3-11 グレイハッカー第2の敗北

 嫌な予感ほど的中するように、この世は造られている。

 翌日の探偵からのメールには、詫びの文とともに、何者かに暴行を受けたことが記されていた。

 打撲、骨折、裂傷。全治一ヶ月。

 契約書を交わしていない非合法な調査。その過程で発生したトラブルについて、警察に相談することはできない。治療費については、自己負担する。そちらに請求するつもりはない。代わりに、今回の調査からは、手を引かせて欲しい。

 それが探偵からの最終報告だった。

 事前に約束した報酬全額の支払いを申し出るも、探偵は固辞した。それは調査に失敗した、彼なりのけじめのつけ方であり、プライドのようだった。支払いを諦めた紅子は、最後に、誰にやられたのかを訊いた。すると彼はこう答えた。

「フードを目深に被っていたから定かではないが、少年のようだった」

 私が必ず告発する、と探偵に約束した。それが最後のやり取りとなった。

 紅子の脳裏に、フードを被って夜道に立つ男の姿が浮かんだ。顔面を覆い隠す影の中で、感情の読み取れない蛇の眼が光った。

 佐竹純次はテコンドーに通じており、薬物密売グループなどの組織犯罪集団と関わりがある。

 確証はなかった。

 だが週明け、その佐竹が、ついに動いた。

 昼休み。二年の佐竹グループ全員の姿が、壊れかけたバスケゴールのある校舎裏にあった。そして野崎悠介も。

 また始まった、とばかりに、教室の誰もその動きに注意を払わなかった。無視することが正しい態度であるという空気が教室には醸成されていた。だが紅子だけは違った。

 週末の出来事により警戒せざるを得なかったこともある。だがそれ以上に、佐竹が自ら周りを率いて動いたからだ。恐喝した金の再分配で周囲の人間をコントロールし続けていた佐竹。陰で糸を引くゲームメーカー。自ら動くのは明らかに異常事態だった。

 嫌な汗が紅子の背中を濡らした。

 探偵の動きを察知し、重症を負わせるほどの暴行を加えた何者か。

 呆気なく、何ひとつ裏切られることなく、その正体は判明した。

「野崎さあ、あれ雇ったのお前だろ。それともお前の親か?」と佐竹が言った。

 芝浦勲、元木大飛、篠塚和未、木村巧、高橋伸、松井広海。勢揃いだった。巨漢の篠塚が野崎を後ろから羽交い締めにし、木村と高橋がにたにたと同調の笑みを浮かべていた。芝浦は無表情のまま腕を組み、元木は足元に転がっていたバスケのボールを転がしていた。そして松井は、手が震えていた。

 校舎の陰に隠れるように、紅子はその様を見ていた。途中までは盗聴で済ませるつもりだったが、いてもたってもいられなかった。屋上には高解像度カメラを搭載したドローンを飛ばし、縁に着陸させて目一杯俯角を取って校舎裏を見下ろすようにカメラを向けた。

 夜陰に乗じて探偵を暴行したのは、佐竹純次だ。

 だが、これから起こることが期待通りなら、逆転の一手を打てるという確信もあった。

 佐竹による暴力。その現場を抑えるのだ。

 全端末の振動と音声通知を切った。息を潜め、逃走経路を何度も頭の中でシミュレーションした。

 いける、と自分に言い聞かせる。

 佐竹は、よくできたガラス造りの仮面のような薄ら笑いを浮かべ、悄然とした野崎へ言った。

「即携帯壊しやがったから、依頼人までは聞き出せなかった。なあ野崎、正直に言えよ。お前心当たりあんだろ?」

「なんのことか、僕……」

「じゃあなんでお前のこと訊いて回ってんだよ、本職の探偵が」

「知らない! 探偵なんて知らない!」

 佐竹は冷たい目線を、羽交い締めの野崎へ注いだ。

 しばしの沈黙。

 それに耐えかねたように、元木がボールを蹴った。空気の抜けていたそのボールは力なく跳ね、野崎の足元に当たった。

 その瞬間、佐竹は鬼の形相で元木を睨みつけた。

「何してんだ?」

 明らかに怖気づいた元木が、硬直しながら応じる。「いや、なんでもねえよ。なんだよサタさん。キレんなよ」

 佐竹はそれ以上元木を相手にしなかった。代わりにその場で左右に視線を巡らせ、それから校舎を見上げるようにしてその場で一回転した。

 その仕草に、紅子の背に悪寒が走った。見られていないはずなのに、あの感情の読み取れない瞳に心の奥底までも読み取られたように錯覚した。紅子の右手は、我知らず、胸元とその下にあるUSBメモリを掴んでいた。

「まあ誰でもいいや」佐竹の表情は変わらずに薄ら笑いだった。「どうせそいつは今、俺らのことを見てる。プロを雇って失敗したんだからな。不本意だけど、自分で見てるに違いねえ」

 そして佐竹は、野崎へと歩み寄る。

 グループの六人が固唾を飲んで見守る。校舎の遠くから、平和な昼休みの叫び声が聞こえた。子供同士のふざけあいと区別のつかない悲鳴。人気のない場所を求めいていたらしきカップルが紅子の前に現れ、ばつが悪そうにそそくさと立ち去る。

「なーあ、野崎くーん」不意に佐竹が声を張り上げた。「強くなりてえか?」

「強く……?」半ば唖然として野崎が応じる。

「そうそう。強くなりてえよな。男の子だもんなあ。こんな風に大人数に囲まれても返り討ちにできるくらい、強くなりてえよなあ」そこで一度切って、反応を窺う。だが野崎は、必死な作り笑いを浮かべるだけだった。佐竹はひとつ息をついてから続けた。「教えてやるよ。テコンドー」

「えっ……?」

「だから俺が、教えてやるよ」佐竹は篠塚に目配せし、その篠塚は意を計りかねた様子ながらも戒めを解いた。

 ふらつく野崎。その肩を強引に組んで、佐竹は携帯を手に言った。

「教えてやるからさ、言えよ。『佐竹くんに、喧嘩で勝てる本格的なテコンドーを教えて欲しい』って。ほら」

「なんで……?」

「いいからさあ。言えばいいんだよ。ほら、録音始めっから、せーの」

 野崎の顔から血の気が引いた。

 一瞬遅れて、紅子もその意図に気づいた。激しい目眩を覚えた。呼吸が止まった。

 だ。

 野崎悠介が佐竹純次にテコンドーの指導を依頼したという、タイムスタンプの残る、誰が見てもそれとわかる客観的な物的証拠だ。

 まごつく野崎の首に佐竹の肘が絡まる。締め上げる。密林の大蛇のように。

「ほーら、言えよ。それともこのまま落ちてえの?」

「で、でもっ、喧嘩なんて、僕っ……」

「最近の子供は喧嘩もしねーから駄目なんだよ。子供同士ってのはさー、ちょっと喧嘩して、生傷が絶えない方が健やかに育つんだよ。だからさ、言えって」

 腕の力が強まる。野崎の目が焦点を失う。手が、大蛇を振り解こうともがく。

「サタさんやりすぎっしょ、マジで?」と松井が笑う。

 それにつられ、冷静になりかけていた取り巻きたちが一斉に笑い、口々に騒ぎ立てる。

 佐竹が腕を離した。

 崩れ落ちそうになる野崎を、篠塚が支えた。

 野崎の咳き込みが収まるまで待って、佐竹はまた携帯を手に言った。「野崎くーん、言えるかなー?」

 

 佐竹純次の意図は明白。暴行の合法化だ。

 請われてテコンドーの指導をしたという証拠を残した上での、野崎の暴行だ。

 証拠など残されたら、ありとあらゆる紅子らの調査が意味を失う。いじめの証拠物件が客観的な物証として有効なら野崎の肉声も有効になり、野崎の肉声が強いられたものとして無効なら、いじめの証拠物件も好意によるものとして無効になる。これは佐竹による防御にして攻撃だった。彼自身、まだ正確には察知していないだろう敵、即ち、グレイハッカーズに対しての。

 許すわけにはいかなかった。

 これを許せば、誰も佐竹を止められなくなる。名前も知らない探偵の犠牲も無駄になる。

 手段はひとつしかなかった。

 だがそれは禁じられた一手だった。ホワイトはおろか、グレイですらない手段だった。紅子は躊躇した。ひとつしかないとわかっても、身体が動かなかった。

 すると佐竹が、俯く野崎の顔を覗き込むようにして言った。

「強くなれば……片瀬もお前のことを見てくれるかもしれないだろ? ただの中学の同級生以上の存在として」

 野崎は顔を跳ね上げた。

 片瀬怜奈。

 佐竹は知っているのだ。

 野崎の死にたいアカウントも、彼が想いを寄せる相手が片瀬怜奈であることも。そして今片瀬の名を出せば、否応なしにもうひとつの意味を持つ。

 という、恫喝だった。

 限界だった。紅子は制服の内ポケットに手を差し入れた。そこに隠し持ったものの冷たさが、怒りに熱された紅子の頭を冷やした。

 拳銃だった。

「さ、佐竹くんに」と野崎が言った。声が震えていた。「喧嘩で勝てる、本格的な」

 3Dプリンタの積層痕が残るグリップの感触を確かめた。何度も確認した発射の手順を脳裏に描いた。

 引き抜く。

 だが、紅子の手を、掴んで止める者があった。

 それもふたり。

「駄目です、部長」小声の内藤翼が言った。「それだけは、駄目です」

 そして馬場えれなが、紅子の背中にしがみついた。彼女は無言だった。だが全身が震えていた。

 壁の向こうで野崎が言った。「テコンドーを、教えて欲しいです」

「あー、駄目だな」と佐竹。「録音してなかった。もう一回」携帯を構える。「三、二、一、はいどうぞ」

「佐竹くんに、喧嘩で勝てる、本格的なテコンドーを、教えて欲しいです!」

「よくできましたー」と佐竹が言った。録音終了の電子音が鳴った。

 電光石火だった。

 佐竹の、鞭のようにしなる身体から繰り出された後ろ蹴りティッチャギが、野崎の下腹部を襲った。

 身体の中から空気が全部抜けた声。野崎は、一メートルほども蹴り飛ばされ、背後にいた篠塚ごと倒れた。

 佐竹は、構えを解くと、「やれ」とだけ短く言った。

 すると芝浦や元木、木村らが一斉に野崎に群がる。携帯を奪う。向こう脛を蹴り上げ、鳩尾を殴る。制服が脱がされ、下半身が露出させられる。高橋が奪い取り、指紋ロックが解除された野崎の携帯を、佐竹が受け取る。

「はいM字開脚ね。もっと大胆に攻めてみようか。ねー、野崎くん」

 ぐったりした野崎の脚が広げられる。佐竹の手の中で、野崎の携帯のカメラが起動する。

 カシャ、と音が鳴った。一枚、二枚、三枚。次々と撮影する。

 そしてさらに何か操作し、佐竹はその携帯を松井に渡した。

「サタさん、これって」と携帯を受け取った松井。

「そ。片瀬。こいつ片瀬のWIREのID知ってんのな」佐竹は無表情だった。「松井ちゃん、その写真送っといて」

 その時だった。

「やめろ」と野崎が言った。「それだけはやめろ。お願いだから、それだけは、それだけは」

「えー、でもさ、俺、裏切られちゃったし」佐竹は、あくまで野崎の方だけを見て言った。「。な?」

 松井の首筋に脂汗が浮かんでいた。

 二年に入り、佐竹とはクラスが別れた松井広海。少し距離を置いて、おそらく、自分たちの行いを冷静に見つめ直し始めていただろう松井広海。

 探偵の問いに応じて、佐竹からメンバーへの、野崎の死にたいアカウントの稼働に連動した恐喝金の再分配について証言し、証拠となるWIREのスクリーンショットを提供した松井広海。

 翼とえれなに引きずられるように、紅子はその場を後にする。何も言えず、何もせず、ただ見ているだけだった。

 そして弾丸よりも残酷に、送信ボタンが押された。

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