3-7 生ける屍

 確かにこの世は悪意に満ちているが、それを上回る善意もあると、私は信じている。

 そう翼に言ったのは紅子自身だ。だがそれを信じていないのも紅子自身だ。

 四月が終わり、学年初めの浮かれた気分もどこかへ消えていく。野崎に対する佐竹らの行いについて、決定的な証拠は得られないまま、時間だけが過ぎていく。新入部員の勧誘期間も終わり、文化部合同展示のロボットたちも、部室で埃を被るジャンクの一員となった。

 日々、WIREの裏アカに増え続ける野崎の『死にたい』。見たところで状況が変わるわけでもないのに、紅子は暇さえあれば、そのアカウントを監視してしまっていた。

 そして、翼の言葉を信じるなら、彼が叶わない思いを寄せる相手である、片瀬怜奈の裏アカ。ビル巡りの趣味は相変わらずで、休日になれば、都会に埋もれる一風変わった近代建築の画像が数枚アップロードされていた。

 だが、片瀬怜奈の気持ちが向かう相手は、憂井道哉だ。

 誰かひとり。どんな人にもいる、大切な、誰かひとり。戦場へ向かう兵士も、教室で息を潜める高校生も、きっと同じように、誰かのことを思って自分を保っているのだ。

 果たして自分にそういう相手はいるのだろうか――考えてみれば、ひとつの顔が浮かぶ。童顔に生意気な笑みを浮かべる、内藤翼だった。

 それに気づいたきっかけは、些細なことだ。

 五月の連休。何度目かわからない情報交換の後、えれなが「買い物行こうよ」と言い出したのだ。

「クリアランスセールだよ。ほら」携帯を見せながら、えれなは鼻息荒く言った。「春物一掃、ゴールデンウイーク大特価!」

「特価ってな。売れないから特価になるんだろ。いいものは売れる、つまりよくないものしか残っていない。踊らされて無駄金を使うだけだろう」

「えー、でも羽原ちゃんと一緒に買い物とか行ったことないし。行こうよー」

「私はいい。そういうのは苦手でな。内藤を付き合わせろ」

 するとその翼がにやにやと笑って言った。

「部長。苦手なことを克服するたったひとつの方法をご存知ですか。慣れです」

 そうも煽られては黙ってもいられず、不本意ながら同行することにしたのである。

 そもそも、洋服を自分で買ったことがほとんどなかった。欲しいと思ったこともなかった。

 向かったのは渋谷のファッションビルで、えれなは出店しているありとあらゆるブランドの傾向と価格帯、使い勝手を熟知していた。翼も、姉の影響か、それなりの知識は持ち合わせているようだった。

 何店舗目かで、吊るされていた服を試しに手に取り、値札に書かれた数字に目を剥いた。想像していた価格の上に一がひとつ多かった。

「……わからん」

「部長だって、ネット通販の投げ売りは毎日漁ってるでしょ。それと同じですよ」

「どうせ半期で着なくなるんだろ。そんなものにどうしてこんな……」

「んじゃあもうちょっとお手頃なところを攻めよっか」どんなに嫌味を投げてもえれなは楽しげだった。

 次に向かったのは、海外のファストファッションブランドの路面店だった。紅子も名を知っていた。途上国にあるこのブランドの工場で労働者が組合を組織し、低賃金に抗議したというニュースを通じてだった。店頭の巨大なデジタルサイネージには、やはりSALEの四文字が流れていた。

 ビルひとつがまるごと店舗になっている。それでも店内は買い物客で混雑していた。半数は外国人観光客だった。フロアを巡るえれなは目を輝かせていた。あまり見たことのない顔だった。

 両手に抱えきれないほどの服を抱え、試着室へ入るえれな。

 表に残された紅子と翼。すると翼が、抑え気味の声で言った。

「付き合わせてすみませんでした」

「構わん。普段あまり触れない世界に触れるのはためになる。私は君のように、未知の領域への貪欲さを持ち合わせてはいないからな」

「ちなみにこのブランドは、ネット通販で買った方がいいです。サイズも色も揃っていますし、在庫が店頭と共有されていません。通販在庫なら、誰の手が触れたかわからないものに袖を通さなくてもいいですから」

「……姉上の教えか?」

「ええ。僕の姉、通販マニアなんです。言ってませんでしたっけ」

「聞いてないが」紅子は携帯を取り出す。「そんなことより、君にだけ知らせておくことがある」

「僕だけ?」

「ああ。佐竹の件だ。やつの背景を調べろと言ったろ」

 翼は試着室の方へ目線を向ける。「馬場ちゃんには知らせたくない内容ですか」

「ああ。佐竹……コリアン系の覚醒剤密売グループと関係している」

 翼が眉をひそめた。

 すると試着室のカーテンが開き、えれなが姿を見せた。

「決めたぜ、ストリートに。……どう?」くるりとその場で一回転するえれな。

 紅子は表情を取り繕った。なるほどストリートだった。何がどうストリートなのかはともかく、いかにもストリートだった。

 翼が一歩前に出た。

「ジャケット、もうワンサイズ大きい方がいいんじゃない? ゆるめに着たほうが可愛いと思うよ」

「えー、でも太って見えないかな」

「大丈夫だって。スタイルいいんだから」翼は手を伸ばし、曲がっていたジャケットの裾を直した。

 その瞬間だった。

 佐竹のことを忘れた。

 胸が、針で刺されたように傷んだ。そんなことをして欲しくないと思った。自分の知らない翼の部分を、えれなが共有しているように思えた。それで自分が、えれなに、と気づいた。

「翼くんがそう言うなら、そうする」とだけ言って、えれなの姿はカーテンの向こうに隠れた。

 呆気に取られて、紅子はそのカーテンを見た。えれなの表情が、目に焼きついていた。なぜそんな顔をするんだ、と問い詰めたくなった。まるで翼のことが、好きで好きでたまらないかのような顔。羽原紅子が一生作れないだろう顔。

 ややあってから、翼が言った。「羨ましくなりましたか、部長」

「はあ? 何が。なぜ私が」

「いえ、馬場ちゃんのこと見てらっしゃったので」翼はいつものように肩を竦めた。「なんなら僕が、部長に合いそうな服、見繕いましょうか。お金ならありますし、全身コーディネートしますよ」

「余計なお世話だ。そんなことにうつつを抜かす脳の容量はない。野崎のことが最優先だ」

「でも連休に入ってから、例のアカウントだって止まってるじゃないですか」

「余計なお世話だと言ったぞ」と紅子は応じた。

 せっかくだから私も、と言えない自分に腹が立った。それは羽原紅子の考える羽原紅子ではなかった。だが、言わなかったことをいつか後悔するだろうということだけは、脳細胞のどこかで漠然と理解していたのだ。

「それで」翼は訝しげだった。「佐竹の話。途中でしたよね」

「ああ、それか。……やつの二番目の裏アカを再調査した結果、明らかになったことだ。テコンドー道場の人間関係と早合点していたが、半数は薬の売人を中心とする半グレ集団だったよ。おそらく上流には、最近勢力を伸ばしているというコリアン・マフィアがある」

「じゃあ野崎から恐喝したきり使い道がわからなかった金も、薬に流れているかもしれないってことですか」

「さあな。やつ自身が薬物に依存している兆候は見出だせなかったが」

「でも半グレ集団、果てはマフィアですか」翼は苦々しげに言った。「次は湿布じゃ済まないかもしれない。下手に手を出せば、僕ら自身の身に危険が及びます」

「だからだよ。馬場ちゃんにはこの件、黙っておきたくてな」

「そうですね」と翼は応じた。「僕らだけの秘密にしておきましょう」

 秘密。

 その言葉に優越感を抱いている自分に、気づかずにはいられなかった。

 そうして二〇二七年のゴールデンウイークが終わった。日付が変わった瞬間、野崎が裏アカにひと言『死にたい』と投稿した。

 なんとしても佐竹を止める。なんとしても野崎を守る。この世の悪意を上回る善意となる。

 そう自分に言い聞かせることで、胸に刺さった針の痛みに、気づかないふりをした。

 そしてゴールデンウイークが明けた最初の平日、烏丘高校に新たな事件が起こった。


 朝から時間五ミリの雨が降っていたその日、教室に野崎悠介の姿はなかった。鞄は教室にあったため登校はしているようだったが、授業は全て欠席。それとなく、今年も同じクラスだった眼鏡の委員長に訊いてみると、「体調が悪くて保健室だって」という答えが返ってきた。

 ついに保健室登校。だが幸か不幸か、その日、佐竹らが何かのアクションを起こす様子はなかった。

 そして放課後、紅子はいつものようにロボット研究会の部室へ向かった。人気の少ない廊下。室内練習になった運動部の喚き声と、吹奏楽部のでたらめな音が、雨音の中に染み込んでいた。

 正面にゾンビがいた。

 よく見ればそれは男子生徒だった。廊下の向こう側から、床だけを見ているかのように俯いて、覚束ない足取りで紅子の方へと近づいてくる。彼が歩いてきただろう道のりに、点々と水たまりができていた。まるで今、雨の中を駆け抜けてきたかのようだった。

 立ち止まるのも不自然に思い、紅子は、平静を装って歩みを進める。

 ゾンビの正体は、野崎悠介だった。

 俯いた手元に携帯があった。一心不乱に何かを入力していた。廊下の薄暗さのために、蒼白な顔面が照らし出されていた。

 近づく。何か呟いている。聞き耳を立てながらすれ違う。

 こう言っていた。

「死にたい、死にたい、死にたい、死にたい」

 思わず、足を止めて振り返る。

 ずぶ濡れの野崎からは、雨の匂いがしなかった。

 代わりに塩素の匂いがした。

 紅子は走り出した。向かう先は部室ではない。保健室だ。

 一年生とぶつかりそうになりながら走り、グラウンドへ面した廊下へと入る。

 保健室の前には、既に人だかりができていた。養護教諭と、数名の教諭が、騒ぎを聞きつけたらしい生徒らの前に立ちはだかっていた。その中には音屋礼仁の姿もあった。

 消毒液の匂いに混じるのは、やはり塩素の匂い。野次馬をかき分け、紅子は保健室の中を窺う。

 水浸しだった。水の流れる元を目で辿ると、ベッドがあった。シーツからまだ水滴が床に絶え間なく落ち続けていた。

 ベッドを囲うクリーム色のカーテンが、ところどころ赤く変色していた。

 誰かが交わす言葉が聞こえた。

「あれ、漂白剤だよね」

「うわー、気分悪くなってきた……」

「誰だよこんなことしたの」

「あそこに漂白剤ぶちまけたってこと?」

 そして次に聞こえた言葉に、紅子は激しい動悸を覚えた。

「ベッド、誰が寝てたんだろうね」

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