秘書子は周囲の様子になど気付かず、一生懸命な抱擁を続けていた。本当の意味でディノが死んでしまうのは時間の問題だろう。

「ここにいたのか。ようやく見つけたよ」

 声はほとほと疲れきっているという調子で聞こえてきた。視線を向けると、砂浜をゼヒルダの乗る車椅子が進んできている。

 声を発したのは車椅子を押すエミーリオ副会長だ。水着の上に羽織った南国シャツが妙に様になっている。

「まあ! やりましたわねミラジュリアさん!」

 ゼヒルダが心の底からの喜びに声を弾ませた。顔も満面の笑みを浮かべている。ゼヒルダは上半身にシャツを羽織っているが、その下の水着は公然猥褻スレスレの細さだ。男子の健全な妄想が大いに掻き立てている。

「ようやく恋が成就したのですね。陰ながら手助けした甲斐がありましたわ」

「ん? てことは……」

 昏倒から回復したディノは嫌な事実を理解してしまった。数日前のスケベ展開は、やはりゼヒルダのいらない親切心だったらしい。

 それだけではなく、例の呪いだかおまじないに始まり、弁当に入れられた髪の毛や、時折感じる視線までもがゼヒルダの差し金だったのではないだろうか? もっとも、どこまでがゼヒルダの入れ知恵で、どこからが秘書子の素なのか区別はつかないが。

 やり取りを見ていたエミーリオが苦い顔をした。

「恋愛に夢中なのはいいことだが、本来の仕事も疎かにはしないでくれよ?」

 エミーリオの顔には拭いきれない疲労感がこびりついている。

「会長は女性なのだ。私が介助するとなにかとマズい」

「副会長は女の人と一緒にいて嬉しくないんですかい?」

 なにもわかっていないケビンスが調子に乗って尋ねてきた。半面、ゼヒルダの本性を垣間見ているディノは、エミーリオへの同情で顔を濁らせる。

「会長が楽しがって服を脱いだり体をくっつけたりしてくるものだから、私に根も葉もない噂が立ちまくりまくって困っている」

 吐きだされた溜め息は、まるで金属塊のように重かった。

「お金を払うから、頼むから会長の面倒を見てやってはくれまいか? ミラジュリア君でなければ会長のあしらいは務まらんよ」

「ミラジュリア?」

 ディノは首を傾げながら秘書子を見た。

「うん。ミラジュリア」と秘書子は頷いた。

「ミラジュリア・シルヴィアナ」

 秘書子の瞳の明度が途端に下がっていく。

「まさか、彼女の名前を知らなかったの?」

「それじゃあ、ジュリアさんだ」

 ディノは無邪気な顔でミラジュリアへと笑いかけた。ミラジュリアの頬が紅潮していく。

「な、なんだか愛称で呼ばれると、改めて恥ずかしいなあ」

 ディノとミラジュリアは完全に二人の世界に入っていた。ありていに言ってバカップルだ。

「ちっ」「ちっ」

 ケビンスとグラサンは再び裏切り者への軽蔑の舌打ちを放つ。

「ちっ」「ちっ」

 ゼヒルダとエミーリオも色ボケどもへの舌打ちを唱和した。



「楽しそうだなあ」

 旧校舎裏、砂浜に面した岸壁には小さな穴があいていた。穴を塞ぐ網の奥には二つの目。浜辺で騒ぐ六人の様子を、ヴェイルが地下牢の内部から覗いていた。

「我慢しなさいよ」

 声は隣ではなく下方から聞こえてきた。視線を向けると、遠い床には猫目が座っている。

 旧校舎の地下牢は上下に高く設計されていて、天井付近に換気と明かり取り用の小さな窓が備えられていた。

 ヴェイルは張りついていた小窓から手を離して自由落下。空中で縦回転し、羽毛のような軽やかさで床に着地する。埃すら舞い上がらない。

「私だって近くに海があるのに泳げてないんだから」

 猫目は棒アイスを齧りながら携帯ゲームに勤しんでいた。ゲームの操作にあわせて猫目の上半身も激しく動いている。しかし揺れる乳はない。乳はないのだ。

 猫目の体を彩るのはいつものボディースーツではなく、横縞模様の橙色のタンキニだ。本人が言ったように、今すぐにでも海に飛びこみたい欲求を我慢しているのだろう。

 猫目はヴェイルが自分を見ているのに気がついた。

「なに? 食べたいの?」と口に銜えた棒アイスをヴェイルに向けてくる。

 ヴェイルは数日前よりも大分瘦せ細っていた。肌は萎びた野菜のように張りを失い、瞳からも精気が感じられない。

「こんなもの成分の大部分は甘味料と着色料で、あとは水分。甘味料や着色料は生物由来だけど分量が少ないし、なにより厳密には単なる化合物。食べても問題ないんじゃない?」

 アイスを勧めてくる猫目に、「いや、そうではなくて」と、ヴェイルは彼女の体を指差した。

「水着、可愛いな」

 猫目がまばたきする。ヴェイルの言葉を理解するに従って、徐々に頬が緩んでいった。

「今度、暇なときにでも一緒に海にいくか」

「…………うん」

 猫目ははにかむように微笑んだ。ヴェイルも頬を緩めて笑っている。

 しかしヴェイルの視線は猫目から離れていかない。大きな瞳は宝石のように目が離せず、唇は花の蕾のように瑞々しくて、どんな味だろうか。

「ヴェイル……?」

 猫目も自分が凝視されていることに気がついた。危機感を覚えたように胸元を両手で隠すが、それよりも早くヴェイルは猫目を押し倒していた。床に乱れた髪の毛が広がっていく。

 猫目は混乱と羞恥で目を白黒とさせるが、すぐに異常さに気がつく。ヴェイルの両目は焦点があっておらず、朦朧としていた。口からは空腹による唾液がしとどと流れ落ちている。腹からは獣の唸り声のような音が響いていた。

 ヴェイルの鼻がひくひくと動かされる。猫目から漂ってくるのはほのかに甘い女の体臭だ。

 ヴェイルの視線が下げられていく。首は細い。噛みついて歯を立てたなら一瞬で息の根を止められるだろう。すらりとした手足は見た目に反して筋肉が多く、肉本来の味と弾力を楽しめそうだ。乳房や尻は脂肪の甘み。剝きだしの腹部は柔らかそうで、内臓にも食指が動かされる。

 ヴェイルは女の体を隅々まで観察していく。見開かれた両目はぎらぎらと輝き、開かれた口の鋭い犬歯からは唾液が糸を引いて落ちていく。

「いいよ」

 猫目の声は優しかった。両手が伸ばされ、ヴェイルの頬に手を添える。

「我慢しなくて、いいんだよ」

 そして自らの唇をヴェイルの唇に押しあてた。ヴェイルの口に猫目の舌が差しこまれ、ヴェイルも舌を伸ばしていき、二人の舌が絡みあって水音が奏でられる。

 凶暴性に爛々と輝いていたヴェイルの眼光が次第に穏やかさを取り戻していった。安らかな顔は満足感というより安心感を覚えているようだ。

 二人の唇が離れ、唾液の糸が引かれていく。ヴェイルの喉が鳴って唾液を呑みこんでいった。

「少しは落ち着いた?」

「……ああ」

 ヴェイルはぼそりと呟いた。気まずすぎて猫目に顔を向けられない。猫目は一時的な応急処置として、体液で空腹感をまぎらわせてやったのだ。

(今のは完全に我を失っていたな……)

 ヴェイルは限界が近いことを自覚した。

「……猫目」

「なに?」

「しばらくは俺に近付かないほうがいい」

「駄目よ」

 意を決したヴェイルの言葉は即座に切って捨てられた。猫目の指がヴェイルの鼻っ面を弾く。

「自分で無理はしないって言ったのに、結局無理しちゃってるじゃないの。ヴェイルにはもう信用なんてないのよ? 私が見ててあげないとダメダメじゃない」

 語る猫目の言葉は慈愛に満ちていて、駄目な弟を諭す姉のようだった。あるいは悪友を茶化しているかのようだ。

 途端にヴェイルは自分が情けなく、不甲斐なく思えてきた。

 彼女は自分を色眼鏡で見ることなく、自然体で接してくれた数少ない人物だ。周囲に恐れられ、蔑まされ、荒れていた時期を彼女に救われたと言っても過言ではない。

 彼女になにかを返したかった。役に立ちたかった。なのに、気がつけばいつも助けられているのは自分のほうだ。

(結局、依存しているのは俺のほうか)

 こんな体たらくで自信を持てと言われても無理な話だろう。

「なんか、悪いな」

「気にしてないよ。ヴェイルを手助けするのが私の役目だからね」

「そうじゃなくて、こんなのが初めてで悪かったな」

「…………あ」

 言われてようやく気付いた。これがヴェイルとした初めての口付けだったのだ。

「ノーカン!」

 猫目は慌てて体の前で両手を交差し、巨大なバツ印を形作った。

「今のは緊急手段だったからノーカン!」

「お、おう」

 有無を言わせぬ猫目の気迫に押されて、なかばなし崩し的にヴェイルは頷いてしまった。

「……だけど我慢できそうになかったら、いつでも迫ってくれていいんだからね?」

 そうと小さく呟いた猫目の頬は上気していた。心なしか瞳は潤んでいるように思える。

 ヴェイルは少し考えてみた。(これは誘われているのだろうか?)と。

「それじゃあ早速」と、ヴェイルは猫目の顎に手を添えて上を向かせた。

「えっ? 今?」

「おう。今だ」

 猫目の困惑など歯牙にもかけず、ヴェイルは強引に顔を近付けていく。猫目の瞳には熱があった。静かに瞼を閉じ、唇を突きだしてくる。

 同時にヴェイルの逆の手が何食わぬ顔で水着の胸元に伸びていき、

 ヴェイルの顔が天井を見上げた。いつまで待っても訪れない感触を不思議に感じた猫目が目を開くと、ヴェイルはじいっと空中を凝視していた。

「…………きたか」

 同時に轟音。凄まじい振動が地面を伝い、床に並べられた料理の皿が浮き上がって、すぐに落ちて割れ砕けた。天井からは埃が降ってくる。

 ヴェイルの口角がにいっと吊り上がっていく。待ちに待った歓喜の笑みだった。

「ようやくメシにありつける!」

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