惑だけが聞こえていた。

「おーい。ねえってばあー。どうすんだよこれー?」



「……いってきます」

 誰もいない部屋にかける挨拶は虚しかった。ディノ・クルスは室内に視線を投げかけたまま立ちつくしている。沈黙の中から相槌が返ってくるのを待ち望んでいるかのように。一人ぼっちになったあの日から何度となく繰り返してきた行為だが、いまだに慣れることなどない。

 照明の落とされた薄暗い部屋には二段ベッドが置かれていた。本来なら寮の同居人がいたはずが、入学式の騒ぎに立ち会ったことで早々に学園を去ってしまったのだ。

「あの程度で逃げだすくらいなら、一緒に暮らしていてもストレスの元になるだけだ。よしと思いこむしかないか……」

 ディノは自分に言い聞かせるように、声に出して呟いた。気持ちを切り替えるように扉を閉めて、鍵をかける。

「おはよう」

「あ、おう。おはよう」

 ディノが歩いていると、後ろから生徒に挨拶された。よく見れば入学式で見かけたグラサンの男子だった。入学式の日とは違うグラサンをかけているが、やはり絶望的に似合っていない。

 学園へと向かう道すがら、同じように登校していく生徒たちの姿が目に入ってきた。しかしその数はまばらだ。学園を辞めたのはディノの同居人だけではない。実に新入生の二割以上が事件を理由に学園を去っていた。

 入学式にメタルフライシャークの襲撃があったのは三日前。それから合同葬儀と事後処理を終えて、今日がようやくの初登校というわけだ。

 ディノが寮に引きこもっていたこの三日間、学園襲撃事件は連日のように報道番組で流されていた。この件に関して帝国本土は近い内に調査部隊を派遣するらしいが、お役所仕事らしくしばらく時間がかかるとのことらしい。

『ケキョキョキョキョキョキョ! ケキョキョキョキョキョキョ!』

 そのとき電子音が鳴った。生徒たちはぎょっとして音の出どころに目を向ける。

 生徒たちの視線の中心にいたのはディノだった。そこでディノはようやく思いだした。故郷に生息していたオニババマンドラゴラの鳴き声を文書通信の着信音に設定していたことを。

「危うく野性の鳴き声と勘違いするところだった……」

(設定音は考える必要があるな)と思いつつ、ディノは多機能生徒手帳を取りだした。自身の顔写真と生徒番号の表示された液晶画面に指を滑らせて操作を始める。

 この多機能生徒手帳は優れものだ。生徒手帳としての記述がされているのはもちろん、通話や文書通信、電子鍵、学園島の地図や校舎の見取り図、連絡網など、この学園で暮らすために必要な機能のほとんどが最初から搭載されているのだ。

「村にいたときは使う機会がなかったけど、時代は便利になったもんだ」

 しかしと、ディノは疑問に首を傾げた。

 誰からの通信だろうか? ディノが着信の設定音を忘れていたのも、音の鳴ること自体が初めてだからだ。ケビンスやグラサンとも番号を交換していないというのに、誰がディノの連絡先を知っているというのだろうか?

 電子文面にはたった一文。『至急、生徒会長室までくるように』とだけ記されていた。



「失礼します」

 生徒会長室の扉を開けると、そこには下着姿の女子生徒がいた。

(なぜこの人は生徒会長室で下着姿になっているのだろうか?)という疑問が出るよりも早く、ディノは彼女に見惚れてしまった。

 とても綺麗な女性だと思った。すらりとした長身に、女体を強調する健康的な丸み。長い黒髪が白い肌にかかってより扇情的に映る。身に着けた下着も清楚な白。しかし左右で紐が結ばれているのは、彼女のちょっとした冒険心の表れだろうか?

「あっ……あうう……」

 女子生徒の顔が羞恥心によって見る見る赤く染まっていく。顔にかけた眼鏡は、知性よりも可憐さを強調していた。

 本来なら助け船を出すはずのゼヒルダは、執務机に座り、事態を満喫しているとばかりにうっとりとした笑みを浮かべて傍観するばかりだ。

 ディノは制服の上着を脱いで女子生徒へと差しだした。

「ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる。

 それからしばらくは止まった時間が過ぎていった。やがてディノの手から制服の重さがなくなり、慌ただしい足音が去っていく。すぐに扉の開け閉めされる音がした。

「……もういいですわよ」

「ああ、びっくりした」

 ディノは大仰に息を吐きだした。思わず心臓が飛びでるかと思った。鳴りやまない鼓動を落ち着かせるように胸を撫で下ろす。危うく在学中のあだ名が『スケベザル』に固定されそうなほどの窮地だった。

「今度から扉を叩くのを忘れないように」

 新入生に言い含めるゼヒルダは、むすっと頬を膨らませてどこか不満げだ。

「わたくしとしましては、こう、修羅場の一つや二つを期待していましたのに」

(…………まさかわざとか? そのために呼びだしたのか?)

 考えると怖かった。「僕も切腹くらいは覚悟してたんですけどね。あはははは……」と軽薄な笑いでお茶を濁そうとする。

「それでは代わりにわたくしが」

 言うと同時に、ゼヒルダは手元のボタンを『ポチッとな』していた。瞬時に天井から十字架が下りてきてディノを縛りつけ、床からは炎が噴き上がる。

「熱っ? あつっ! あつーっ! なんで生徒会長室にこんな素敵魔女裁判装置が⁉」

「それは、わたくしの趣味でしてよ」

 一点の淀みもなく言いきったゼヒルダは、騒ぎ喚くディノを前にして夏の向日葵のように燦然と微笑んでいた。

 ディノが視線を周囲に巡らせると、鋼鉄の処女や三角木馬、分娩台や全自動鞭打ち機なんかが確認できた。

 業火に炙られながらディノは確信する。この生徒会長はドSだと。

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