3-5 私は見ているぞ

 夥しい数のいじめの物証。だがそのいずれも、決定打には程遠い。関節を極められている姿も、昼食を買いに走らされている様子も、中庭に落ちたペンや消しゴムを拾い集める背中も、佐竹らのために購入させられた物品のリストも電子マネーの支払履歴も、どこにでもある、ありふれた光景を切り取ったにすぎない。

 出品者から連絡があったのは、春休みが終わり新学期が始まる三日前のことだった。とっくに盛りを過ぎて水面を漂う花筏となった桜を横目に、紅子は受け渡し地点として指定された場所へ向かった。

 東京、千代田区神田の路上。パーキングメータに、情報通りのAudiが停まっていた。

 出品者が利用したのは、車のトランクを荷物の配送先に指定できる、コネクテッドカーと運送会社が連携したサービスだった。運送会社のドライバーが持つ端末をハックし、本部が把握していない荷物の情報を書き加える。そして実際に、オフィス街を行き交う運送業者のワゴンにその荷物を紛れ込ませ、ドライバーを自覚のない運び屋に仕立て上げ、全く無関係の人間が所有する車のトランクに配達させる。

 車の方は、ドライバーが持つ規定のコードを認識してトランクを解錠する。荷物が置かれ、ドライバーは立ち去り、トランクは施錠される。ここまでが、出品者か、あるいは出品者が依頼したどこかの名もないブラックハッカーの仕事だ。

 人目のないことを確認し、紅子はそのAudiへおもむろに近づき、出品者から受け取ったツールを起動する。ドライバーが使っている認証システムを複製したもので、攻撃者をサービスの正規利用者と車に誤認させるものだ。

 なんの苦労もトラブルもなく、トランクが開く。学校の備品からくすねたクリーンルーム用の手袋を着けた紅子は無地のボール紙に包まれた荷物を受け取り、トランクを閉め、その場を足早に立ち去る。手袋は駅のゴミ箱に捨てた。

 自宅へ戻り、荷物を開封する。

 油紙に包まれた、鉛色の実包が一〇発。日本円換算で、高級フレンチのリーズナブルなランチくらいの価格だった。

 別ルートで購入していた金属のパーツと出力した樹脂のパーツ、合わせて三六個。PCの前で、説明書を見ながら組み立てる。そして弾倉に購入した実包を装填。スライドを引いて初弾を装填し、立ち上がる。

 姿見に向かい、そこに映る部屋着の自分に銃口を向けてみる。

 一〇の誕生日の時に母に買い与えられた姿見だった。着るものや髪にあまりに頓着しない娘を見かねた母が、女の子なんだから、と説教するように言いながら半ば無理矢理に置いたものだった。

 よく見慣れた、ソート順を下から数えた方が早い、一六歳がいた。

 銃を持てば何かが変わるかと思っていたが、何も変わらなかった。ただ銃を持っているだけだった。だがその変わらなさこそが、却って手にしたものの恐ろしさを際立たせていた。

 紅子は身震いし、弾倉を外して装填された初弾も抜いた。機械部品を包んでいた緩衝材に巻いて、通学鞄の中に放り込んだ。もし見つかったら、エアガンです、と言い張るつもりだった。購入するだけ金と度胸の無駄だった、と笑える幸運の訪れを願わずにはいられなかった。

 だが、嫌な予感ほど的中するようにこの世は造られているようだった。

 四月。新年度の始業式。学校の掲示板に張り出された二年生のクラス分けを前に、紅子は苛立ちと動揺を隠しきれなかった。通学路で合流した翼も眉をひそめて、無機質に印刷された名前の列を睨んでいた。

 今回の一件に関わりある名を追う。

 二年一組。内藤翼、馬場えれな。『百貫デブ』篠塚和未、『弁舌家』松井広海、『アーモンド頭』元木大飛、『ラノベオタク』島田雅也、『アナログ野郎』憂井道哉。

 二年二組。羽原紅子、野崎悠介。『謎多き美少女』片瀬怜奈、『目隠れ前髪腰巾着』高橋伸、『ラッパー見習い』木村巧、『ドカベン』芝浦勲――そして佐竹純次。

「最悪だな」と紅子。

「ええ。まさか部長と別のクラスだなんて。これでは無味乾燥な学校生活です」

「そうじゃなくてだな」

「わかってますよ」翼は目を伏せた。「最悪だ」

 報田愛莉の名は名簿のどこにもなく、学年の総人数が去年よりひとつ減っていた。元報田グループは荒木が一組、森野と平田が二組だった。

「何、そう悲観するな。環境が変われば人も変わるさ」

「部長。あなたがポジティブなことを言うのは、頭の中で正反対のことを考えている時だけです」

「よくわかっているじゃないか」

「僕は羽原紅子の専門家ですから」口の端で翼は笑った。

 そして新学期早々、二年二組の教室ではいくつかの事件があった。

 まずは片瀬怜奈絡みだった。今年入学した一年生の女子三名が、片瀬怜奈を訪ねて現れたのだ。

 全員黒髪。全員ロング。全員ストレート。明らかに怜奈の真似とわかる彼女たちは、会話を盗み聞くに、どうやら昨年の文化祭の折に怜奈の男装姿を見て引きつけを起こした、あの中学生たちのようだった。困惑して目を丸くし、応じる言葉に窮している片瀬怜奈を見たのは初めてだった。

 そしてもうひとり、やはり片瀬怜奈の知人らしき新入生の女子が教室に姿を見せた。漏れ聞こえるふたりの会話を聞くに、彼女は憂井道哉の親類のようだった。榑林一花、という名前らしい。横目で窺う限りは、折り目正しさと明るさが同居した、好感を抱かずにはいられない可愛らしさのある女の子だった。

 不愉快でない事件はそのくらいだった。

 午後、授業で使う教科書の一斉販売があった。会場の会議室で翼と鉢合わせ、こんなものなぜ電子化しないんだ、出版社のことも少しは考えてください、知るかボケ重い、などと言葉を交わし、教科書を抱えて教室へ戻った。

 すると、ちょうど誰かが、同じように抱えていた教科書を、床に落としてしまっていた。野崎だった。周りには、高橋と木村、芝浦がいて、一歩下がったところに佐竹がいた。思わず注視しそうになると、佐竹と目が合った。紅子は、目を伏せて足早に自分の席に着いた。

 尻餅をついている野崎の肩を芝浦が叩いた。「はいタッチアウトなー。俺もう癖でさあ、向かってくるとブロックしちゃうんだわ。悪いな」

 高橋が散らばった教科書を拾い上げ、埃を払った。「野崎くん大丈夫? あー、めっちゃ折れてんじゃん。新品なのに。かわいそー」

「速攻で交換」木村が自分の教科書を野崎の手に載せた。「即これで好感、俺のフリースタイルだこれが」

「だせえよ」と芝浦。

「お前困ったらすぐ俺のフリースタイルって言うよな」木村は長すぎる前髪の下から呆れたような目線を送る。

「は? これが俺のバイブスだから。お前らなんもわかってねーな。なあサタさん」

 サタさん、とは佐竹純次のことのようだった。水を向けられた彼だが、黙って肩を竦めるだけだった。

 教科書が交換されていく。芝浦、高橋、木村が、各々の教科書を野崎に渡し、床に散らばった野崎の教科書を持ち去っていく。折れたものは高橋の物になっていた。その些細な一瞬の駆け引きにも、彼らの中のパワーバランスが見えた気がした。

 そして紅子は、おそらく野崎とほぼ同時に、渡されている教科書の異変に気づいた。

 名前を書く欄に、あらかじめ何か記入されている。消えないように黒の油性マジック。少し離れた場所からでも、その文言は読み取れた。『エロ漫画シコリマン』『チンポハメ郎』『野崎陰毛ノ介』『童貞師匠』『マンコ舐め夫』。

 芝浦が野崎の髪を掴んで上を向かせ、言った。

「ほら、お礼は? 言えよ。ありがとうございますって」

 すると高橋が歩み寄ってくる。「シバさー、そういうんじゃこいつわかってくれないぜ。ADHDって他人の気持ちとか察するの苦手なんだよ。な、野崎」

 野崎は、曖昧な笑みのまま高橋に視線を返す。

「伝わって欲しい俺らの想い……ダイバーシティ」マイクを持つような手つきの木村。「俺ら受け入れたい速攻で……」

 高橋が野崎の頭に手を置いた。「こういう時はな、ありがとうって言うんだよ。定型発達の真似だけしてるって思ってさ。な?」

 紅子は我知らず舌打ちする。

 発達障害や多様性教育の悪しき一側面だ。なまじ知識だけ得ればこうなるのだ。気に入らない相手をADHDと冗談交じりに決めつけ、区別を正当化する。発達障害に陥っているのは教室の方だ。高橋のような人間を形作り、この様を黙って見ているだけの生徒の群れを産んだ教室こそが、定型発達から外れている。

 佐竹は事の顛末を黙って見ている。笑いを噛み殺したような顔で。だが一重の目は、笑っていないように見えた。なんの感情も読み取れなかった。もしかしたら、下らないことに精を出す仲間に呆れているのかもしれなかった。紅子は激しい不安を覚えた。私はこの男を暴けるのか、と。

 撮影しようと思ったが、携帯を取り出すことすらできなかった。佐竹の目線は、何も見ていないようで、何もかもを見ていた。片手が震えた。まるで大蛇に睨まれた小動物だった。

 いつの間にか教室に生徒が増えていた。担任の教師が現れる。まだ若い男で、有沢修人、という名だった。教科は国語。去年は紅子の学年を担当していなかった教諭だった。

 有沢は、野崎らを気にする様子もなかった。他の同級生たちも。

「ありがとう」と野崎は言った。笑顔だった。

 野崎は席に戻ると、太い油性マジックを取り出し、教科書の名前欄を黒塗りしていく。こうして物証は失われる。他ならぬ被害者の手で。

 私は見ているぞ、と心の中で紅子は叫んだ。

 誰もが見て見ぬふりをしていても、羽原紅子とグレイハッカーズは何もかもを見ている。

 だからもう少しだけ耐えてくれ――決して声にならない言葉。野崎には届かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る