しかし男はすぐに視線を鉄鮫へと戻してしまう。

「やはり俺は味音痴のようだ。ヒレよりも身のほうが口にあう」

 男はぞんざいな動作で喰い残しのヒレを投げ捨てた。男の口元は鉄鮫の血で真っ赤に染まっている。

 鉄鮫が大きく口を開くと同時、電撃の球を吐きだした。対して男は果物包丁ほどの大きさのナイフを掲げ、電撃の球に向けて振るう。繰りだされたのは刃ではなく側面だ。ナイフが電撃の球を受けとめ、振り抜いて弾き返した。電撃の球は主人である鉄鮫に命中し、右の胸鰭二枚を爆散させて肉片へと変える。

 男が手にした小さなナイフは魔身キャリバーだったのだ。

! じん!」

 男は魔身キャリバーを構え、力強く文句を口ずさんでいく。

へん! げん!」

 そして男の全身が光に包まれた。それは僕が今まで見てきた魔装の光とは比べものにならないほど大きく、強い輝きだった。まるで新しい太陽が生まれたかのようだ。僕の全身までもが光に呑みこまれ、溶けていくような錯覚すら感じてしまう。

 そして光がおさまると、男の姿は消えてなくなっていた。いや、そうではなくて、僕が男の姿を見失っていたのだ。なぜなら男の一八〇センチを超えていたであろう長身が今は半分以下、八〇センチ程度にまで縮んでいたからだ。

 ずんぐりむっくりとした全身は茶色がかった毛皮に包まれ、足は長く伸びている。頭の左右からは毛の塊、長い耳が垂れ下がり、尻では短めの尻尾がピンと天を向いていた。前方に突きでた鼻をひくひくと動かすその様は、まさしくウサギそのものだ。

 男は体の一部を天魔獣に変える魔装ではなく、全身を完全な天魔獣へと変化させる魔身変現によって、直立するウサギのような小魔獣へと姿を変えていた。

「……〈ウサボルト〉?」

 僕の腕の中の女子生徒が疑問符を浮かべながら呟いた。

 ウサボルトとなった男の小さな指が魔身キャリバーのナイフを握りしめる。果物包丁の大きさだったそれは、男の魔身変現に伴って短剣ほどの大きさに巨大化していた。しかしそれは人間が手にした場合の表現であって、小柄なウサボルトにとっては身長にも匹敵する大剣だ。

 それでも男は危なげなく短剣を構え、鉄鮫目掛けて切っ先と敵意を固定する。

 今一度確認するが、僕は目の前の男を知っていた。あの日、僕の村が襲われたエルビキュラスの惨劇の日に、彼はあの場所にいたからだ。

 これが僕と、後に生涯の相棒となるヴェイルとの、二度めの出会いの日だった。



 その日は異様に寝苦しい夜だったと覚えている。暑いような、肌寒いような、息ができずにあえぐような、全身を真綿で押し潰されているような。

 今にして思えば、あれは前兆というやつだったのかもしれない。気配や殺気、あるいはこれから捕食される獲物の心境というやつだろうか。

 とにかく夜中に目を覚ましてしまった僕は、水でも飲もうかと台所に向かった。夕食後に母さんが洗ってくれていたコップを手に取り、蛇口を捻って水を受ける。

 僕の住んでいる村は片田舎の農村で、特に名所や名物といったものもなく、ただ水や食べものだけは美味しくて、僕はこの村での生活にそこそこ満足していた。

 もちろん、こんななにもない村での生活に嫌気がさして都会に出ていってしまうやつらもいたけど、僕はなんとなく親父の畑を継いで、地元の嫁をもらって、子供や孫を育てて、この村で一生を終えるのだと考えていた。

「…………あれ?」

 なにかの見間違いだろうか? コップに注がれた水が波を立てたような気がした。

 いや、見間違いなんかじゃない。二度、三度と、水面に波紋が生みだされていく。

「地震、かな?」

 家族を起こしたほうがいいのだろうか? それに村の皆も。だけどそこまで大きくなるとも限らないし…………と考えながら、僕は窓の外に視線を向ける。

 僕は思わずコップを手放していた。コップは流し台に落ちて、粉々に砕けて散った。

 田舎の夜は暗い。どの家も早々に寝静まって一筋の明かりも漏れだしていなかった。星と月の光だけが照らす夜景に小山が見えている。だけどあんな小山は、ほんの数分前までは存在していなかったはずなのだ。

 僕が見ている前で、小山はずしん、ずしんと足音を響かせながらこちらへと歩いてくる。

 僕は生まれて初めて天魔獣の姿を目にしていた。

 大きい。いや、大きすぎる。天魔獣は大きくても小屋ほど、五メートル程度だと聞いていた。だけどどう見ても、窓の外の小山は二十メートルを超える高さがあった。

「お、おや、親父と母さんと妹を起こさないと違う駄目だ隣の家も友達の家族もむらじゅうのぜんいんをおこさなくちゃはやくはやくいそいでいそいでいそがなくちゃ」

 そう気は急くのだけど、僕は立ち竦んだまま一歩たりとも動くことができなかった。下半身に上手く力が入れられず、別の生きもののように震えているだけだ。

 そうこうしている内に轟音が響く。目の前にあったはずの家が消えていた。一口だ。天魔獣は一口で家ごと一家を丸齧りにしていたのだ。天魔獣の口の中で家と一家が噛み砕かれていく。

「うあああぁぁぁああああああああああああああああああああああああっ!」

 気付いたときには、僕は絶叫を上げて家を飛びだしていた。何度も転びそうになりながら、決して広くはない村の中を駆けていく。どこをどれだけ走ったのかはわからない。肺や脇腹が痛くなっても走り続けた。

 立ちどまったら追いつかれてしまうという恐怖が僕を走らせ続けていた。

 そして倒れた。一度足を止めてしまったことで、それまで後回しにしていた疲労が一気に襲いかかってくる。心臓が痛い。両脚は痙攣を繰り返している。顔はどこから出てきたのかもわからない水分でぐちゃぐちゃに濡れていた。

 自分自身が落ち着いてくると、途端に激しい自己嫌悪と罪悪感が襲ってきた。

「逃げっ……逃げてしまった……」

 僕は家族も友人も村の人もすべてを見捨てて、自分一人だけで逃げだしてしまったのだ。親しかった人たちの顔が浮かんでくる。心臓が張り裂けそうで、握り潰されそうだった。

 振り返りたくない。天魔獣によって村がどうなったのか知りたくもない。恐ろしい。だけど僕は、自分自身が犯してしまった行いの顛末を目に焼きつけなくてはならない気がした。

 僕は意を決して振り返る。

 目の前に天魔獣がいた。

 僕の目の前が真っ暗になる。ああ、これが絶望なのかと、妙な静けさがあった。天魔獣は鼻息がかかるほどの近さで僕を見ている。逃げるまでもなく、僕は天魔獣の掌の上から一歩たりとも抜けだせていなかったのだ。

 天魔獣の後方にあるはずの村は消えていた。数十軒もあったはずの家々が消えていた。知人も、隣人も、友人も、そして僕の家族も、村そのものが天魔獣の口の中に消えていた。天魔獣は口を動かして咀嚼を続ける。

 そして唐突に理解した。この天魔獣が夜に現れたのは夜行性だからとかじゃない。獲物が一か所に集まって寝ている家ごと喰らえば余計な手間がかからないからだ。

 これが天魔獣。抗いようのない天災で、人間の天敵。

 最後の一人になった僕を喰らおうと、天魔獣の口が近付いてくる。

「……ふざけるなよ」

 自分でも意識せず、僕の口から言葉が出ていた。魔獣は面食らったように顔を引いていく。

「天災だと? 天敵だと? 冗談じゃない。例えお前たちが理不尽な存在だとして、どうして僕が大人しく屈してやらなくちゃいけないんだ」

 僕の手は地面に落ちていた木の棒を握りしめた。わかっている。こんなものはなんの役にも立たない。だけどこれは役に立つか立たないかの話じゃなくて、僕の意思を体現する道具として、僕は木の棒を構えなければならないのだ。

「僕は逃げだしてしまった。この負い目は背負わなくちゃいけない。だけど僕が逃げる逃げないにかかわらず、お前は村を食いつくしていたはずだ」

 体が寒い。脚は震える。口の中が乾いて唾液が舌にへばりつく。悲しさと恐怖で涙は止まらず、視界が滲んでいる。

「だけど僕は生き残ってしまった。僕だけが生き残ってしまった。だったらやることは一つだ。生き残ってしまった者の責務として、僕はお前に抗わなくちゃいけないんだよおっ!」

 数秒後には、僕は村の皆と同じように天魔獣によって喰われていることだろう。だけど、それでも、僕は死が訪れるその瞬間まで、村人全員の死を背負って戦わなくちゃいけないんだ。

「うおおおおおおおおおおおおっ!」

 僕は叫びながら天魔獣に木の枝を振り下ろす。次の瞬間には、真横から襲ってきた天魔獣の掌が僕の全身を叩いていた。

 体と脳みそと意識が一撃でぐちゃぐちゃに混ぜあわせられるような衝撃だった。思考とも呼べない漠然とした感覚の中で、僕は死んだのだと直感する。

 浮遊感があった。僕の体は飛ばされていたのだ。

 そして二度めの衝撃が全身を襲った。口の中には鉄錆と土の味が広がってくる。おそらく地面に墜落したのだろう。握りしめていたはずの木の棒はどこかにいってしまった。うつ伏せに倒れたまま動けない。全身が痛い。耳が聞こえない。体にまとわりつくような気持ち悪さは、おそらく出血しているのだと思う。

 …………あれ? どうして僕は生きているんだ? 今の一撃で死んだと思ったのに。

「…………か?」

 耳が微かな音を拾った。なんだろう。幻聴だろうか?

「生きているのかと訊いている!」

 違う。今度ははっきりと聞こえた。人の声だ。

 僕は痛みに体を苛まれながらも顔を上げていく。僕と天魔獣の他に新たな人影が現れていた。男は上半身裸で、石膏のように白い肌に長い銀髪、そして瞳まで銀色をしていた。

 男は僕と同じように、天魔獣の腕による一撃を体に受けていた。

 いや、そうじゃない。男は天魔獣の腕を止めているんだ。

 僕は直感的に理解する。男が攻撃に割って入ったせいで天魔獣の一撃は中途半端に終わり、僕は生き延びることができたのだと。

 男の脚が跳ね上がり、轟音を響かせて天魔獣の腕を蹴り返した。天魔獣は自身が巨大であることを自覚していたはずだ。巨大な塔にも匹敵する腕が蹴飛ばされたことに驚愕を浮かべる。

 対して男は犬歯まで剝きだしにして怒りの表情を形作る。だけど僕の目には、男が涙しているようにも思えた。

 ああ、そうか。彼は犠牲になった村人たちのために怒って、涙してくれているのか。

 男が天魔獣へと飛びかかっていく。そこで僕の意識は闇に落ちた。

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