3-12 不愉快な出来事 part2
午後は授業にならなかった。
平然と座っている佐竹純次とその仲間たち。
何事もなかったかのようにノートにペンを走らせる片瀬怜奈。
野崎悠介の姿はなかった。
紅子は、片瀬怜奈の背中だけを見ていた。一瞬でも気を逸らせば、佐竹の方に不自然な視線を向けてしまいそうだった。片瀬怜奈ならば、つい見てしまう美少女だから言い訳が立つのだ。
〈WIRE ACT〉を挿して起動したままのPCに携帯をリモートで繋げ、野崎と怜奈のアカウントを監視する。写真には、野崎の勃起した局部が余すところなく写し出されていた。そしてその画像は間違いなく片瀬怜奈へ送信され、閲覧されていた。今のところ、片瀬怜奈が何らかの反応を示す様子はなかった。
そして野崎の死にたい専用アカウントは、午後だけで五〇以上の死にたい投稿を垂れ流していた。
それだけは、と懇願する野崎の顔が、目に焼きついて離れなかった。
きっと彼女の存在こそが、野崎が正気を保っていられる理由なのだと、紅子は推測していた。中学の同級生。見惚れてしまうほど綺麗な女の子。見ているだけでいい、時々何かの機会に言葉を交わせるだけでいい。その一瞬の時間があれば、日常がどんなに荒れ果てていても堪え忍べる。それが野崎悠介にとっての片瀬怜奈に違いないのだ。
送信ボタンが押された後の、硬直した蒼白な顔。
押した松井広海の、心の底から安心したような顔。
そしてそれを見下ろす佐竹の、満面の笑み。
佐竹純次は綻びかけた仲間との絆に、決して抜けない楔を打った。グレイハッカーズが監視に監視を重ね、大人の力を利用し、ようやくこじ開けた風穴さえ利用して。
佐竹が、噛み殺していない笑顔を浮かべていたのは初めてだった。まるで、人の血の気の引いた顔が好きで好きでたまらないかのようだった。そして仲間との絆を脅かす姿のない敵へ打撃を与えたことに、心底満足しているかのようだった。午後の授業が進み、若干落ち着いてくると、蛇の眼の少年でもこうも自然に笑えるのか、という感心が遅れてやってきた。
だが佐竹への怒りは収まらなかった。
もしも、自分だったら、と考えてしまう。
たとえば自分が野崎と似たような状況に置かれ、同じように翼に画像を送られたら。
想像したくなかった。そしてその想像したくない状況に野崎が今、置かれている。
なんとかしなければ、という思いが紅子を逸らせる。だが具体的に今、どうすればいいのか、思いつかなかった。これまでに駆使してきたサイバー犯罪手段の何もかもが無力だった。
それどころか、佐竹によって逆に利用されているのだ。
客観的な証拠を残す。裏アカウントを把握し追い詰める。表アカウントの人間関係を読み解き、利用する。すべて、紅子自身がしていることと同じだった。違いといえば、それらの根本に強要があること。そして、使い途が悪事であること。
もしも翼とえれなに止められなければ、撃っていた。
今も撃ちたい。まずは佐竹、そしてグループの人間をひとりずつ、クラスメイトの前で射殺していきたい。死にたいアカウントが更新され、それを確認しているらしきグループの誰かから忍び笑いが上がるたび、紅子は内ポケットの拳銃に手を伸ばしかけた。
今、野崎はどこで何をしているのか。既に忍ばせていたスパイウエアを起動すると、最寄り駅のあたりに反応があった。何かを躊躇うように、その位置情報は小刻みな移動を繰り返していた。
そして放課後。
佐竹が、帰り支度を整える片瀬怜奈に歩み寄った。
「なあ片瀬さん、今日、帰り空いてる?」
怜奈は素気なく応じた。「何、急に。あたしあんたと接点ないけど」
「そりゃわかってるって。でもほら」佐竹は後ろを指差す。「
「……良華?」
「やっほ、怜奈」
佐竹の背中に隠れるように、
佐竹は驚くほど穏やかな笑みで言った。「お前ら、一年の時仲良かったじゃん。でも愛梨の話とかあって、ぎくしゃくしてたろ。どう? いい機会だと思うんだけど、俺は」
「みんなでカラオケ行くの」平田は上目遣いに言った。「怜奈もどう? ていうか怜奈ってどんな音楽聴くの? 歌上手そうだよね」
「オルタナティブ・ロック」
「オル……何それ」
「みんなで聴かないし、みんなで歌わない音楽」
有無を言わさぬ口調だった。
平田良華も、一緒にいた数人の女子も、そして佐竹グループの全員が、怜奈が作る見えない壁に衝突したかのように、応じる言葉を見失った。一瞬、教室に沈黙が降りた。
だが佐竹だけは、その見えない壁を押し破り、歩み寄った。
怜奈の肩に手を置き、言った。
「お前、さっきの写真、見た?」
再びの電光石火だった。乾いた音が教室中に反響した。
怜奈は肩の手を払い、佐竹の頬を、思い切り平手打ちしたのだ。
帰路に着きかけていた無関係な生徒の視線までもがふたりに集中した。
怜奈は教室中をひと睨みすると、そのまま足速に教室を立ち去った。
数秒、間があってから佐竹が言った。
「やっべ、めっちゃ嫌われたわ」
それが合図だったかのように、高橋や芝浦が大声で笑った。その声が、今のは笑い話だから、深刻になることもこれ以上注目することも許さないという、無言の圧力となって教室に伝搬した。
集中した目線が離れ、いつもと同じ放課後の風景へと切り替わる。
紅子は慌てて席を立ち、怜奈の後を追った。
安堵していた。少なくとも、片瀬怜奈は、あの画像が野崎悠介によって自発的に送られたものではないことに気づいている。佐竹グループのいじめの一環であり、それに彼女自身が利用されたことにも。彼女の怒りが、紅子には救いに思えた。
彼女の中には、犯されざる善意がある。
野崎を見捨てないでいる人間が、グレイハッカーズ以外に少なくともひとり、いるのだ。
誰かにこの喜びを伝えたかった。それで、翼がいつか言っていたことを思い出した。
直接訊いてみればいいんですよ。
片瀬怜奈に話しかけるなら今だと思った。彼女が野崎にとっての心の防波堤になってくれるのなら、きっと野崎はこの世に希望を持ったままでいられる。別に彼女が別の男に懸想していたとて構わない。遺憾ながら青春とはそういうものだ。だが全員に見捨てられていることと、見捨てないでいてくれる誰かがいることとは、雲泥の差だ。
昇降口まで降りたところで、怜奈の、長い黒髪が泳ぐ背中が見えた。つくづく絵になる女だと改めて思った。
だが彼女は、自分の下駄箱の前で、足を止めた。
携帯に目を落としていた。
同時に、紅子の携帯が通知に震えた。野崎のアカウントの稼働を監視するアラームだった。
廊下の曲がり角に身を隠し、紅子は携帯を取り出した。
野崎から、怜奈へ、プライベートラインでメッセージが飛んでいた。
『あの画像のことなんだけど』と野崎。
数秒。更新。
『迷惑かけてごめん』と野崎。
数秒。更新。
『僕じゃないんだ』
数秒。更新。
『佐竹くんたちが』
数秒。更新。
そして野崎はこうWIREした。
『佐竹くんたち、片瀬さんに何かしなかった?』
まずい、と直感した。
佐竹純次という少年は、魔物だ。何をするかわからない。だからすれ違うだけで恐怖を感じたし、紅子は彼と戦うにあたって、拳銃と実包まで手に入れた。倫理の箍が外れた相手であり、何より、男だ。同じ男には暴力で済むかもしれないが、あの魔性が女に向いたら、どうなるのか。
それに気づかない片瀬怜奈ではない。
彼女は美しい。美しいということは、自分に向けられる欲望の種類を、知っている。ソート順を下から数えた早い紅子の何倍も。
怜奈の肩に置かれた佐竹の手。
その手と、蛇の笑みから伝わっただろうもの。
公衆の面前での平手打ちへの報復の可能性。
〈WIRE ACT〉の画面をリモート表示する携帯を手にしたまま、紅子は動けなかった。
一六歳の聡い少女が自分の身を守るために取る行動を止めることなどできなかった。
怜奈から野崎へ返信が飛んだ。
『うざい。不愉快。二度と関わらないで』
死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
過去最大の流速で野崎の裏カウントが動き出す。現在地は私鉄の駅前のコンビニ。
まだ負けてはいない。
思い出すのは、やはり翼の言葉だった。
僕らの手に余ると言った覚えはありません。そう彼は言ったのだ。
どんなに追い詰められても翼とふたりなら逆転できる。羽原紅子ひとりでは無理なことでも、グレイハッカーズなら実現できる。いい仕事はチームワークなのよ、と音屋礼仁教諭も言っていた。
クラスが別れて四六時中一緒ではなくなったが、ふたりでひとつだと紅子は感じていた。羽原紅子には内藤翼しかいないように、内藤翼には羽原紅子しかいない。入学したときからずっとふたりのロボット研究会だ。そして紅子が考えあぐね、悪への攻め手を見失った時、突破口を示してくれたのはいつだって翼だった。
GPSで翼の居所を探索する。
校舎内だった。ロボット研究会の部室だった。彼が待ちかねているような気がした。えれなも一緒だった。
脇目も振らず、紅子は走り出した。
部活に向かう生徒たちや無駄話に興じるグループの間をすり抜け、渡り廊下を駆け抜ける。
息を切らし、部室の前に辿り着く。
「おい相棒。手を貸せ。野崎が……」扉を開く。
翼がいた。えれながいた。
ふたりの間に距離はなかった。身体と身体が触れ、互いが互いを抱き、唇と唇が触れていた。背丈に差がほとんどないふたりは、背伸びもしていなかった。
えれなが声を上げた。翼が「部長」と言った。椅子が倒れ、ふたりが慌てふためいて離れ、唇を手で拭った。
腑に落ちた。
紅子が部室でWIREを監視していた時、彼らはふたり連れ立って現れた。翼が冗談めかして「男は狼だから」と言った時、えれなは責めるような目を向けていた。生娘と言ってからかった時、えれなは誤魔化し笑いだった。試着室から出てきたえれなの服の裾に翼が手を伸ばした時、えれなは赤い顔で俯いていた。音屋の妊娠と結婚を知らされた時、翼は冷静だった。紅子が拳銃に手を伸ばした時、ふたりは一緒に止めに来た。
えれなはいつの間にか、翼のことを『翼くん』と呼んでいた。
何もかもが腑に落ちた。
「羽原ちゃん。あのね」
「部長。隠していたのは謝ります。でも」
「黙れ」と紅子は言った。
目を合わせられなかった。
もうふたりだけのロボット研究会ではなかった。
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