目を覚ますと暗黒の空間だった。

「…………は?」

 僕の口からは思わず間の抜けた声が出てしまう。

「え? なにここ? 僕はさっきまで校庭にいて……そうだ、キャリバーを使ったんだ!」

 自分でも混乱しているのがわかる。慌てて周りを見回すと、遥か遠く、上下左右に満遍なく宝石のような輝きが漂っていた。

 周囲を見回す動きで気付いたけど、この空間には立っているべき地面が見当たらなかった。どこにどうやって立っているのだろうかと足元を見下ろすと、途端に前のめりに体勢を崩してしまう。僕の体はその場でくるくると回り続けた。

「上も下もないのか?」

 そして自分が全裸であることにも気がついた。普段の生活ですべての服を脱ぐ場面なんて限られている。裸になるというのは、それだけで不安を感じてしまうものだ。なのに、なぜだかこの場所では、裸でいるのが自然であるように感じられた。

「ここは一体どこだ?」

「ここはお主の精神の世界だ」

 暗黒の空間に重厚な声が響いた。

「魂や夢の世界、あの世とこの世の地平、内面宇宙などと呼ぶ者もいる」

 声は遠く近く聞こえてくる。

「宇宙、だって?」

「そうだ。ここはお主の精神が形作る一つの宇宙だ」

 言われて僕は再び彼方の輝きに目を向ける。宝石だと思えたそれは星々の輝きだった。

「ここは宇宙そのものなのか?」

「ここはお主だけの世界だ。海の世界を持つ者もいる。草原の世界を持つ者もいる。陸のない空だけの世界を持つ者もいる。地獄のような世界を持つ者もいるだろう」

 突如として僕の下方から壁が迫ってきた。いや、下にあるから床なのだろうか? 僕の両足が床に着き、危なげなくその場に立つ。この床は一体なんなのだろうかと視線を巡らせて、気付いた。星々の輝きが帯状に途切れている場所があったのだ。それは床の端から生え、僕を囲むように立つ五本の柱だった。違う。それは五本の指だ。

 僕はようやく、自分が超巨大な存在の掌の上に立っているのだと気がついた。前方、遥か彼方から二つの太陽にも思える眼光が僕を見下ろしていた。

「我らはこの世界に間借りさせてもらう対価として宿主に力を貸している。だが、世界が気に入らなければ住まぬし、我らを内包するには小さすぎる世界もある」

 ようやく声がなにを言っているのか理解できた。つまりそれが魔装と魔身変現の仕組み、キャリバーの適合率なのだ。

 そして目の前の存在の正体もわかった。だから理解できない。

「どうして君たちは、敵であるはずの人間に力を貸してくれるんだ?」

「我らは所詮、カクリ石に吸われた命の残滓だ。精神体や残留思念と呼ばれるものにすぎない」

 声は穏やかに聞こえてきた。真理を述べているからこその、虚飾も誇張もない声だった。

「例え我らのこの想いが残留思念であったとしても、カクリ石の作りだした偽物であったとしても、我らは生きたいのだ。生きていたいのだ」

 声は相変わらず穏やかで、凪のように落ち着いていた。だけど僕には、どこか死に怯える子供のように聞こえていた。

「我々が生を繫ぐためならば、屈辱に塗れようが人間にとて力を貸そう」

 声はそこで「だが、」と区切り、そして続けた。

「果たしてお主の内面宇宙で我を飼いならすことができるかな?」

 途端に、声には獰猛さと傲慢さが満ちていく。

 そうだった。いくら知性があって会話が成立するといっても、目の前にいるのは天魔獣。僕たち人間のことを、牙を突き立てる肉だとしか見ていない人類の天敵だった。

「怯え、震えるがいい。我を簡単に飼いならせるなどと思うてくれるな。お主が我を飼いならせなかった暁には、この世界から飛びだしてお主の肉体を乗っ取ってくれよう」

「…………いいぜ」

 だから僕も、負けないように獰猛な笑みを浮かべるのだ。

「皆を守る力を手に入れられるのなら、この体くらいくれてやる。だけど怯えて震えるのはお前のほうだ」

「……?」

 声はわけがわからないとばかりの困惑を見せた。

「お前が僕を喰いきれなかったそのときは、逆にお前が僕に喰い殺される側になるんだからな」

「…………っふ。はっは……」

 声が最初に発したのは小さな呼気だった。やがてそれは大きな哄笑へと変わっていく。

「はあーっはっはっはっはっは! 面白い! 気に入ったぞ宿主よ! 果たしてお主が我に喰われて消えるか、それとも我がお主に喰われていなくなるのか。確かめてみようではないか!」

 目の前に開いた巨大な口が、僕の全存在を呑みこんでいった。



 いまだ光は目の前で荒ぶっている。光の嵐に耐えるようにヂェゼビードは目を細めた。再誕の瞬間を心待ちにするかのように唇を歪めている。

 やがて光がおさまり、現れたのは巨大な紡錘形だ。それは卵のようにも思えた。

「準魔人級〈カイザーキマイラ〉、ギルズヴェル。当代でも指折りの武人で、私が最もキャリバーにするのに苦労したよき好敵手だ」

 卵が左右に開かれていく。卵のように思えたのは、体の前面で重ねられた二枚の翼だった。

 内部から現れたのは異形。熊ほどもある巨体は、比べれば成人が子供のように見えてしまう。表皮は獣毛と鱗がマダラとなっていた。四本の脚は横一列に並び、順繰りに動かして地面を踏みしめていく。腹部には牙の並ぶ口が開き、胸部には獅子の顔が配置されていた。獅子の口からは獰猛な唸り声が漏れてくる。両肩には白骨化した牡羊の頭骨。巻かれた角は鋭く光る。牡羊の顎下からは太く逞しい腕が伸び、右手にはキャリバーの変形した巨大なハルバードが握られていた。なにも手にしていない左の五指を開閉させて、感触を確かめる。尻尾は大蛇となり、二股の舌をチロチロと上下させている。背負った翼は四枚、全身を覆うほどに大きく広い。顔面は白骨化した山羊となっていて、額にはさらに鷲の顔が続いている。

 無数の生物を無理矢理混ぜあわせたような、滅茶苦茶な造形の生物だった。

 ヂェゼビードの顔には困惑だけがある。

「誰だ貴様?」

 ヂェゼビードの疑問など無視して巨体が飛びだす。今しも生徒たちを蹴散らそうとしていたエルビキュラスの脚がなかばで消失。長大な脚が切断され、空中で円を描いていた。

 エルビキュラスも、ヴェイルも、ゼヒルダもエミーリオもミラジュリアも猫目も、誰も彼もが目を丸くした。

 横手から轟音。巨体が横向きのまま夜間照明に着地し、踏み砕かれた硝子が星屑となって舞い落ちる。間髪入れずに巨体が再び跳躍。あまりの衝撃で照明装置の柱が根元からへし折れた。

 遅ればせてエルビキュラスが夜間照明の方向に顔を向ける。しかしすでに巨体は眼前に迫っていた。ハルバードが振り抜かれ、悲鳴。気球のように大きなエルビキュラスの眼球が縦一文字に切り裂かれ、硝子体が滝のように零れ落ちていく。

 巨体がウサボルトの前方に着地した。

「大丈夫か?」

 ディノはしっかりとした理性の言葉を口にする。どうやら魔装に呑みこまれたわけではないらしい。しかし、魔身変現でもない。

(ではなんだ?)と、ヂェゼビードは腕を組み、首を傾げて思考を巡らせていた。

 ディノは全身を天魔獣に変えているが、魔身変現だとしたら生前の姿を取り戻しているはずだ。目の前に立つ天魔獣はヂェゼビードが知る生前のギルズヴェルではない。直感としてはより人間に近くなっている。

 全身を天魔獣に変えつつ、しかし天魔獣そのものではない。

 ヂェゼビードの首が垂直に起こされる。心当たりが一つだけあった。

「まさかこれは……完全魔装か?」

「完全魔装、ですって?」

 驚愕を滲ませてゼヒルダは鸚鵡返しした。

「なんですか、それ?」

「魔身変現とは似て非なる、キャリバーのもう一つの神髄です」

 耳慣れぬ言葉に疑問を浮かべる生徒たちへと、ゼヒルダが説明の口を開く。

「魔身変現が脳を含めた全身を天魔獣へと変えるのに対して、完全魔装は脳の一部以外を魔装した状態です。特に人間の体構造を基本にしているので、場合によっては魔身変現よりも使い勝手がいい。魔装は本来、この状態を目指して生みだされたのです。ですが……」

「そうだ。理論上は魔装が肉体の五割を超えると天魔獣に呑みこまれてしまうはずなのだ。天魔獣喰いで耐性があるならともかく…………」

 ヂェゼビードの口から「そうか」という理解の呟きが漏れた。

「貴様、最初から混じっているな」

 ヂェゼビードの目には珍獣でも見ているような好奇の色があった。

「貴様の先祖に魔人か、天魔獣を喰った人間がいた。だから完全魔装への耐性があったのだ」

「僕の体に……天魔獣の血が流れている、だと」

 ディノは信じられないとばかりに自らの両手に視線を注いだ。見慣れているはずの両手は、今は見たこともない天魔獣の手になっている。

 ヂェゼビードの言葉を素直に受け入れている自分がいた。それが真実なのだと直感している。

 魔装をしてみて初めてわかったことだが、天魔獣の体が妙に馴染むのだ。異物でしかないはずの翼や尻尾といった器官に戸惑いすらない。まるで長年離れ離れだった半身と再び一つになったかのような一体感があった。

 自分の中には忌むべき天魔獣の血が流れている。今すぐにでも喉を搔っきって、すべての血を出しつくしてしまいたい衝動があった。

「それがそんなに大層なことかね?」

 しかしてヴェイルはディノの葛藤を一言で切って捨てた。進み、ディノの横を通りすぎて、前へと立つ。

「お前の悩みはわかる。俺も一時期は悩んだものだ。人間を喰う天魔獣を喰う俺は、人間でも天魔獣でもないんじゃないか? いつか人間も喰おうとするんじゃないか? ってな」

 一瞬だけ見えたヴェイルの横顔には、どんな理不尽をも笑い飛ばそうとする剛毅さがあった。

「石を投げつけられたこともある。嫌がらせを受けたこともある。この世界から消えてしまいたいと、本気で思ったこともある。

 だけどいつだってどん底にいた俺には、いつだって手を差し伸べてくれた人たちがいた」

 ヴェイルはディノを見た。猫目を見た。対峙するヂェゼビードを飛び越えて、どこかの、いつかの誰かを見ていた。

「あいつらがいたから俺はここに立っている。立たせてもらえた。立っていられる。俺はあいつらのために生きていたくなった。そうしたら気付いたんだよ。簡単なことだった」

 ヴェイルの口元がふっと微笑を零した。

「確かに人間でも魔人でもないやつらはいる。俺もそいつらの仲間なのだろう。だけど、人間を選ぶか魔人を選ぶかはそいつ次第だ。そしてお前の先祖は人間を選び続けてきた。だからお前がここにいる。違うか?」

 ディノは思わず漂白されたように感じた。ヴェイルのたった一言で、今まで忌み嫌っていたはずの血がとても誇らしいもののように感じられたのだ。

「もちろん俺も人間を選ぶ。選び続ける」

 ヴェイルがディノを見た。視線には真摯な問いかけが宿っている。

「お前はどうする?」

「僕は……」

 改めて考えるまでもない。答えは最初から決まっている。腹部の口が、胸部の獅子が、尻尾の蛇が、額の鷲の嘴が、そして白骨化した牡羊や山羊の顔までもが笑みを浮かべた。

「人間を選ぶに決まっているだろうが」

 ヴェイルもディノと同様の、不敵な笑みを浮かべた。

「そして最も重要なことは……」

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