3-10 グレイハッカー第1の敗北
紅子が目をつけたのは、都内を中心に学校内でのトラブル調査を主に請け負う個人探偵だった。いじめ解決については探偵社在籍時代から多数の実績があり、その際に得たコネのようなものを使って独立開業にこぎつけたようだった。
探偵らしく個人情報を明かさない彼のウェブサイトには多数の、固有名詞を伏せた調査例が並んでいた。また、公にはしていないが雑誌メディアにコラムも執筆しているらしく、ウェブサイトに掲載されているものとメディアの記事に、内容が重なるものがいくつかあった。さらに文章をどこかの大学が作ったAIで形態素解析させ、同一人物の書いたものだという確証を得るに至った。
紅子はその探偵に電子メールで接触。初手からこちらの手の内を明かしていくことにした。
これまでに収集した多数の証拠と、しかし告発が難しいこと。直近で発生した漂白剤入りバケツ水事件を学校がもみ消そうとしていることを伝えた。
当然、探偵からはなぜ自分たち自身で告発しないのか、という疑問の返信があった。
そこで、自分は被害者とも加害者とも赤の他人であり、匿名で調査を依頼したい旨を伝えた。同時に、相場の五倍にあたる多額の報酬を提示した。
本来、相談以降の調査を行うには、探偵業法により実名での契約書の締結が義務づけられている。匿名で調査を行えば、依頼者・探偵の双方がリスクを背負うことになる。だが、紅子には、探偵がこの話を請けるだろうという確信があった。個人事務所の経営状態が悪化していることを、関係を伏せた雑誌コラムの方では笑い話半分に告白していたのだ。そして専門性が高く、多数の依頼が望めない業態から、社会正義や公共への奉仕の意識が強いという推測もしていた。
やり取りを重ねるにつれ、探偵からの返信が請ける側に傾き始める。そしてとどめとばかりに、紅子は最後のカードを切った。
我々は『グレイハッカーズ』である、と。
匿名ブログや〈WIRE ACT〉の広告機能の悪用でグレイハッカーズにまつわる噂をばらまいたのは、本来、まだ見ぬ犯罪者に対する抑止効果を期待してのことだった。しかし同時に、協力者を探さざるを得ない場合に、作り上げたネームバリューを利用したいという思惑もあったのだ。報田愛梨による一連の未成年売買春斡旋事件に際し、山井という男に協力を持ちかけた体験からの教訓だった。
そして同時に、主犯格の少年の背後に、半グレ集団や組織犯罪集団の影があることも伝えた。
高額報酬。経営難。正義感。噂のグレイハッカーズ。これらの正の要素と天秤にかけられるのは、契約書のない、探偵業法で保証されない状態で調査を行うリスクと、組織犯罪集団の存在。
返事が途絶えたのは一時間ほどだった。
調査を請ける、という返事だった。
そこから話はさらに具体化する。
まず手付金として、ちょうど相場ほどの額、提示した報酬の五分の一を仮想通貨で送金した。そして送信した証拠群の、匿名化を施していないバージョンを送信した。調査対象が、東京都立烏丘高等学校普通科二年二組の野崎悠介という生徒であり、加害グループの主犯が同じクラスの佐竹純次という生徒であることも伝えた。彼らのWIREアカウントなど、特別な権限がなくても閲覧できるウェブ上の情報はすべて与えた。顔写真も送った。渦中のふたりだけではない。加害グループと、二年二組の生徒全員分だ。その中にはもちろん、紅子自身の写真も含まれていた。
まずは保健室で起こった事件の事実関係を明確にすること、という見解は探偵も同じだった。そして写真を元に同じクラスの生徒や交友関係のある生徒への聞き込み調査を行い、誰がやったのかをはっきりさせる。
いつまでだ、と紅子は訊いた。
一週間欲しい、と探偵は答えた。
それから一週間は、真実、見守るだけだった。
野崎は週明けから登校してきた。顔の一部に炎症の痕があり、着ている制服のサイズは明らかに合っていなかった。急遽購入した中古品のようだった。そしていじめは止まなかった。初日から、高橋が「自分でハイター被るとかお前マジやべーな」と話しかけ、笑った。野崎も曖昧な笑みを返した。自分で制服を変色させるようなことをするほど野崎が馬鹿ではないことを誰もが承知していたし、実行犯が佐竹グループの誰かであることは、教室中が知っていた。だが誰も追求しなかった。醸し出されたムードに乗せられ、笑っていた。笑わない者は無関心を貫いていた。
野崎は生徒指導室に何度か呼び出された。事情をあまりよく承知していない生徒指導の教諭から注意を受けた、とどこからともなく噂話が伝わった。そうして、漂白剤入りの水は、野崎が自分で被ったことになった。誰もが気づいていたはずの真実は漂白されて消えてしまった。
だって自分でやったって本人も言ってるんでしょ。
そんな酷いこと誰かがするわけないじゃん。
やってなんの意味あるの、まあ野崎ならやりそうだけど。
あいつちょっと変だしね。
そんな噂が真実を嘘で上書き保存していく。
動かしようがないはずの事実が、SQLインジェクションでも受けたかのように易々と改竄されていく。
そして誰もが忘れていく。青春の記憶から、存在していたはずのページが欠落する。
二年二組の教室は佐竹純次の支配下にあった。羽原紅子という例外を除いては。
探偵からは日に一度、報告があった。彼は養護教諭の女性に接触していた。彼女は事件の第一目撃者であり、幸運なことに、直後のベッド周辺の状況を写真に収めていた。その写真からは、ベッドの中でバケツの水を上から被っただけでは濡れない、脚立に乗らなければ届かないカーテンの天井に近い位置が漂白剤で変色している様子が見て取れた。自演説を覆しうる証拠だった。
三日目から、学校の連絡網で不審者情報が出回り始めた。探偵が生徒たちへの聞き込みを開始していることが知れた。報告にも、生徒から聴取した内容が記されていた。特定生徒から野崎への日常的ないじめが行われていたという証言。その特定生徒らのリーダーが佐竹純次であること。そして事件当日、元木が漂白剤を持ち出しているのを見たという家庭科部員や、新しいバケツを芝浦が持ってきたという野球部員の証言があった。
そして四日目、木曜日には、日報の内容は核心に迫っていた。
バケツに水を汲んで廊下を歩いている元木と芝浦を見た、という生徒の証言。そして、いじめ内容に応じた、佐竹からの報奨金があったということまで書かれていた。
これが意味するのは、佐竹グループの誰かによる、良心の呵責に耐えかねた裏切りだ。
証言者の名前も報告には書かれていた。松井広海だった。グループの一員で、明るくクラスの上位にいるが、容姿にそう目立ったところはない生徒。紅子は弁舌家、と仇名をつけたことがあった。だが彼は、二年に進級した際に、佐竹と別のクラスになった。二年一組なのだ。そして、佐竹らのとの間には、少し距離が生まれつつあった。
そして金曜日の昼。
「これなら十分です」報告を一読した翼が言った。「僕らの調査と合わせれば、佐竹を主犯として告発できる。やりましょう、部長。怪しい探偵ってのが、ちょっとあれですが」
「いや、それにはこの探偵の調査を合法化する必要がある。誰かが出向いて、探偵と会い、日付をロールバックした契約書にサインし、彼の調査を探偵業法に基づく正当なものにしなければ」
「じゃあ誰かに頼まなきゃ。僕ら、未成年ですし」
「……いや、まずは私ひとりで会う。イリーガルな行為を強いたことを詫びて、義理を通す。そして探偵に事情をひと通り明かした上で、絶対に私の味方になってくれる大人を引き合わせて、契約書にサインさせる」
「誰です、それ。音屋先生は、さすがに……」
「父だ」と紅子は即答した。「WIRE株式会社代表取締役社長、羽原蒼一郎。我が父ながら、社会的な影響力のある人物だ。クソ部活の先輩後輩などより余程な」
「使えるものは親でも使うってわけですか。部長らしい」
「内藤、君はいつか、私が佐竹を恐れている、と言ったな」
「今は違う?」
「ああ。父の叱責の方が余程恐ろしいよ」紅子は口の端で笑った。
その日の夕方、こちらの考えをすべて探偵に伝えた。返答は肯定だった。契約書を用意する旨と、面会の日時と場所が指定された。事は緊急を要するため、間を開けず、同日の一九時。場所は紅子もよく知った、学校最寄り駅前の喫茶店だった。
放課後、万が一に備えて待機しますという翼とえれなと別れ、紅子は学校から直接その喫茶店に向かった。
窓際の、電源が取れる席を確保し、PCを広げて探偵を待った。
一九時になった。探偵は現れなかった。
制服を着た女子高生であることは伝えていなかった。もしかしたら声をかけ損ねたのかと考え、窓際の席にいることを伝えた。
二〇時になった。探偵は現れなかった。
コーヒーカップの底に残った澱が乾いていた。
時間を間違えたのかと、探偵からのメールを確認する。やはり一九時と書かれていた。念のため、席を店内側へと移動した。店員が不審な目を向け始めていた。
二一時になった。探偵は現れなかった。
ふたつのリスクを思い出さずにはいられなかった。探偵業法の裏づけのない調査と、組織犯罪集団の影。
紅子の額を冷や汗が伝った。緊急だ、と翼を呼び出した。
そして二一時三〇分。閉店時間ぎりぎりに、翼は息せき切って姿を現した。
「部長。どうしたんです。例の探偵は……」
「すまんな。歯を食いしばれ」と小声で詫びた。
紅子は立ち上がり、翼の横面を、思い切り平手打ちした。
呆気に取られている翼を引きずるようにして店外へ。レジに立つ店員が苦笑いしていた。偽装は上手くいったようだった。
表へ出ると、翼は頬を擦りながら言った。
「待ちぼうけからの痴話喧嘩ってことにするなら、言ってくださいよ。僕にも心構えってものがある」
「いつぞやのキスの礼だ」
「それで、探偵は。来なかったんですか」
「ああ。I have a bad feeling about this、だな」
「下手な発音です」と翼は応じた。目が笑っていなかった。
紅子の頭の中で、不穏なマーチが鳴り響いていた。
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