3-4 この世で一番醜い存在
笑っていると翼が断定したのは、写真や動画から表情筋の動きを分析した結果だった。
たとえば誰かが野崎を羽交い締めにしている時。野崎がクラス全部からの嘲り笑いに晒されている時。野崎が破壊された持ち物をゴミ箱に捨てている時。佐竹純次はいつも笑みを噛み殺していた。そうしなければ可笑しくて大笑いしてしまうかのように。
春休みに入り、時間もできた。大方の予想を裏切らず、野崎の死にたいアカウントは稼働を止めた。紅子は、佐竹とそのグループについて、〈WIRE ACT〉による調査を更に進めた。
大半は他愛もない高校生同士のやりとり。その中で、紅子は奇妙な事実に気づいた。
紅子らがファミレスで豪遊気分を台無しにされたあの日、野崎に購入させた電子マネーを、佐竹らは一切使っていなかったのだ。ゲームアプリで大いに盛り上がっているのだから、野崎から恐喝した金もすべてその場で使っているものと思い込んでいたのだが、会話を読む限り派手な課金の兆候はない。
そして、佐竹のWIRE Payにそれらの金額がチャージされた様子もなかった。
謎多き佐竹にようやく現れた隙。紅子は、第一目標を佐竹純次周辺の金の流れの解明として、調査を仕切り直すことにした。
まずはいつものようにWIREの偽更新をかけるが、数日経っても仕込んだスパイウェアがダウンロードされる気配はない。遺憾ながらそういう人種はいる。アプリストアの更新通知を貯める一方にしているタイプだ。
致し方なく別の攻撃手段を模索する。時間があったのが幸いだった。
紅子は考えあぐねた結果、WIREにセキュリティ脆弱性が発見されたことを理由に、パスワードを変えるよう促すメールを送信した。佐竹だけでなく、仲間全員にである。佐竹も、これには引っかかった。首尾よくすべてのアカウントのIDとパスワードを収集する。
紅子が把握していないアカウントがひとつあった。〈Jun〉という名のアカウントだった。
特に投稿はなし。だが篠塚や松井を始めとする烏丘高校のグループのメンバーは全員フォローしていた。そして不可解なことに、〈Jun〉から各アカウントへ向け、少額のWIRE Payが送金されていた。
七〇〇円。三五〇〇円。二一〇〇円。七〇〇の倍数であることくらいしかその数字についてわかることはない。野崎から恐喝した金額の分前か何かなのか。
そこまで調べて、翼とえれなに連絡を取った。二年に進級する前の休みだ。特にすることもなかったらしく、ふたりとも即日集まった。
場所は私鉄駅前にほど近い純喫茶だった。以前にも使ったことのある、翼のお気に入りの店だった。
一連の進捗を聞いた翼は、氷のすっかり溶けたメロンソーダを前に難しい顔だった。「佐竹は、野崎から脅し取った電子マネーを、少額づつ仲間に再分配しているってことですか?」
「そうだ。まるで年金か何かみたいにな」
「お金のことはわかんないけど……」暗号通貨の資金洗浄に紅子も予想だにしなかった才覚を見せ始めたえれなが言った。「クラス変わるし、もう大丈夫じゃない? 来年、野崎くんが佐竹くんと別のクラスになれば、きっと収まるよ」
「だといいんだが……」
「きっと別の獲物を見つけるだけだろうね」と翼は素気なく応じた。「きっと新しいグループを作って、新しい獲物に狙いを定める。いじめなんて必要に駆られてやるわけじゃないんだ。当人にとっては、なんとなくなんだよ。ああいうタイプのの人間は、なんとなくて、誰かを傷つけずにはいられないんだよ」
「含んだ言い方だな」
「経験ありますから。僕、この顔でしょ。それで帰国子女でクリスチャンですから。小学生の頃なんか、結構しんどかったです。学校、嫌で嫌で仕方なかったですし」
「自分で言うか、この顔って」
「中学の時は?」とえれなが訊いた。
「収まった。なんでかわかんないけど、クラスの女子たちが仲良くしてくれて、なんかクラス内で弾劾裁判みたいなことになったこともあるし」
「それこそ顔だろ、絶対。女どもも色気づいて男への価値観が変わったのさ」
「えー、翼くん優しいし絶対違うよー。羽原ちゃんと違って」
「一言多いぞ馬鹿えれな」
「そっちも多いし!」
翼は咳払いする。「話を戻しても?」どうぞどうぞ、と応じる紅子とえれな。翼はもう一度咳払いして続ける。「同じクラスになる可能性もあるわけだし。収まることを期待して何もしないってのは、ちょっとないかな」
「別に何もしないって言ってるわけじゃないじゃん」えれなはへそを曲げた様子だった。「なくなったら嬉しいなー、って思ってるだけで。何かいけないの?」
「いけないとは……」
「なくなったら嬉しいってのは、私も同意だよ」紅子はすっかり冷めたコーヒーで口を湿らせ、続ける。「佐竹と並行して、一応野崎の方にも探りは入れている。死にたいアカウントは停止中。休み中は、佐竹らと接触している様子はない。意外な人間と会っているようだが……」
「意外ってのは?」翼が訊いた。
「憂井道哉だよ」
「……誰です、それ」
「あ、一組の憂井くん?」えれなは知っている様子だった。
野崎は休み中、かのアナログ人間憂井道哉と会っていた。目的はどうやら漫画の貸し借りらしかった。野崎が貸した側、憂井が借りた側だった。そう親しい印象はなかったが、やはり中学が同じ同士、それなりの交流はあったらしい。
他にも数名、オタク友達のような相手と会っていた。目的は漫画やゲーム、違法ダウンロードやレンタルからコピーした映像作品の貸し借りや、アニメ映画を観に行くなどだった。特に、島田雅也という生徒と仲が良いようだった。紅子も彼には覚えがあった。部活は書道部。休み時間に教室で俯いて、イラストのついた小説を熱心に読んでいる姿をよく見かけた。表紙には決まってカバーがかけられていて、周りから覗き込まれることを極端に恐れるような様子が印象に残っていた。
「しかし紙の漫画ってな。場所ばかり食うし何がいいんだ? 私にはさっぱりわからん」
「えー。あたしは好きな漫画とか部屋に並べたい。てか並べてる」えれなは誇らしげだった。
「私と馬場ちゃんでは好きの感覚が違うんだよ。好きなものを物理メディアで並べていたら部屋が東京ドームでも足りん」
「愛が薄いのだよ羽原ちゃんは」
「なんだとこの野郎」
どうどう、と手をかざして翼が言った。「中学の同級生といえば、野崎、片瀬怜奈と出身同じなんですよね」
「それなら以前に調べただろう。片瀬と野崎の間に今はほとんど関わりはない」そこまで言って、翼の顔色を窺う。そんなことは知っています、とでも言いたげだった。紅子はひと呼吸置いて続けた。「何か気になることがあるのか?」
「ええ。見てるんですよ」
「見てる?」えれなが首を傾げる。
「そう。野崎が、片瀬を、じっと見てる。授業中も休み時間も、ふと気がつくと、野崎の目線は片瀬の背中に向いているんです」
「まああれだけ美人ならな」と紅子。
「綺麗だもんねえ、片瀬さん。あたしもついつい見ちゃう」とえれな。「壁際に追い詰められたいランキング一位だよね」
「それはわかるな」
「でっしょー?」
「僕はそれだけではないと思いますよ」翼は淡々と言った。「あれは、憧れに極めて近いタイプの、恋愛感情です」
「え、うっそお」とえれな。
「何を根拠に」と紅子。
「根拠はないです」
「いつもの憶測か」
「強いて言うなら、人の顔ばかり見ている僕の、男の勘です」
「えー、何それー。クラスいちの美少女に一方的にガチ恋って、ちょっとあり得ない」
珍しく辛辣なえれなだったが、紅子の考えは違った。
内藤翼という男は、他人の顔に浮かぶ感情に敏感だ。画像処理で人の顔を解析するにつれ、解析できない部分への、人間的な感覚が研ぎ澄まされているのだと、紅子は推測していた。そして、グレイハッカーズ最初の相棒である翼のことを、紅子は信頼していた。彼の言葉ならば、たとえ根拠が薄弱でも、一度検討してみる価値があると思った。
そして何より、翼のその憶測は、腑に落ちたのだ。
「男の勘ね」と紅子は応じた。「女の勘よりはあてになりそうだな」
「え、嘘。あたしだけ?」
「片瀬を見る時の野崎の目、脳が動いている感じなんですよ」丸眼鏡の翼は、顎の先に親指で触れて続ける。「まるで彼女の姿を視界に入れているだけで、別の世界が、彼の脳内で次々と計算されていくような」
「その人と共にある自分を想像する。わからなくはないな。誰にでも、そういう誰かがいるものだ。この世に居心地の悪さや、生き辛さのようなものを感じている者なら、誰にでも」
「ロマンチストだねえ」
「うるさいぞ生娘」
「うえー、それ言う? ていうかあたし……」えれなは誤魔化すような苦笑いを浮かべる。「なんでもない」
「部長」とだけ翼が言った。
軽口にしては言いすぎたかもしれない。報田らに散々処女処女といじられていたのがえれなだ。当時のことを思い出させるようなことを、冗談でも口にするべきではなかった。
「すまんな。知っての通り私は口が悪い」と紅子。「だが……もしかすると、片瀬怜奈は野崎悠介にとって、特別な存在なのかもしれないな。心の支えのような。他の人にはない関係が自分と片瀬の間にあるという思いが、野崎にとって、ある種の原動力のようなものなのかもしれん。出身中学が同じというだけだが……私も大概憶測の積み重ねだな」
「いえ。僕が言っているのは、そういうことです」
「あのー……申し訳ないんだけど、あたしそれ、ちょっと引く」
「気にするな馬場ちゃん、私もかなり引いている」
「言っておいてなんですが、僕もです。実らない恋をする男はこの世で一番醜い存在ですから」
「君も大概口が悪いな……」
「部長のが感染ったんですよ」
「私のせいにするな」
「ですがそういう感情は、この世で最も美しいものだとも思います」翼は眼鏡を外した。「でなければ、こんなにも片想いが詠まれ、歌われるわけがない」
「でも、気づいたのがうちらでよかったよね」えれながグラスの底に残ったオレンジジュースを吸って言った。
「どういうことだ?」
「だってもしも佐竹くんたちに知られたら……きっと酷いことになるよね」
その瞬間、喫茶店の店員の声が、やけに大きく聞こえた。
いらっしゃいませ。何名様でしょうか。お煙草はお吸いになられますか。只今禁煙席は満席になっております。ではこちらへどうぞ。
もしも、野崎にとっての最後の砦のようなその感情が、佐竹に知られたら。
「でも片瀬さんって彼氏いないよね。誰かと付き合ってるとか聞かないし。年上の恋人がいるとか、なんか噂になったことあったけど……」
「それはデマ。僕らが調べた」と翼が即座に応じる。
「それこそあの憂井くんとか、付き合ってるのかなあ。よく一緒にいるところ見かけるし」
「一組の? どうだろう。どう思います、部長。……部長?」
「人の感情とは、弄ぶためにある。佐竹のような人間にとってはな」紅子は席を立った。「すまん。急用ができた」
「急用って……部長?」
「羽原ちゃん? どったの?」
訝しげな翼とえれなを置いて、紅子は逃げるように喫茶店を後にする。
いじめ。それだけならばいい。だがもしも、野崎が何らかの手段で、心の支えとなる存在を奪われたら。
想像は一秒ごとに悪い方へと転がっていく。
思い出すのは、佐竹の、蛇のような目だった。感情が読み取れず、だが逆に目の前にいる者の感情は、容赦なく残酷に読み取っていくような。
そして薄ら笑い。人間の感情を読み、弄ぶことに無上の快楽を覚えているような。
紅子が向かったのはどこでもない。自宅だった。
靴を脱ぎ捨て、母の小言を聞き流し、自室に入って鍵を閉める。着替えもせずにPCを立ち上げ、あらかじめ調べておいたルートを経由し、ダークウェブと呼ばれるウェブサイト群へアクセスする。
いつでも、最悪の事態に備えて行動しなければならない。
そう自分に言い聞かせながら、覚醒剤や麻薬、個人情報リストなどを読み飛ばす。
目的のページへ辿り着き、暗号通貨での支払いを指定して、注文ボタンをクリックした。
実包だった。
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