「力を貸せ!」

 どこまでも続く肉と血潮の世界。食欲と飢餓感のみが存在する己の内面宇宙で、ヴェイルは力の限り叫んでいた。足裏を這う肉の感触も、鼻に忍び寄る血臭も意識の外だ。

 ヴェイルの目の前には黒一色の自分自身が立っていた。

「彼らを、彼女を守るための力を、俺に貸せ!」

「いいよー」

 影の自分自身はありえないほどのあっけらかんさで承諾した。拍子抜けしたヴェイルは思わずずっこけそうになる。

「いや、さすがにそれは軽すぎないか?」と、慎重になってしまうのも無理ではない。

「なんかこう、お前の体は俺のものになるとか、お前は人間しか喰えなくなるとか、そういう危険性があるもんじゃないのか?」

「なにか勘違いをしているようだが」と、影の自分は首を傾げた。

「言ったはずだ。俺は貴様の本心だと。俺は貴様の負の感情だとか心の闇だとかじゃあない。言うならば…………本能。理性のお前が抑えこんでいる本能の部分だ。お前が心の底からなにかを望んだのなら、それは俺の願いでもある。だから俺はいつだって手を貸してやるのさ」

 ヴェイルは改めて彼を見た。目の前に影の自分など立ってはいなかった。

 あるのは鏡だ。ただの鏡が自分自身を映し返していたのだ。

「ようやく気付いたか。俺とお前は最初から一つの存在だったのだ」

 声は、鏡に映された自分自身の口から放たれていた。

「俺を別の存在として忌み嫌っていたのは、他ならぬお前であり俺自身だ」



 ヂェゼビードの隣に立つのは他の誰でもない、ヴェイルだ。ただ、今さっきまでのヴェイルではない。もっと危険な、なにか別の存在になっていた。

 ヂェゼビードが熱線の剣を振るう。対してヴェイルは小手を掲げた。ヴェイルの前腕を切断するかと思われた熱線は、しかし受けとめられ弾き返される。

 天魔獣しか使うことのできない、鏖力に対する抵抗だった。

 面食らったヂェゼビードの腹部にヴェイルの膝蹴りが叩きこまれ、衝撃で引き剥がされる。後退しつつヂェゼビードが熱線。しかしこれもヴェイルの掲げた掌に吸収されてしまった。ヴェイルが指鉄砲をヂェゼビードに向け、指先から放たれた熱線が触手を撃ち抜いていく。

 やはり鏖力だ。人間であるはずのヴェイルが鏖力を操っているのだ。

 後退するヂェゼビードは校舎の端を飛び越えて空中に身を躍らせた。

「……まさか、我ら天魔を長年喰らい続けてきたことで精神を蝕まれるどころか、逆に喰らい返して自分自身の力にしたというのか?」

 通常、天魔獣を喰らう人間の寿命は長くない。天魔獣か人間しか喰えなくなることや、間接的に人間を喰っていること、そしてなによりも周囲の人間からの忌避。精神を病んで自死を選ぶ者や殺害される者が圧倒的に多く、ヴェイルのような長寿は珍しい。

(とすれば、最初から全ての人間がそうなっていた可能性もあるのか)

 ヂェゼビードは恐ろしい仮説に至る。もちろん、この変貌はヴェイルの強靭な精神力あっての物種だったのだろう。だがそれは、逆に言えばヴェイル級の精神力を有していれば誰にでも起こりうる現象ということでもある。

(ならば在野には、すでにこいつと同じ連中が少なからず存在しているということか?)

 半信半疑ながらも、ヂェゼビードの顔は強い緊張感に塗り固められていく。

 ヂェゼビードは周囲に触手を放ち、状況を確認。

 遠い高速艇の上に生徒たちの姿があった。生徒、高速艇ともに欠員がないどころか無傷。

 先ほどの閃光は確かに自爆装置が発動したことによる爆発だった。ということは、ヴェイルがその爆発をも喰らって生徒たちを救ったということなのだろう。

 海上とは反対側、校庭ではディノとゼヒルダの戦いが繰り広げられていた。

 ディノが振り下ろしたハルバードを、ゼヒルダは舞のような優雅さで危なげなく回避。一転、その場で竜巻のように荒々しく回転し、ディノのこめかみへと上段蹴りを繰りだす。ディノは戦鎚の柄で防御しようとして、しかし激突の寸前にゼヒルダが脚を引き戻した。

 ゼヒルダが後方跳躍し、置き土産の花粉爆弾がディノの胸元で炸裂。血肉が飛び散り、カイザーキマイラの全身を爆炎が呑みこんでいく。

 爆炎を突き破って飛びだす巨体。ディノは左腕の白骨を巨大化させて盾とし、二本に増やした右腕にハルバードと戦鎚を握って重戦士となっていた。

「……あら?」

 ゼヒルダの口からは狼狽が漏れた。

 ディノは左腕の盾を前方に掲げ、ハルバードと戦鎚を振るう。ハルバードが振り下ろされ、ゼヒルダがかわし、そこに戦鎚が横薙ぎされ、後方宙返りしたゼヒルダに、さらにハルバードが突きだされ、一発でも直撃すれば即死の攻撃がとめどなく追いかけてくる。

「さすがにっ、この剛力と重さを、まっ、正面から、相手には、できませんわねっ!」

 追撃を続けていたディノの手が止まる。ゼヒルダが何事かと疑問を覚えるよりも早く背後に現れる気配。振り向かなくても誰だかわかる。この、熱さと力強さ。

「実践経験の差でゼヒルダが押しきれると踏んでいたが、なかなかどうして、勝負を一瞬で決めさせない程度にはやるではないか」

 ヂェゼビードは奮闘を労うようにゼヒルダの肩に左手を置いた。ゼヒルダは愛おしそうに、ヂェゼビードの指に自らの指を絡めていく。

「が、それでもいずれはゼヒルダが勝っていただろう」

 ゼヒルダの後ろにヂェゼビードが現れたように、ディノの隣にはヴェイルが立っていた。ヴェイルが手を伸ばし、ディノが戦鎚を渡す。

 ヴェイルの体が光に包まれ、ヘラ角の王冠と純白の毛皮、蹄の手足を備えたルナエルクへと魔身変現。そしてヴェイルが再び光に包まれる。

 三度(みたび)姿を現したヴェイルはルナエルクではなくなっていた。ヴェイルの顔にヘラ角、皮膚が露出するほどに減った純白の毛皮、そして蹄の手足。

 ヴェイルの姿は人間と魔人の中間へと変化していた。

 魔身変現を魔装に落としたのではない。魔身変現したルナエルクの肉体をヴェイルが喰らい返して人間の体を上書きしたのだ。

(魔人を力づくで喰らい返すなど、より上位の存在でなければできないことだ。魔人長に近い力を持っていると考えておくべきだろう)

 内心の憂慮とは裏腹に、ヂェゼビードの口は不敵な笑みを刻んでいた。強敵との戦いに心躍らせる凶戦士の笑みだった。

「知り合いに完全人喰い主義の〈マンイーター〉がいるが、貴様はその逆だな。さしずめ〈マンイーターマン〉と言ったところか? あるいはこう呼ぶべきだろうか、自らの尾を喰らう蛇、〈ウロボロス〉と」

「……名前などどうでもいい」

 会話を切り捨てるように、ヴェイルは淡々と呟いた。

「俺にはお前を倒せる力があった。それだけだ」

「制御しきれていないのか」

 ヂェゼビードの言葉が矢となってヴェイルを貫く。

「受け答えに若干の間があった。抑揚のなさもなにかに耐えているように感じる。自分の体を掌握するのに精一杯で、問答に割く余裕などないといったところか」

 ヂェゼビードが一歩を踏みだした。

「さて、私は楽しく世間話をしていれば貴様の思考を奪えるわけだが、それでは壁を乗り越えてきた貴様への礼儀に欠ける。この戦いの中で完全制御してみせろ!」

 隻腕となったヂェゼビードがヴェイル目掛けて飛びだした。その背にゼヒルダが続いていく。

「策はつきた。ここで勝負を決めるぞ、相棒!」

「おう!」

 応じてヴェイルとディノも飛びだしていく。

 先制とばかりにヂェゼビードが触手から夥しく熱線を放出した。対してヴェイルは両手を前方に掲げる。掌が素早く動いて熱線を喰らっていき、さらに地表から噴出した鎖で熱線を迎撃。ヂェゼビードと同じように、自身の鏖力とルナエルクの鏖力を平行使用して手数を補っていた。それでも防ぎきれない熱線はディノが巨体に受けて防御する。

 ヴェイルが指鉄砲をヂェゼビードに向けて先端から熱線を撃ち返した。ヂェゼビードの触手が熱線を喰らおうと口を開くが、しかし熱線は口蓋を貫いて通り抜けていく。

「これは…………厄介だな」

 ヴェイルは喰らった鏖力を収束させ、一瞬では喰いきれない密度に高めて返してきている。ヂェゼビードにもできない芸当だ。

(ではこちらはどうだ?)

 思考を巡らせつつ、今度は左手の長刀を横薙ぎ。長刀から液体金属の刃が伸びて、それをヴェイルが避けた。ヂェゼビードは笑みを浮かべず、結論を一旦保留する。

(鏖力で生成されているとはいえ固体を吸収できない可能性はあるが、できるのにあえてしなかったという可能性も半分は残っている)

 ヂェゼビードが見分している暇にヴェイルが間を詰めてきていた。ヴェイルが戦鎚を振り上げ、叩きつける。と見せかけて長柄を手放してからの貫手。ヂェゼビードは首を振って避け、体を独楽のように回転させて長刀の横薙ぎを繰りだし、ヴェイルの逆の手がすでに回収していた戦鎚で受けて防御。今度は戦鎚が縦回転して打面が振り下ろされ、ヂェゼビードが長柄を蹴り上げて軌道を巻き戻させ、ヴェイルが突っこんできて頭突き。避けるヂェゼビードだが、直後にヴェイルが首を振り、ヘラ角に引っかけられた胸に朱線が引かれる。

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