三章

魔人/魔身 ➀

 これは夢だ。そうでなければおかしい。こんな光景が現実に起こっていいはずがない。

 地上にあるのは豪奢な城に花時計、擬人化された動物たちの住む町に、立体映像の幽霊が徘徊する屋敷、人工の山脈や大河。塗装の剥げた回転木馬や珈琲カップに、何十もの籠をぶら下げた大観覧車、空中ではジェットコースターの線路が複雑な曲線を描いている。

 経済破綻した超巨大遊園地は、一つの都市かと思うほどに広大だった。おとぎの国の残骸は風雨に晒されて朽ちていくのを待つばかりの廃墟となっている。

 そして広大な構造は敷地の地下にも張り巡らされていた。遊具の地下設備や職員の通路、電気やガスや水道の管が複雑に絡みあい、巨大な迷路の様相を呈している。その面積は地上の何倍にも達していることだろう。

 ここがどこかもわからない。すでに方向感覚を失い、通信が届かなくなってから久しい。ただ、周囲には死だけが満ちていた。

 巨漢は腹部に穴をあけられ、立ったまま壁に背中を預けていた。零れた内臓が壁かけ時計の振り子のように揺れている。天上には男の上半身が埋められ、糞尿が滴となって落ちていく。二人の女が手を繫ぎあって、両者の肘から先だけが残されていた。隣に転がる男の首が恐怖と絶望に固定された表情でこちらを見上げてくる。床には引き千切られた人間の死体が血と肉の絨毯となって敷き詰められていた。

 死体たちが着ているのは聖ヴォルフガング学園の制式野戦服だ。

「あ、あああ……あああうあ……」

 ただ一人だけ生き残ってしまったゼヒルダは、床に尻をついて放心していた。口からは意味をなさない呻き声だけが零れでてくる。悲しいのか恐ろしいのか、それとも憤っているのかも自覚できない。ただ、早く夢から覚めてほしいと願うばかりだ。

 前方で足音。仲間を殺した天魔獣がゼヒルダに顔を向けていた。

「ひっ」

 ゼヒルダの口は悲鳴を発していた。両脚は骨まで露出する大怪我で動かない。天魔獣が飛びかかり、ゼヒルダは咄嗟に右腕を突きだす。

 衝撃が体を襲った。天魔獣はゼヒルダを押し倒して馬乗りになっている。

 遠くで水音。ゼヒルダの右手が落ちていた。ゼヒルダに跨った天魔獣は腕を振り抜いている。

 ゼヒルダは呆然として己の手首を見つめた。力任せに引き千切られた断面は筋肉と神経と血管がボロ雑巾のようになり、砕けた骨が枯れ木のように飛びだしている。

 手首の断面へと天魔獣が噛みついた。口が動かされ、歯が噛みあわされる。ずちゃずちゃ、ごぎごぎと、肉を噛み千切られ、骨の噛み砕かれる音と感触が体の内側から響いてくる。

「いっ、いや、いやあ」

 股間からは湯気が立ち昇っていた。いつの間にか失禁していたのだ。

「いやああああああああああああああああああああああああっ!」

 絶叫とともにゼヒルダは飛び起きていた。ベッドから上体を起こし、爪を立てて自分を抱きしめる。見開かれた目で周囲を見回し、ようやくここが因縁の地下施設でないことに気がついた。窓から射しこむ僅かな月光が照らしだすのは、慣れ親しんだ自室の輪郭だ。

 この世界で最も気を抜ける場所にいるというのに、ゼヒルダの全身は強張っていた。心臓が早鐘のように鳴っている。寝汗で濡れた体は今さっきまで水の中にいたかのようだ。

 夢の中と同じように股間もぐっしょりと濡れていた。シーツに染みが広がっていく。

「あっ、あはっ。あはははははは」

 ゼヒルダの口から暗い笑い声が零れていく。

「あははははははっ。あはははははははははははははははははははははははは!」



 照りつける太陽、白い砂浜、青い海。

「あははははははっ」

「そーれっ」

「やだあ」

「きゃーっ」

 目の前で笑いさざめき、踊るのは、花のように色取り取りの水着に包まれた女子生徒たちの胸や尻、くびれた腰に白い太腿、髪の毛を上げられたうなじや華奢な背中。

 ここは常夏の海。南国パラダイスである。

 そして半裸で黄昏る三人の男たち。海パンとなったディノとケビンスとグラサンが肩を並べて体育座りしていた。それぞれの水着は赤一色の無地に、迷彩柄、葉っぱの腰蓑柄と、いらない個性が光っていた。

「はああああああぁぁぁぁぁぁ……」

 ディノの口から重苦しい溜め息が吐きだされていく。ケビンスが「元気出せよ」と肩を叩くがなんの慰めにもならない。検査から一週間が経過しているというのに、ディノは相も変わらずこんな調子を続けていた。

「不貞腐れるのもわかるけどよ」

「キャリバーを貰えた二人に言われてもなあ……」

 ケビンスの手首には腕輪が光っていた。学園から貸与されたキャリバーだ。同じようにグラサンの腰にも大振りの短剣が見られる。

「まあそう言わずに。水着のねーちゃんでも眺めて気分を変えようぜ」

 ディノは一瞬だけ視線を上げた。

「……連日見てれば飽きる」

「贅沢な悩みだなあ」

 ケビンスは苦笑を浮かべた。

「隣を見てみろよ」

 ディノはケビンスとは逆隣のグラサンを見た。そういえばさっきから妙に静かだ。グサランの隙間から見えた両目は見開かれ、水着の女子たちをこれでもかとガン見している。

「青春を謳歌しているんだな」

 ディノは軽くドン引きした。

 背後で砂を踏む音。気付いたときにはディノの目の前が真っ暗になっていた。

「だ~れだ」

 優しげな声が聞こえた。背中には柔らかい感触が二つ。双丘が押しつけられていた。

「えっと、同じクラスのリーベルトかシンディ……は、こんなに大きくないし。大きさからすると隣のクラスのアイナベルさん……とは喋ったことないし。そうかムンザバド、は男だ。うえ、想像したら気分が……」

 ディノは背後から胸筋逞しい体育会系に密着されている画を想像して、吐き気を催したように舌を垂らした。全身から音を立てて血が引いていく。

「それじゃあ答えあわせしよっか」

 言葉とともに目を塞いでいた手がどかされ、ディノが振り向く。

 出迎えたのは熱っぽさを宿した大きな瞳。桃色の唇。端的に言って美少女だ。かけた眼鏡は可憐さを強調している。

 ディノの視線は少女の顔から体へと下がっていく。剝きだしの首元には鎖骨が浮き、たわわな胸には谷間が形作られてうっすらと汗ばんでいた。白い肌を包む水着によって肢体が強調され、扇情的だ。浮いた肋骨にくびれた腰とヘソ、丸みを帯びた尻の輪郭に白い太腿と見たところで既視感。

 ディノの視線が下がるときとは逆の行程で上がっていき、再び少女の顔を見て、

「いや、本当にマジで誰?」

 目の前の少女とは、完璧に初対面のはずだ。

「え?」と、少女は困惑の声を漏らす。

「え?」と、ディノも困惑の声を漏らした。

「え?」

「え?」

「私たち、付きあってるんだよね?」

 言葉と同時にケビンスとグラサンはざざざっと後退りした。女の正体に気付いたのだ。

「え?」と、ディノはそれでも理解していない顔で声を重ねる。

「だってだって、お弁当も作ってるし、返事のお手紙にも『毎日でも食べたい』って書いてあったし、抱きしめられたし、裸も見せたし、これで付きあってないはずないよね?」

 ディノは「んえ?」と、本気で理解していない顔だ。

(弁当……抱きしめた……裸?)

 言われてみればどことなく身に覚えがあるようなないような気がする。

「あ、あー!」

 今まで個別の事柄だと思っていたそれらが一人の少女へと集約していく。最初は入学式の日に、そして次はゼヒルダの部屋で。

「そうか。入学式のときに天魔獣から助けた先輩で、秘書子さんだ!」

「そうよ」

 少女はこくりと頷いた。そして胸の谷間に手を突っこみ、取りだしたのは抜き身の包丁だ。

「そしてディノ君の彼女だよお」

 秘書子の声の調子が急激に下がった。両目は濁りきっている。唇の端には乱れた髪の毛が銜えられ、凄絶な妖気を放っていた。

「ねえ、私たち付きあってるんだよね? そうだよね? おまじないもしたんだよ? 藁人形にディノ君の顔写真を貼りつけて、天使の釘で心臓を串刺しにするの。これで付きあってないはずないよね? ね? ねっ?」

(それはおまじないではなくて呪いの儀式なのではなかろうか?)という疑問を、ケビンスとグラサンは喉の奥に引っこめた。下手に口を突っこんでかかわりたくなかったのだ。

 ディノは腕を組み、首を傾げていた。下手なことを口走った瞬間に背中から刺される事態だというのをわかっていないかのように。

「う~ん。言われてみれば確かにお付きあいしてる人たちがすることばかりだ」

 ディノは秘書子を見た。

「僕たち、付きあってたんですね」

 ディノの言葉を耳にして秘書子の顔がぱあっと明るくなった。思わず放り投げた包丁は空中でくるくると回転し、グラサンの鼻先を掠めて砂浜へと突き刺さる。

 秘書子は腕を広げてディノを抱きしめた。必然的にディノの顔が豊かな胸に押しつけられる。

(うわ、おっぱい柔らかい……。だけどやばい。吸いこまれる。胸の谷間に吸いこまれて呑みこまれてしまう!)

 ディノの手足から力が抜けて砂の上に落ちた。

「いっ、いかん!」と飛びだそうとしたグラサンの肩をケビンスが摑んで止めた。疑問顔を浮かべるグラサンに、ケビンスは悲痛な面持ちで首を横に振る。

「もう……手遅れだ。ディノは死んだんだ。おっぱいに殺されて」

「おっぱいに……殺された……だと」

 グラサンの顔は絶望に染まっていた。彼らは固い絆で結ばれた友人を失ってしまったのだ。

「ちっ」「ちっ」

 舌打ちが唱和された。唾棄すべき裏切り者へと向ける軽蔑の舌打ちだ。

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