③
激しい水飛沫が舞い上がった。茶髪の女子生徒が振り返り、その拍子に水着が外れてしまう。白日の下に零れ落ちた乳房は片方だけ。もう片方は女子生徒の肩ごとごっそりと抉られて消失していた。撒き散らされるのは赤い滴、血液だ。
「きゃああああああああああああっ!」
悲鳴を上げたポニーテールの女子生徒も、次の瞬間には腹部に大穴をあけられて絶命する。
「なんだ? なにが起きたんだ?」
浜辺にいた生徒たちも異変を察知してぞくぞくと集まってきた。
「海です!」
狼狽する一同はゼヒルダの発言を受けて海を向く。海水から飛びだしてきたなにかが女子生徒の体を貫いたように見えたのだ。
生徒たちの見ている前で海面が泡立つように次々と盛り上がっていく。舞い上がった夥しい数の影が、生徒たち目掛けて一直線に飛びかかってきた。
エミーリオが長柄を竜巻のように旋回させた。向かってくる影を次々と撃墜していく。
「……こいつは」
エミーリオの眉が怪訝にひそめられる。砂浜に落ちた物体は猫ほどの大きさの鳥だ。太く尖った嘴は肉に突き立てる刃のようにも見える。
ディノは数日前にあった海上での出会いを思いだしていた。
「ウミヒツジ?」
「違う。こいつは〈ニセウミヒツジ〉。ウミヒツジに似た姿の天魔獣だ。そもそもこの地域はウミヒツジの生息域ではない」
それでは数日前に出会ったウミヒツジは、最初からこの天魔獣だったということか。
浜辺では上級生たちがそれぞれのキャリバーを振るって次々にニセウミヒツジを撃墜していく。初見殺しの不意打ちでなければ遅れは取らないのだ。即死せずに砂浜でもがくニセウミヒツジたちへと、ケビンスやグラサンといった下級生たちが冷静にトドメを刺していく。
ディノも手近にあった石を振り下ろしてニセウミヒツジを次々と絶命させていった。
「天魔獣って言っても、タヌキやキツネを狩るのとあまり変わらないのか」
「ニセウミヒツジの敵性指数はレベル灰だ。イノシシやシカを相手にするのと大差ない」
ディノの疑問にエミーリオが答える。その顔には別の疑問があった。
「しかしレベル灰は人間を襲うことのない無害な種のはずだが?」
「つまり群れを統治する上位者が座したということでしょう」
突き抜けるような快晴だった空は、何百体ものニセウミヒツジによって厚い雲のように覆いつくされていた。その中に一体、ニセウミヒツジではない巨大な影が見え隠れしている。
「どうしてこんな数の天魔獣が接近しているのに気付かなかったの!」
背後ではミラジュリアが多機能生徒手帳に向けて怒鳴っていた。通信の向こう側からも怒鳴り声が返されてくる。
『わかりませんよ! 索敵も迎撃も、一切の防衛機構が反応しなかったのです! その群れは突如としてその場に出現したとしか考えられません!』
「そんな!」
そんな馬鹿なことがあるものか。ミラジュリアがそう口にしようとした瞬間、海面が一際大きく盛り上がった。大量の海水が天空へと持ち上がり、小山ほどもある巨大な塊を形作る。
小山の前方で再び海面が盛り上がり、太い柱のような海流が天へと伸び、半ばで折れ、浅瀬に足をかけて踏みつける。隣からもう一本の海流が飛びだし、同じように浅瀬を踏みつけた。
二本の海流の間からさらに大きな海流が出現。今度は天へと昇らず前方へと伸びていく。
後方で盛り上がっていた小山のような海水が宙に浮き上がった。海面から完全に分離して、柱のような八本の海流が海水の塊を支えている。海水の内部には魚が泳いでいた。
海水に変化が起きる。海水の内部に急速度で骨格が、内臓が、神経が、そして筋肉が姿を現していく。海水の内部を泳いでいた魚たちは、突如として出現した骨や筋肉に押し潰されて挽き肉になっていく。
多機能生徒手帳の向こうから驚愕と理解の声が上がった。
『あっ、あああっ! そうか! わかっ、わかりました! これは擬態の鏖力です!』
「擬態?」
『こいつは海水に擬態して、索敵や迎撃機構を欺いたのですよ!』
「なんですって?」
液体にまで擬態できる鏖力なんて聞いたことがない。だが、実際に目の前で起こってしまっている。だとするなら狡猾に能力を隠し続けてきた天魔獣なのだ。
「と、とにかく、至急教官への連絡と緊急警報、戦力の編成を!」
『もうやっています! ですが先ほどから教官との通信が繫がりません!』
「どうして、こいつが……」
見上げるディノの顔は蒼白になっていた。我知らず一歩、二歩と後退していく。全身を震わせているのは恐怖だ。
その場の全員が見上げる中、表皮と背中の甲殻まで擬態を解かれて、山のような巨体の全貌が顕現した。
全体的な見た目は亀。背負った甲殻は城塞のような堅牢さで、ニセウミヒツジの巣が乗せられている。脚は象のような円筒形で、巨体を八本の脚が支える様は蜘蛛か蟹を連想させた。ワニのように長い頭部が前方へと突きだしている。
「なんでお前が、ここにいるんだ……っ!」
ディノはこの巨大な天魔獣を知っていた。あの日、エルビキュラスの惨劇の日に、ディノの村を壊滅に追いやった張本人が目の前に姿を見せていた。
「問われればぁ」
巨体の口から間延びした声が吐きだされた。生徒たちの驚愕した顔が並べられる。
「こいつも言葉を使うのか!」
「ですが流暢に喋れるわけでも人型でもありません。魔人の一歩手前、レベル茶、準魔人級」
「我えるびきゅらすは、同胞の加勢に訪れたものなりぃぃぃ」
エルビキュラスの名を耳にした瞬間、ディノの顔面が憎悪と怒りで固まっていた。
「どうしてお前が、エルビキュラス村の名前を名乗っているんだよ⁉」
ディノの口からはぎりぎりと歯を噛みしめる音が漏れていた。歯茎が裂けて口の中が血に染まっていく。
エルビキュラスの爬虫類の目がディノを見た。
「覚えぇぇぇておるぞぉぉぉ。うぬはあの日に喰い損ねたガキの一人だぁぁぁ」
ディノの下腹が凍りついた。全身に鳥肌が立つ。自分の村を壊滅させた天災のような存在に顔を覚えられていたという事実が、とんでもなく恐ろしかった。
「屈辱、であぁぁぁる。我の生涯でただ一度だけ喰い損ねたぁぁぁ。ゆえに、我はえるびきゅらすを名乗っているぅぅぅ」
エルビキュラスの瞳に燃えるのは、憤怒の炎。
「あやつの誘いに乗って正解であったぁぁぁ。面白いぃぃぃ。実に面白いことになったぁぁぁ」
ワニ顔の口の端が吊り上がった。雪辱を晴らせる黒い喜びに笑っていたのだ。
「うぬはじっくりと味わって喰ろろろろうてやる。さぞかし天上の味がするはずだぁぁぁ」
「……そうか。僕もここにきてよかった」
ディノの口から零れた言葉にエルビキュラスは疑問顔となる。
ディノの顔は様々な感情の坩堝となっていた。膝を折って逃げだしてしまいたい恐怖、あの日の光景を思い返してしまった絶望、怒りに憎悪。それぞれが単独で思考を塗り潰すほどの激烈な感情だ。すべての感情が混ぜあわされ、爆発し、今にも正気を失ってしまいそうだった。
ディノは挫けそうになる己を鼓舞し、叱咤し、そして虚勢を張るように、口を歪めて不敵な笑みを浮かべる。
「お前にまた会えた」
「ならば言葉は不要」
エルビキュラスがにやりと、ディノを自らの獲物に値すると認めた笑みを浮かべた。
エルビキュラスの長い下顎が砂浜に乗せられた。口が開かれ、喉の奥から完全装甲された一団が姿を現す。
ディノの前を遮る影。パンツァーケントロスをまとったゼヒルダの背中だ。
「貴方にはキャリバーがありません」
エミーリオが、ケビンスが、グラサンが、それぞれのキャリバーで次々と魔装していった。エミーリオの持つ長柄が長大なランスとなり、下半身が八本脚の馬と化して馬上騎士となる。ケビンスの両腕が手甲に包まれ、拳闘のように拳を素振りさせた。グラサンの短剣は銃剣へと変じ、左半身に甲殻類の外殻が生成されて防御力を集中させた近接銃士となる。
ミラジュリアも胸の谷間からキャリバーを取りだそうとしたのを、ゼヒルダが制止した。
「ミラジュリアさんは全体指揮に回ってくださいませ」
「まずは非戦闘員の避難誘導、それから後続部隊と救護班の編成ですね」
ミラジュリアがディノに視線を落とし、そして頷いた。大切な人を守るのは自分の役目だ。
「ケビンスさんと、ええとグラサンさん? 申し訳ありませんが、戦力としては微々たる新入生だからといって、戦いに出さないでいられる余裕はありません。死力を賭して下さい」
「「おう!」」
後方、学園の方角からは先発組の生徒が続々と駆けつけてくる。同じクラスのリーベルトやシンディにムンザバド、まだ顔と名前の一致していない仲間たち。嫌みを絵に描いたようだったメッシュの姿もある。顔に陰険さはなく、人々の盾となり理不尽に立ち向かおうとする勇壮さだけがあった。
ディノは彼らとは違う。ディノはゼヒルダからもミラジュリアからも戦力として見てもらえなかった。無力な、守るべき一民間人として見られていた。
ディノは悔しさと情けなさに歯を噛みしめる。
「ディノ君」
ミラジュリアがディノへと手を伸ばしてくる。ディノはじっと、ミラジュリアの手を見つめた。細くて華奢な手だ。自分よりもずっと非力に見える。本来ならば自分が彼女を守らなければいけないはずなのに。
ディノは首を振ってミラジュリアを拒否した。そして自らの足で歩いていく。
(僕にだってなにかができるはずだ。なにかをしなくちゃいけないんだ……)
脅迫にも似た焦燥が、ディノの全身を焼き焦がしていた。
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