1-6 蕎麦と彼女と近代建築

 〈WIRE ACT〉の応用にトライすることにした。

 まずは位置情報を知らせる携帯端末用アプリをネットから入手。起動すると、画面に一切変化を与えることなく外部から位置情報をモニタ可能な状態になる。限定的だがキーロガーとしての機能も有しており、どんな入力をしたのかも盗み見ることができた。

 これを片瀬怜奈の携帯にダウンロードさせるのに、〈WIRE ACT〉を用いるのだ。

 方法は簡単。片瀬怜奈が運用している三つのアカウントへ、同時に偽のWIREアプリ更新情報を配信するのである。ひとつならばともかく、三つならば真の情報だと勘違いして騙される。通常、この手はメールの添付ファイルなどを用いる、いわゆるフィッシングによるものが多いが、〈WIRE ACT〉ならばより巧妙に行える。なにせ開発者ツール。ほとんど公式である。

 配信して数分で、紅子が一〇ドルで購入し、初心者向けフォーラムの情報を元にカスタマイズしたマルウェアが片瀬怜奈の携帯へダウンロードされた。こちらを先に試すべきだった、と紅子は独りごちた。なにせもう監視カメラを苦労してハッキングしなくても、片瀬怜奈の居場所は手に取るようにわかるのである。感染した端末をBOT化してDDoS攻撃に用いられるようにするマルウェアだともう少し高額だが、ただ位置情報を発信するものなら二束三文なのだ。

 GPSが示す座標は、世田谷区内の高級マンションだった。時刻は夜一〇時。自宅と見て間違いないだろう。機会を見て、学校のサーバに侵入して照合することにする。

 そして呪いの歩道橋についても、調べてみることにした。

 女子中学生が自殺したというのは事実だった。近隣の中学生や高校生のアカウントを探ると、その女子中学生が通っていた中学が特定できた。クラスや姓名までも。

 肉片が消えない、という噂が流れているのも事実だった。写真もあった。確かに赤や白の肉片のようなものが道路にこびりついていた。自分が目撃したものがトリックや超常の類でないと知り、紅子は安堵した。

 だが、片瀬怜奈に関係するものは何ひとつなかった。

 翌日は土曜で、学校は休みだった。紅子は内藤翼に連絡を取った。「明日は暇か?」と訊くと、「部長のためなら暇になります」と冗談か本気か計りかねる返事が返ってきた。状況を簡潔に伝え、即応状態で待機の約束を取りつける。

 その後は、片瀬怜奈のWIREでのやり取りを監視して過ごした。

 クラスメイト。中学時代の同級生。繰り返される当たり障りのないやり取り。紅子には、それがネットワークトラフィックの無駄に思えて仕方なかった。まるで、互いが互いに敵意を持っていないことを確認し合うかのような言葉たちは、仲良しの皮を被った形のない戒めに見えた。

 だがその中に、一風変わったやり取りをしている相手を見つけた。中学時代の同級生で、今は同じ高校で隣のクラスにいる男子生徒のようだった。憂井道哉、という名前のその男子は、アカウントをひとつしか持っていなかった。キー数もフォロワー数も少なく、文字だけの質素な投稿は誤変換や誤操作だらけだった。まるでデジタルに慣れていない老人のようだった。

 ふたりのやり取りは一種独特だった。死生観のような、人生訓のような、傍から見ると意味不明な内容のテキストを片瀬怜奈が一方的に送りつけ、憂井道哉の方がそれにせっせと応答する。だが迷惑に感じてあしらっているような様子はなく、彼の返答は誠実だった。目を覆うほどに途中投稿と誤変換が多いことを除けば。

 三〇分ほど眺めていてもふたりの具体的な関係がさっぱりわからないので、見なかったことにして紅子はベッドに倒れ込んだ。

 翌朝から、片瀬怜奈監視作戦の第二部が開始された。

 朝起きて、身支度をしていると、片瀬怜奈のGPS座標が移動開始したことを示すアラームが紅子の携帯を鳴らした。

 翼に電話をして告げた。

「〈猫〉が動き出した。追うぞ」

 電話口の翼はあからさまに寝起きの間延びした声で応じた。「GPSですか。昨日の今日で、早いですね」

「多少の不都合はあるがな」

「まずはリリースすること。ザッカーバーグもそれが大事だと言っています。……僕の方からも報告が。道々話します」

 楽しみにしているぞ、と応じて電話を切る。

 南の駅前で集合して地下鉄に乗った。GPSいわく、片瀬怜奈は都心方面へ移動中だった。車内は比較的空いていた。

「それで、報告とは?」

「いえ、後にします。彼女の目的地に、心当たりはありますか?」

「あるならこんな手の混んだ追跡はしないさ」

「現在地は?」

「おっ、ちょうど電車を降りた……銀座だな」

「銀座」翼は顔をひきつらせて笑った。「さっぱりわからない。何するんですか、銀座で」

 さあ、としか応じようがなかった。

 地下鉄を乗り継ぎ、紅子と翼が銀座へ辿り着いた時には既に一一時。GPSは、目的が読み取れないそぞろ歩きを続けていた。

 休日とあって、街は買い物客や外国人観光客で混雑していた。

 手近な、見覚えのある、チェーンの喫茶店に入り、背負ってきたノートPCを広げる。

「どんなルートなんです?」

「大まかには北から南」紅子はタブレット片手に応じた。「反時計回りのようなコースだな。少し待て。移動を動画化できればいいのだが……」

 GPSロガーに経路を表示させつつ、横で生のテキストを開いて時系列を追う。

 横から覗き込んだ翼が言った。「……数分立ち止まってる地点がいくつかありますね」

「おお、本当だ」座標がほぼ変化していないデータが確かにいくつか存在した。その座標を地図上で表示してみる。

「路上ですね」

「ああ、路上だな」

「買い物か何かと思いましたけど……ただのオフィスビルの前ばっかですよ」

「信号待ちとか」

「ないですね、信号」翼は画面を行き来しながら言った。「企業の展示場みたいなのもありますけど、中に入っている様子はないですね。ログ間隔より短い時間だけ入ったのかもしれないですけど」

「何の変哲もない銀座の路上で、数分間立ち止まりながら移動を繰り返している。ロガーの不具合の可能性は?」

「だったら位置がジャンプしますよね」

「……尾けるか」

「やっぱり、そうするしかないですよね」翼は沈んだ声で応じた。

「データでわからないなら、ものを見る。接近して彼女が立ち止まる瞬間を抑え、何をしているのか特定するぞ」

「読んどきゃよかった、完全スパイマニュアル」

「大袈裟な。ちょっと遠巻きに眺めるだけだ」

 万が一気づかれても、偶然以上のことは推測できないだろう。

 そのまましばらく画面を睨む。

 片瀬怜奈の移動速度は非常にゆっくりだった。平均して分速四〇メートル。どこかに目的地があるのではなく、移動することが目的のようだった。

 メニューの中で一番安いコーヒーが冷めるまで待機し、喫茶店を出た。

 翼は背負っていた鞄にストラップをつけ、肩提げにした。そしてパーカーを裏返して着直した。わざわざリバーシブルのものを、このために着てきたようだった。

 理由を問うと、翼は小悪魔的な笑みを浮かべた。

「印象を変えるんですよ。黒いパーカーを着たバックパックの男が、グレーのパーカーを着たメッセンジャーバッグの男になるわけです。尾行の基礎ですよ」

「まだ彼女の周辺に接近していないが」

「あっ……」

「君のその、未知の分野への前向きさは買うぞ」

 片瀬怜奈の現在地は、ちょうどかの大怪獣に破壊された大時計のあるビルのあたりだった。

 用心に越したことはない。目立たない程度の早足で、彼女の視界に入らない方面から接近を試みる。

 ものの数分で、人混みの中に、凛とした佇まいの片瀬怜奈を見つけた。学校ではあまり見ないアップの髪型に薄手のコート。

「いい靴ですね。いい靴を履いた女性は決して醜くならないんです」

 街歩きのためか、片瀬怜奈の足元はスニーカーだった。いい靴なのか、紅子にはわかりかねた。

 一〇メートルほどの距離を保つ。

「目線は腰から下です」と翼が言った。「惜しい気持ちはわかりますが、人は自分の腰から上に向けられる目線に敏感なんですよ」

 片瀬怜奈は数寄屋橋の交差点を左折し、外堀通りに入った。足取りはさほど確かではなく、たびたび携帯に目を落としていた。土地勘はなさそうだった。

 そしてほとんど新橋へ差し掛かったあたりで、彼女は足を止めた。高速道路と新幹線の高架で、空が遮られるような交差点だった。

 紅子と翼も、道路の対岸で足を止める。

「……何をしている?」

「見上げていますね、彼女」

「何を」

 その目線の先には、やはりオフィスビル。

 だが、変わった形のビルだった。円筒から左右へ互い違いに箱型のフロアが張り出した独特の構造だ。茶色いせいか、巨大な朽木を彷彿とさせた。

 携帯を向けて写真を撮影し、画面を確認してはまた撮影することを繰り返す片瀬怜奈。彼女の他に、その建物に意識を向ける通行人は誰もいなかった。誰もが足早に通り過ぎるだけだった。

 変わったビル。

 閃くものがあった。

「内藤くん。片瀬怜奈の第三のアカウントを見てみろ」

「第三って……ああ、まさか」翼は携帯を取り出すと、ややあってから「ビンゴですよ」と声を上げた。

「やはりか」

「ええ。一時間ほど前から建物の写真が次々投稿されています。そこの変なビルも。これ、全部銀座ってことですか。でも、なんで……」

「好きなんじゃないのか。ビルが」

「ビルが。わけがわからんですよ」

「きっと我々の電子工作趣味も周りからはそう見られているさ。……お、移動するぞ」

「いい笑顔ですね」翼はいつの間にかオペラグラスを覗いていた。「あんな顔もするんだな」

「あんな顔?」

「ええ。なんというか、すごく……にやにやしています。学校じゃあんな顔、見たことない」

「女性の顔面の専門家の君が言うなら、そうなんだろうな」

「褒められてない気がするんですけど……」

「褒めてないからな」

「そんなあ」

 益体もないやり取りはそこまでにして、片瀬怜奈の追跡を再開する。

 だが程なくして、追跡行は終点へと辿り着いた。

 足取り軽やかに新橋の駅前を抜けた片瀬怜奈は、ビル街の隙間にひっそりと佇む何かの店へ入った。新しい建物に不釣合いな古めかしい藍色の暖簾。おそば、と書かれていた。

「……蕎麦だ」

「蕎麦ですね」

「……今度は有名店らしいな」

「ええ。僕も今調べました。江戸時代に創業した由緒正しい蕎麦屋みたいですね」

「内藤くん。ひとつ、憶測を述べてもいいか?」

「お好きに」

 風に揺れる蕎麦屋の暖簾をぼんやり眺めながら、紅子は言った。「もしや、片瀬怜奈という女は、無類の蕎麦好きで筋金入りのビルマニアなのか?」

「奇遇ですね。僕も同じことを考えていました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る