3-6 女の子なんだから

「有沢先生?」

「はい。私のクラスの担任の先生です」紅子は慣れない敬語で言った。「どんな人ですか?」

 放課後のロボット研究会部室。紅子の前にいたのは、顧問の音屋礼仁教諭だった。隣には珍しく大人しくロボットを組み立てる翼。

 音屋の用事は、新入生歓迎用の文化部展示についてだった。

 例年、烏丘高校では、始業式・入学式の翌週から部活の勧誘が始まる。運動部や音楽系は練習の見学が多いが、その他の文化部は合同でひと部屋を与えられ、文化祭と似たような展示で活動内容の紹介を行うのが通例だった。

 今回の展示は、テーブルの上を縁まで歩いては戻る二足歩行ロボットと、マーカーを画像処理で認識して一定距離を保って飛行し続け、規定時間に達したら無線給電ポートへ戻ることを延々と繰り返す室内用小型ドローン。至って品行方正な展示だったが、数々の前科のために音屋には全く信用されていなかった。

 しかしそもそも、室内で妙なものが誰も監視していないのに飛行し続けていることに教職員からクレームが入ったのがきっかけだった。近接センサで対人衝突を防ぐ仕組みを搭載していると主張しても聞き入れられる気配はなし。音屋教諭の奔走の結果、展示自体は許可されたが、飛行は部員のいずれかが立ち会っている時のみに制限されてしまった。

 紅子が新しい担任のことを切り出したのは、ひと通りの説明責任を果たし、信頼回復に努めた後のことだった。

 翼が手を止めて言った。「去年、僕らの学年の担当じゃなかったのに、どうして急にって思って」

「去年も二年生の担任だったんですよね」と紅子は噂に聞いた情報を口にする。

 音屋は、渋々といった様子で応じた。「……保護者の方と、少しトラブルがあってね」

「保護者。現三年のですか」紅子は前のめりになる。

「ええ。誤解のないように言うけど、有沢先生自身は、真摯で熱心で、生徒に親身になって接するいい先生よ。ただちょっと……くせのある保護者の方でね。娘の成績が伸びないのはお前の指導が悪いからだ、って毎日のように電話してきたのよ。挙句の果てにはお前が娘を誑かしているとか。以前はオートバイで通勤してらしたんだけど、やっぱり同じ保護者の方からのクレームでやめちゃったのよね」

「なぜクレームに」

「バイクは教育に悪いんですって。失礼しちゃう」

 まったくです、と紅子は応じる。音屋も、実はその昔、ホンダの高回転型スポーツバイクであるCBR250RRを乗り回し峠の疾風となっていた過去を持つ女傑だ。彼女のそういうところも紅子は気に入っていた。

 翼が口を挟んだ。「じゃあ学校は、その保護者からのクレームに折れて有沢先生を降ろしたってことですか」

「もちろんそういう面も否定はできないけど、有沢先生がノイローゼ気味になっていたことの方が大きいわね。正直、彼に担任を今年も任せることに、私は反対したんだけど……」紅子らが黙って続きを促すと、ためらいがちに音屋は言った。「人手がなくてね。報田さんの退学もあったから、去年からの持ち上がりは校長先生・教頭先生が反対して」

「じゃあ、音屋先生は。担任持ってないですよね。先生が担任なら私は嬉しいです」

「それは悪さができるからかしら、羽原さん」

「いえ、決してそういうわけでは」

 狼狽える紅子だったが、音屋は怒ってはいないようだった。「先生もあなたたちの監視、もとい、担任なら喜んで引き受けたかったわ」

「じゃあどうして。理科系の女差別ですか。それともやっぱりバイクですか。どっちにせよ他人事とは思えないな。おい内藤、校長の弱みとか知らないか」

「中年太りの禿げた醜男に興味はないので……」

「よしなさい内藤くん。あなたもいつか、ああなるかもしれないんだから」

「僕は一族郎党禿げない家系なんです。言ってませんでしたっけ」

 ふう、とひとつ息をついて、音屋は翼の軽口を受け流した。「先生、もうすぐ産休だから」

 え、と紅子の口から間抜けな声が出た。翼が片手に持っていた部品を落とした。

「あなたたちだから言うのよ。まだあまり言い触らさないでね」

「お……おめでとうございます! ついに結婚の噂も真実に!?」

「ええ。そのつもり。……顧問の引き継ぎ先も決めなきゃね。化学の葛西先生にお願いしようかなと思ってるんだけど」

「あー、あの盛りを過ぎた草食系理系男子」

「言葉を選びなさい、羽原さん」一段低い声で言って、音屋は続ける。「少し頼りないのは同意するけどね」

「復職されるまで休部にしますよ。どうせ新入部員も入りませんし」

「あら。あの子は? あなたたちの同級生の、馬場えれなさん」

「あれは准部員みたいなものですから。なあ内藤」

 黙っていた翼が渋々といった様子で口を開く。「そうですね。僕らの友人ではありますが」

「新歓展示のこともだけど、実は今日は、この報告をふたりにしたかったの」音屋は席を立ち、いつものように書類の耳を揃えた。「ごめんなさいね。私もふたりと一緒に、栄光あるロボ研の復活を盛り立てたかったんだけど」

「先生が謝ることなんか、何もないです」

 ありがとう、と言って音屋は部室を後にする。

 足音が遠ざかったころ、翼が口を開いた。

「野崎の件、先生方にに期待はできそうにありませんね」

「我々の持つ証拠を音屋先生か、担任の有沢に渡して告発させる、という手を、考えないではなかったが……」

「無理ですね。音屋先生は、お身体のことを思えば、そんな負担はかけたくない」

「一方有沢には事情と経緯がある。彼に、教室のデリケートなトラブルに首を突っ込んで解決することを要求するのは、酷だな」言い、翼の方を向き直る。「君、いいのか」

「まあ、憧れと恋愛は別ですから」翼はうっすらと微笑む。「幸薄そうな女性の幸せそうな顔ってのは、いいものですね。この世で最も美しいもののひとつです」

 そうだな、と応じるも、素直に喜んでばかりもいられなかった。

 もしものことがあったとき、学校内で確実に味方になってくれる人は、音屋礼仁だけだった。その唯一の味方を、遠からず失うことになる。

「調査には慎重に慎重を期すぞ」

「それはわかりますけど……でも、写真や音声データだけでは限界があります」

「じゃあどうしろってんだ」

「彼らの野崎への行いを記録するという正攻法で、事は収まらない。なら、佐竹らの弱みを掴み、脅迫する」

「馬鹿言え。慎重を期すと言ったばかりだろ」

「報田の時はできました。気に入らんやつの弱みを暴く。グレイハッカーズの正攻法ですよ」

「だが……」

「部長」冗談の追い出された顔になって、翼は言った。「憶測を述べても?」

「好きにしろ」

「あなたは佐竹の暴力を恐れていますね」

 思わず、翼の顔を真正面から見た。「暴力? 馬鹿言え。この世で最も強い暴力は情報だ。我々の手の中にありとあらゆるサイバー犯罪手段がある限り、恐れる理由などあるものか」

「じゃあどうして拳銃なんか用意したんですか。僕が平田颯介にやられたことを引き合いに出したのは、方便でしょう」翼は目線を逸らした。「あなたはね、女性なんですよ」

 頭に血が昇った。

 母の顔を思い出した。

 部屋の姿見。膝丈のスカートやワンピースが並んだクローゼット。何か望まないものを与えられる度にかけられた『女の子なんだから』という言葉。音屋への憧れと、そんな彼女でも子を孕み人の妻になるという単純でありふれた曲げようのない現実。

 紅子は、翼の胸倉を掴んだ。

「取り消せ」

「部長、落ち着いてください」

「取り消せと言った。私は冷静だ」

 翼の顔が目の前にあった。彼はしばし沈黙してから言った。「わかりました。取り消します。あなたと言い争いがしたいわけじゃない」

 紅子は手を離し、椅子に座り直した。「いや、いい。私がやつを恐れているのは事実だ」

 恐れていなければ、弾丸など買わない。

 そうですか、と翼は応じ、声音を変えた。「話を戻しますけど、やっぱり僕らは、佐竹と一味について、もっと調べるべきだと思います。佐竹がどうやって影響力を及ぼしているのか、彼らだけに通じる支配の言語が、まだわかってませんよね」

「ああ。……それにしても、我々しかいないのだろうか」

「僕らみたいなのが何人もいたら困るでしょう」

「そうじゃない」と咄嗟に応じたが、翼の目は笑っていなかった。紅子の眉間に皺が寄った。「教職員でもいい。クラスメイトでもいい。どこかに、善意で悪意と戦ってくれる人が、我々以外にもいるのだと、信じたいじゃないか」

「教室に自浄作用を求めますか」

「わかってるさ、そんなの無理だってことくらい。ただ私は……あの銃が無用の長物になって欲しい。それだけだ」

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