3-9 ハート・クラック

「今すぐ、全校生徒を対象にした匿名のアンケート調査を行うべきです」そう語気を強めたのは、音屋礼仁だった。「野崎くんがクラスメイトからいじめを受けていたという可能性は考えられないでしょうか。確かに保健室で寝ている生徒へのいたずらくらいは、日常茶飯事です。目くじら立てることではありません。ですが今回の件は、いたずらにしては明らかに度が過ぎています」

「その明らかの基準はどこにありますか?」他の男性教諭が応じた。「子供たちの考え方は千差万別です。大人の基準で一様にこれは度が過ぎていると断じるのは、いかがなものかと。今回の件は既に生徒たちの間でも大きな話題になっています。誰がやったにせよ、本人たちも自分のしたことの重大さを自覚せずにはいられないでしょう。つまり、社会罰を既に受けているということです。その上我々教職員が犯人探しをして、罰を与えるとは、少し過剰ではありませんか? 第一、その誰かを正しく特定できるとは限りません。何もしていない子を大人が寄ってたかって責める結果になったら? その子の将来に重大な負の影響を残すことに繋がりかねません。慎重になるべきかと」

 更に他の女性教諭が言った。「そもそも、誰かにやられたということ自体、早合点かもしれませんねえ。最近の子供は狡猾で、大人を利用することにも長けています。野崎くんが誰かを陥れるために、自分で漂白剤入の水を被ったのかも」

「そんなこと……ありえません!」音屋は声を荒げた。

「まあまあ、皆さん、冷静にお願いします」口を挟んだのは、校長だった。「予想や推測ではなく、事実を元に議論しましょう。昨日、野崎くんのご家庭を訪問された、有沢先生の報告です。ここには、『野崎悠介本人から、誰かに漂白剤入りの水を浴びせられた、等の被害を訴える証言は得られなかった』とあります。有沢先生、この報告書に書かれていることに、虚偽はありませんね?」

 有沢が即答した。「ありません」

「それでは同じ報告書に書かれている、『野崎悠介のご両親は、本件に関して警察へ被害届を提出する等の意志はなく、子供同士のことであるから学校で処理されることを望んでいる』という文言も、確かですね?」

「確かです」と有沢は再び即答し、ややあってから続けた。「ご両親は、本件について何も話さない悠介くんに苛立っている様子でした。報告書にも書きましたが、誰かにやられたのかと訊いても何も答えない、きっと自分でやったから、恥ずかしさと後悔の意識があって何も言えないのだろう、と仰っていました」

「やはり音屋先生の言われたことには飛躍がありますね」また別の教諭が言った。「そもそも野崎くんは学校に友達もいる。孤立しているとか、無視されているといった兆候もない。これは担任の有沢先生による、クラス内の交友関係メモにも書かれていることです。佐竹くんという男子のグループとよく一緒にいるとか」

 体育教師が口を挟む。「野崎。目立たない、元気のない子だ。そういう子ほど、何をするかわからない。少年犯罪でニュースになるのも、決まって、教室では目立たない普通の子だ。我々教職員が正しくと指導してあげる必要がある」

 すると、有沢が一段低い声で言った。「ですがそういう子を追い詰めるのも教室です」

「と、いうと?」校長が促す。

「私の個人的な見解ですが、野崎くんは佐竹くんらのグループからいじめ、あるいはそれに類する行為を受けていたと考えています。彼のような生徒は標的になりやすい。佐竹くんのような派手なグループと一緒に行動していることに、私はそもそも違和感を持っています」

「合わないなら離れればいい。好きで一緒にいるんだろう」と主幹教諭が言った。「同じグループの芝浦くんは、私もよくご両親のことを存じている。立派な教育感をお持ちの方だ。君は彼らが野崎へのいじめを日常的に行っていると言いたいのか? 証拠もなしに?」

「まあまあ」と教頭が言った。「昨夜その芝浦さんから私のところに電話があってね。学校で騒ぎがあったと息子から聞いた、お前のところの担任は何をしているんだ、というお叱りだったよ。有沢先生、あなたが昨年度に起こした保護者の方とのトラブルのこともよくご存知だった」

「電話といえば」と校長。「やはり昨夜、野崎くんの両親から私に直接電話がありました。有沢先生の家庭訪問時の態度に、大層ご不満だった様子で。……まるで、誰かにやられたと言わせ、誰にやられたのか聞き出したいかのようだった、と」

「それは問題です」と主幹教諭が声を荒げる。「有沢くん、君は自分が現場に立ち会ったわけでもないのに事態の内容を決めつけ、一方的な予測や仮定を元に、いもしないかもしれない犯人の名を無理矢理言わせようとしたのか? 言語道断だ!」

 有沢は怯まない。「ですが野崎くんには、いじめ被害者に特有の兆候がありました。私物が壊れている、体操着や教科書などを度々失くす。私が担任になってからも、既に……」

「そんな話は聞いていない」主幹教諭は有沢を遮って言った。「問題だと考えたのなら、その時点で報告すべきだ。君にはその義務がある」

「ですから今、報告しているのです」

「君は私をからかっているのか!?」

 すると、いかにも気弱そうな男性教諭が「あのお」と手を挙げた。

 一同が黙った。まだ発言していいか戸惑っている様子の彼に、音屋が「どうぞ、葛西先生」と促した。

 葛西が言った。「知人に流体力学の専門家がいます。専門分野は防波堤の設計で……現場の状況を彼に伝えてみれば、ある程度事実がはっきりするのではないかと思います。少なくとも、僕は興味があります」

「君の好奇心につきあっている暇はない」と教頭が切って捨てる。

「ですが」葛西はなおも食い下がった。「お話を窺うに、野崎くんが自分で水を被ったのか、誰かに浴びせられたのかを明確にすることがまず第一ではないでしょうか。それによって、学校のベストな対応も変わるでしょう。漂白剤ですよね。成分次第ですが、僕でよければ呈色試薬の類は用意できると思います。ここで推測を元に中身のない議論をこね回すよりも、シミュレーションなり再現実験なりで科学的かつ客観的な検証を、数値化して行うことこそが、事態解決への一番の早道だと僕は思うのですが……」

「葛西先生、ここにいる全員、事態を重く見ているから休日返上で集まっているんですよ」女性教諭がため息混じりに応じた。「それを中身のない議論だなんて、言葉が過ぎますよ」

「でも物理演算にはバイアスはないですし、スパコンに電話をかける人はいませんから。サイバー攻撃はたまにあるそうですが……いいアイデアだと思ったんですけど」

 主幹教諭の顔つきが険しくなる。「スパコンだか薬品だか知らないが、これは我々教職員が責任を持って解決すべき事案だ。専門家でない者を介入させるなど、もっての外だ」

「調査、検証については、教師の方こそ素人では……」

 また怒号が飛びそうになる会議室。制して言ったのは、音屋だった。

「中身がないとは思いませんが、私たちには情報、事実の集積が不足しています。やはり私は、いじめに関して、生徒たちへのアンケート調査を提案します」

「アンケートを取って、どうするんです?」他の教諭が鼻を鳴らした。「子供の言うことはころころ変わります。匿名ならなおさらでしょう。それこそ、これ幸いにと嘘を書かれるかもしれない。アンケート自体が、新たないじめのきっかけになるかもしれません」

 女性教諭が笑みを浮かべる。「音屋先生はもうすぐ産休に入られますから。提案するだけして、後に残る面倒事からは手を引けますものねえ。担任も引き受けられない。責任のないお立場ですから」

「そんなつもりでは……!」

 腰を浮かしかける音屋。

「みなさん冷静に、冷静に」校長が解析せずともわかるほどの作り笑いで言った。「野崎くんのご両親からの申し出もあります。誰かを陥れようとした、とすると角が立ちますし……彼が注目を浴びたくて自分で浴びたのだ、ということで。いかがでしょう、有沢先生?」

「しかし……」

「今日の会議は、普段生徒と身近に接していらっしゃる教職員の皆さんから、ざっくばらんなご意見をいただくためのものです。議事録は作成しません。誤解を招きたくありませんので、会議が行われたことは口外しないこと。上への報告は、有沢先生の報告を元に、教頭先生らと相談して私たちで作成します。いいですね?」

 やや間があってから、有沢は「わかりました」と言った。納得していないことは明らかだった。

 ですが、とさらに抗弁を試みる有沢。

 紅子は深々とため息をつき、映像と音声を切った。これ以上は時間の無駄だった。

 ロボット研究会の部室。その日は生徒の立ち入りは禁止されていたが、紅子、翼、えれなの三人は生け垣の切れ目から無事侵入を果たしていた。

「概ね予想通りの展開だな」

「ありえない! なんなんあのババア!」えれなは怒り心頭に達した様子だった。特に音屋へ皮肉を言った女性教諭に。

「音屋先生と有沢先生、頑張ってましたね」翼はイヤホンを丁寧にケースに収める。「それと葛西先生って方が案外まともなので驚きました」

「それにしたって」えれなの頬が怒りに紅潮していた。「野崎くんが注目を浴びたくて自分で漂白剤入りの水を被ったって、どういうこと? 信じらんない。ありえない。マジ意味不明。どういう神経してんだろ」

「ただでさえ、これなのにな」紅子は〈WIRE ACT〉の画面をPCに表示させた。

 芝浦と元木による、佐竹グループのプライベートラインへの投稿だった。彼らは昨夜の内に佐竹から送られた金で、映画にカラオケ、食事、買い物と遊び歩いていた。金額の一部は品薄の携帯ゲーム機の購入に充てられ、即中古ショップへ売却することで現金化。硬貨へと両替され、そのままアーケードゲームの筐体へと吸い込まれていた。

「支配の言語は金だった、というわけですか」翼は嫌悪感を隠そうともしないしかめっ面だった。「つまり彼らは金目当てのポイント稼ぎで野崎をいじめていた。佐竹はゲームメーカー。一部の手段が中学生染みていたのも説明がつきますね。派手で物理的で、ひとりで実行できる、結果へのが明確ないじめで大きな衝撃を野崎に与え、より強く死にたいと思わせたかった」

「でも佐竹くん、どうしてそんな……」

「教室の人心をハックするためだ」紅子は即答した。

「どういうことです?」と翼。

 発覚からひと晩考え続けたことだった。紅子は、まだまとまりきらない考えを頭の中で整理しながら言った。

「金を餌に野崎をいじめさせる。金を使って、野崎はいじめてもいいやつだという空気を作り出す。松井や芝浦、元木、篠塚、高橋、木村といった連中は、雇用されたのであって、空気に流されたわけじゃない。だが見て見ぬふりをしたり、あいつらがやっているとわかっていても告発しない他のクラスメイトはどうだ? あいつらも、佐竹に雇用された連中が作り出した空気に呑まれ、間接的に佐竹の支配下にあるといえる。これは佐竹にとって、社会実験のようなものなんじゃないかと、私は推測している。ちょうど無数の家庭用ルータがリモートでDDoS攻撃に利用されるようにな」

「心を暴くとか、部長いつだか言ってましたね。あなたらしい発想です」

「昨夜から連中のWIREを見ていてな、もしも佐竹がいなかったら、と考えた。もちろん、いじめがゼロになるわけじゃないだろう。だが先に挙げた六人全員が、積極的にいじめに参画しただろうか。我々以外誰も野崎に手を差し伸べようとしない今のような事態に至っただろうか。有沢や音屋先生の言葉は封殺されただろうか。野崎はこんなにも死にたいと投稿しただろうか」

 翼も、えれなも、何も言わなかった。その沈黙は肯定だった。

 

「人の心に、ヒビを入れる。クラックってのは、ヒビ割れという意味なんだったな」紅子は言った。「我々がグレイハッカーなら、やつは人の心を乗っ取り遠隔操作する」

 少し間を置いてから、翼が言った。「そのセンスはともかく……少なくとも、野崎の死にたい投稿の絶対数は、減ったでしょうね。それ即ち、教室に存在する辛さの総量が減るということです。人間放っておいても死にたがるので、ゼロにはならないでしょうが」

「それで羽原ちゃん」えれなが身を乗り出す。「どうすればいいの、うちら」

「僕も部長のアイデアが聴きたいです。手段が思いつかないわけじゃないですが、どれもあまり好ましくないオプションだ」

 紅子は数秒黙った。

 翼の目を見た。笑っていなかった。好ましくないオプション。言い換えるなら、手段を選んでいられないということだ。

 紅子にも考えがないわけではなかった。目星も既につけていた。こちらの身が危うくならず、客観的な証拠を収集できること。だが子供が言ったところで教師らには相手にしない。何が、より誰が、が重要だ。教師らが思わず怯むような存在である必要がある。

 紅子は言った。「葛西とかいう教師が言っていたことには一理ある」

「客観的な検証による数値化ですか? あれには同意しましたが、ちょっと受け入れられるとは思えないな」

「そこじゃない。調査、検証については素人だ、という部分だ。なら、その道のプロを雇用してやる。こちらも金を使ってな」

「どゆこと?」首を傾げるえれな。

 紅子はPCを閉じた。

「校内トラブル専門の個人探偵を雇う。もう手段は選ばんぞ」

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