3-8 700の倍数
翌日、野崎は学校を欠席した。担任の有沢はホームルームにこそ現れたものの、その日の国語の授業は自習になった。おそらくは野崎の家庭訪問だった。保健室は生徒の立ち入りが禁止され、強面の体育教師が一日中廊下の番をしていた。
だが警察が呼ばれる気配はなかった。
休み時間、紅子は中庭で翼、えれなと落ち合った。視界の端に、件の保健室が見えた。
「家庭科室から漂白剤が一本なくなっていたそうです」そう語る翼の顔に茶化しの笑みはなかった。「あと、野球部の用具置き場からバケツがなくなっているとのことです」
「野球部……例のドカベンか。名前はなんだったか」
「芝浦くんでしょ」とえれなが応じた。いつも底抜けに明るく能天気な彼女も、今日に限っては沈んでいた。「家庭科室の方はわかんないけど、昨日の帰り際に元木くんがハイターのボトルを蹴っ飛ばしてるところを見たって子がいた」
つまり事件のあらましはこうだ。
体調不良のため保健室のベッドで休んでいた野崎。芝浦と元木は野球部の部室からバケツを、家庭科室から漂白剤を入手した。保健室は背の低い女性の養護教諭が棚の上のものを取るため三段の小さな脚立が備えつけられており、彼らはそれに乗り、閉じたカーテンの上から、漂白剤入りの水を浴びせかけた。
「サッカー部だっけ、彼」と翼。「蹴られたボトルの行方は?」
「表の道路に飛んでったって」
「いずれにせよ、監視カメラも何もない。仮に警察が呼ばれたとして、凶悪犯罪でもないんだから科学捜査は行われないだろう。聞き込みと自白が頼りだな。内藤、君は漂白剤とバケツの話、誰から聞いた?」
「みんな言ってますよ。つまり芝浦と元木だってことも、みんな」
「じゃあ先生が聞き取りすればわかるよね。有沢先生だって、今日野崎くんちに家庭訪問してるんでしょ?」
「それは……どうだろうな」紅子は翼へ目線を送る。
言いたいことは彼には伝わったようだった。
有沢は昨年、モンスターペアレント染みた親から延々と電話攻勢を受け、担任を外れた経緯がある。野崎から事情を聞けたとしても、芝浦や元木の親からの反撃を恐れて萎縮することは十分に考えられた。
さらに悪いことがあった。
「芝浦の父親、烏丘のOBなんですよ。息子と同じく元野球部で。OB会の理事もやってて、学校運営に一定の影響力を持っている人物です。校長・教頭を始めとする学校の執行部が、彼に忖度してこの事態を大事にしないというシナリオは、十分に考えられます。その上今の主幹教諭は、芝浦の父親の、野球部時代の後輩にあたります」
「どこで知った、そんなこと」
「姉がね。烏丘のOGなんですけど、事情通で、芝浦の兄と同級生だったんです。……言ってませんでしたっけ」
「聞いてないが」応じ、紅子は息をつく。「すると犯人探しにはならない公算が強いか」
「学び舎は生徒を信じる場所、犯人探しなどもっての外……という理想論へのすり替えがなされれば、きっと有沢先生は黙らされるでしょうね。そもそも野崎が、誰かに漂白剤入りの水をかけられたと先生に証言しない可能性もあります」
「そんな……でも野崎くんのお父さんやお母さんは?」
「その線でも野崎に不利だな」紅子はFacebookのページを開いた携帯を示した。「これ、野崎の父親のものだ。漫画・ゲーム叩きや、自分たちの子供の頃と比べて最近の子供は便利で優しい環境に甘えている云々という投稿ばかりだ。厳格な父親のようだ。息子のオタク趣味にも否定的だろうな」
翼の顔が歪んだ。嫌悪感を隠そうともしていなかった。「いじめられて強くなるとか、本気で思ってそうな男ですね」
「でもそれじゃ野崎くん可哀想だよ」
「だから僕たちがいる、と言いたいところだけど……」今度は翼が紅子へ目線を送る。
もしも芝浦や元木、そして佐竹の行いを告発したとして、何らかのミスを犯して告発者が羽原紅子と内藤翼であると知れたら。
佐竹には反社会的勢力との繋がりがある。下手に手を出せば法律の外にある掟に従って動く組織犯罪集団の標的とされ、安心して日々を過ごせなくなるリスクを孕んでいるのだ。
そしてもうひとつの懸念があった。
「仮に実行犯の芝浦と元木を告発できたとしても、佐竹の指示の証拠はない。今の我々では本丸を落とせないんだ」
翼の言葉を借りるなら、『支配の言語』だ。
「そもそもの話なんだけど……」えれながおずおずと言った。「佐竹くんたちのしてること、ちょっと違和感ない?」
どういうことだと問うと、えれなは自分でも整理し切れていないように、取り留めなく語った。
その内容を整理するなら、こうだ。
「まるで中学校のいじめだ、ということか?」
「そう、それだよ羽原ちゃん」
「確かにそうですね」と翼。「水を浴びせたり教科書に落書きをするような物理的ないじめは、むしろ中学生に多いです。高校になると、そういう大なり小なり物証が残るいじめは、あまり行われないのが普通です。馬場ちゃんや片瀬怜奈が報田たちにやられていたような、物証の残らない仲間外れだとか言葉の暴力だとか、無視や陰口の方が一般的です。職場いじめも似たようなものらしいので、人間高校生あたりで精神の成長が止まるのかもしれませんが」
予鈴のチャイムが鳴った。通りがかった教師から、早く教室へ戻れという趣旨の言葉が投げかけられた。
「職員会議の内容が気になるな。今回の一件への学校の対応次第では、私にも考えがある」
「でも先生の会議の内容なんてわかんないじゃん。どうするの?」
不安気なえれなの肩を、紅子は叩いた。「なあに、悪の遺産を有効活用しよう」
午後になっても、有沢は学校へ姿を見せなかった。紅子らにとっては好都合だった。実際に家庭訪問した彼抜きでは、会議は行われない。つまり、時間が稼げる。
放課後、ロボ研の部室で保管していたとある物資一式を持って、紅子と翼、えれなは職員用の大会議室へ忍び込んだ。普段は施錠されているが、本来は午後から会議の予定だったらしく、椅子やテーブルが整列された部屋の鍵も開いていた。
持ち出したのは、去年の年末に、校内での盗撮を行っていた派遣事務員から押収した超小型カメラだった。
「まさかこんなところで役に立つとはな。あの盗撮野郎に感謝だ」
「あたし撮られたんですけど……」
「まだ根に持っていたのか。見えてもいいやつなんだろう」
「確かに見えてもいいやつだったけど、見られて嬉しいわけじゃないし」
「一応言っておきますが」と翼が口を挟んだ。「見えてもいいやつだからって、見えて嬉しくないわけではないです」
「そういうものか?」
「部長は男心がわかっていませんね」
「女心もだよ!」えれなは翼に食ってかかる。「翼くん、意外とやらしいよね」
「淡白そうな面してな」
「僕だって健全な青少年なので……」翼は口を出したことを後悔しているような苦笑いだった。
だがひと通り会議室内に設置して、接続テストをしたところ、問題が発覚した。ロボット研究会の部室からでは電波が届かないのだ。
致し方なくコンセント直結の中継機を二部屋隣の空き教室に設置。さらにドローンと、ジャンクから特急で組み上げたロボットを駆使して木の上にバッテリ式の中継機を設置することで事なきを得た。
そしていくつかの偽装の仕掛けをして、その日は一旦解散とした。
翼とえれなを送り出して、紅子はひとりロボット研究会部室に残った。
何をするわけでもない。ただ、自宅で親の横槍を受けるよりも、部室にいた方が考えがまとまるし作業に集中できるからだった。
幸運を祈ることしかできない自分がもどかしかった。そして最近翼と話したことを思い出した。
教職員でもいい。クラスメイトでもいい。どこかに、善意で悪意と戦ってくれる人が、我々以外にもいるのだと、信じたい。
同級生のWIREを片っ端から閲覧する。だが誰ひとりとして、芝浦や元木、そして裏で糸を引いているかもしれない佐竹への怒りを表明する者はなかった。わからないではない。WIREのスクリーンショットでも撮られようものなら、それが弱みとなってしまう。もしも自分か、他の誰かが野崎のポジションに追い込まれそうになった時、あいつは佐竹のことを悪く言っていた、という証拠を示して生贄に捧げれば自分は逃れられるかもしれないのだ。
本当におかしいのはどちらなのか。たとえば野崎の存在によって周囲に軋轢が生じるとして、おかしいのは野崎の方なのか、それとも教室の方なのか。高橋がADHDという言葉を使っていたことが、その答えのヒントになる。
誰のWIREも、どのプライベートラインも、野崎の排除そのものは仕方がないことだと受け入れている節があった。だって世の中にはそういう人がいるんだから、と。
おかしいのは、教室の方だ。
この世には定型発達から外れて日常に困難を感じる人がいる。これは事実だ。だがそういう人の存在をなまじ知ることで、困難を感じる人に定型発達から外れているというラベリングを行い、軋轢を肯定する。彼を排除することを正当化する。
一見すると、日常に困難を感じる人の存在を肯定しているかのようだ。だが、実際には否定している。そもそも野崎に、ADHDあるいはそれに類する診断が医師から下されたという事実はない。勝手に、きっと彼はそういう存在なのだと理解したつもりになって、何もしない自分たちを肯定する材料にしているだけだ。
なぜだ、と紅子は虚空へ向け問う。
なぜこんな空気が形作られている?
どこにでもあるありふれた風景と断じるのは簡単だ。だがニヒリズムに甘んじていては、何もせず周りに流されるという最低の悪意に染まった人々と同じだ。
陽が傾いていた。
紅子はあくびをして、背伸びをした。頭に糖分と酸素が足りていなかった。不本意ながら後は家でやろうと決め、最後に佐竹グループのWIREをざっと眺めた。その時だった。
今回の実行犯と目される『ドカベン』芝浦勲と、『アーモンド頭』元木大飛の間で、今まさにプライベートラインが交わされていることに気づいた。
瞬きも忘れて開く。
血の気が引いた。
芝浦――『40死にたいだぜ』『新記録』
元木――『28000円かー』『何使う?』
いずれも絵文字混じり。そしてゲーム機や靴を買う算段、遊びに行く予定などをふたりは組み立てていく。
深呼吸しながらノートPCに大型モニタを繋げ、佐竹の裏アカウントである〈Jun〉からの送金と翼やえれなが収集したいじめ被害の証拠とその日付、そして同日の野崎の死にたいアカウントの投稿を並べていく。
奥歯がぎりりと音を立てた。
紅子はテーブルを拳で叩いた。空疎な音が、狭い部屋に反響し、消えた。
「そういうことか」と紅子は呟いた。
佐竹からメンバーへの送金額は例外なく七〇〇の倍数だった。
芝浦や元木、そしておそらく佐竹以下メンバー全員は、野崎の裏アカウントの存在を把握している。
送金の日付と受け取った人物は、野崎に何らかのいじめ行為が行われた日とその実行犯に一致する。
そして送金額は、投稿された死にたいの数×七〇〇円だった。
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