3-13 グレイハッカー第3の敗北/この物語に天才ハッカーはいない
死にたいの羅列は止まらなかった。
紅子は私鉄駅から下りの電車に乗った。そのまま車両基地のある駅まで座り続け、車掌に声をかけられて上り方面の電車に乗り換えた。そして学校最寄りを過ぎ、ターミナル駅に着く。紅子は座席から立ち上がらず、電車はまた下り方面となって発車する。
携帯の通知は鳴り止まなかった。翼と、えれなと、〈WIRE ACT〉。
自惚れていた自分に気づいた。
自分にとっての一番大切な誰かが彼であるように、彼にとっての一番大切な誰かも自分であると信じて疑わなかった。恋愛関係ではない、ふたりだけの、名前のつけられない特別な関係なのだと、一方的に思い込んでいた。彼が自分から離れる未来など想像もしなかった。
全部自惚れだった。
そうして携帯を眺めながら、二往復ほども電車に揺られた時だった。
野崎の裏アカに投稿される文が変わった。
『希望の死に絶えた世界に』
数秒。更新。
『さよなら』
紅子は立ち上がった。
周りの乗客の目線が集中した。構わず携帯からスパイウェアの監視ツールを立ち上げ、野崎の位置情報を地図上に表示させる。
席に座り直してPCを開き、車両の位置をリアルタイムに表示する列車運行情報サービスを開く。
野崎の位置は、学校の最寄り駅の、ホーム上。準天頂衛星システムがもたらす超高精度の位置情報が、冷徹にカウントを刻む。紅子の目が画面に奪われる。位置がホームの縁へと近づいていく。列車が駅に入る。
重なる。位置情報が途絶える。
それから数分。紅子の乗った電車が駅に停まり、車掌のアナウンスが響いた。
『只今、経路上の駅にて人身事故が発生したとの情報が入りました。お客様にはご迷惑をおかけしますが、この電車はしばらく当駅にて停車いたします。新しい情報が入り次第お知らせいたします。なお、運行再開の目処は立っておりません』
それからの日々は飛ぶように過ぎていった。
野崎悠介の死は新聞などでも大きく取り上げられた。それはひとえに、彼がホームドアを乗り越えて電車へ飛び込んだからだった。ネットにはドアは越えられたのに人生の荒波は越えられなかった、などの心ない茶化しの言葉が並んだ。そして生徒の誰によると思しきリークにより、野崎が激しいいじめに遭っていたことがネットの話題となった。
不審死。警察による検視。間違いなく自殺であることの確認。
自殺の三日後、学校は記者会見を開き、そこで校長や教頭の口から、学校ではいじめの事実を認識していなかったことと、いじめと自殺との間に因果関係があるとは考えていないことが語られた。
自殺の一週間後、野崎悠介の葬儀が営まれた。その日は雨が降っていた。担任の有沢の提案により、クラスメイトは全員が参列した。多くの生徒の口から、面倒を強いた有沢への恨み言が聞かれた。だが参列者の中には、隣のクラスであるはずの、憂井道哉の姿があった。そして彼は、斎場で片瀬怜奈と何事か言い争っていた。
共に中学時代のクラスメイト。思うところ、通じるところがあったのかもしれない。
怜奈の方は、どこで誂えたのか、喪服姿だった。他の生徒が全員制服にもかかわらず。それが彼女なりの悼み方であり、誠意であるように、紅子の目には映った。
野崎の死後、たったひとつだけ、紅子がしたことがあった。
〈WIRE ACT〉を使い、自殺直前に怜奈と野崎の間に交わされたやり取りを、すべて削除したのだ。
道を踏み固めたのが佐竹であっても、最後のひと押しをしたのが怜奈であることは、動かしようのない事実だった。最後に手を差し伸べなかったのが紅子であるのと同じように。だが、善意を内に秘め、自分の身が脅かされない範囲で最善を尽くした片瀬怜奈を、どんな形であれ殺人者にするわけにはいかなかった。野崎の携帯電話は電車との衝突の衝撃で破壊されていたが、WIREのアカウントが発見されるのは時間の問題だった。
気づいたことがあった。
佐竹との戦いは、いつの間にか、守る側に回らされていた。そしてどんなセキュリティでも、攻めることは容易く、守ることは難しい。
少しの心得があれば、素人でも企業のセキュリティを突破できる方法に辿り着くことができる。その証拠に、年齢別の不正アクセス禁止法の被疑者数は、一〇代が最も多い。だがそんな、借り物の技術で飾ったハッカー少年たちに、何が守れるのだろうか。
攻める側ではなく守る側に回ったハッカー少年は、きっと馬脚を現すだけだろう。
ちょうど羽原紅子とグレイハッカーズのように。
彼らは、ハッカーであっても、天才ハッカーではないのだから。
そして事件後、内藤翼と初めて言葉を交わしたときには、二週間が過ぎようとしていた。
雨上がりの校庭を望む階段だった。ぬかるみが陽光を反射して煌めいていた。すべての汚れに蓋をするように。
「希望の死に絶えた世界、ですか」と彼は言った。「この世の悪意を僕らは上回れなかった」
「付き合ってたんだな、いつの間にか」
「ちょっと言い出せなくて。どうしてかは訊かないでください」
「訊かないさ。……放っておいていいのか、馬場ちゃんを」
「彼女もショックを受けています。部長ほどではないでしょうが」
「結局私は、神にも探偵にもなれなかった」紅子は胸元のUSBメモリを掴んだ。「私の負けだ」
「……そうですか」
「グレイハッカーズは解散だ。たったひとりすら守れず、何がグレイハッカーだ。何が悪意を上回る善意だ」
「こうなった以上、非合法活動のログは残さない方がいいでしょうね。でも、怪しまれますよ。僕らが一緒にいるところは、多分烏丘の全員が見ている」
「羽原紅子は内藤翼に片思いしていた。だが内藤翼は馬場えれなと恋人同士になった。羽原と内藤の関係には亀裂が入り、在学中、一度も言葉を交わすことはなかった。どうだ。納得の行く筋書きだろう」
「人を騙せる嘘は、一片の真実が含まれる嘘です。その昔、これで大衆を扇動した政治家がいました。アドルフ・ヒトラーです」
「わが闘争はここまでだよ」
翼は応じなかった。
代わりに、ポケットから何かを取り、差し出した。
量産品の外づけストレージドライブだった。
「侵入可能な監視カメラのリストとその侵入ツール。〈WIRE ACT〉と連携可能な顔認証プログラム。僕が手塩にかけて育てた顔認証AI。あなたに預けます。あなたなら、きっと僕より上手く使えますよ。これは僕の私見ですが、あなたの適性は回路設計や制御ハードよりも、画像処理にあると思いますから」
「……私に、どうしろと?」
「あなたにはね、泣き顔なんて似合わないんですよ」そのドライブを半ば無理矢理渡し、翼は言った。「部長、ひとつ、賭けをしませんか」
「賭け?」
翼は頷いた。「この世には、希望が残されているか」
「ありはしないさ」紅子は吐き捨てた。「いつだって勝るのは悪意だ。佐竹を見ろ。ぴんぴんしてるぞ。野崎の死後、直後から、やつは新しいターゲットを見つけた。島田雅也という一組の男子生徒だ」
「知ってます」
「覚醒剤密売グループとの繋がりも強化されつつある。今の佐竹は、もう売人の見習いだ。先輩相手に、売り先のあてがあると言っている。金で操り支配下に置いた同級生は、将来の顧客候補だったんだよ」
「……それは知りませんでした」
「悪意は強い。どんなセキュリティでも、守るより、攻める方が容易いんだよ」
翼は口の端で笑った。「それでも僕は、希望は残されている方に賭けます」
「私が負けたらどうする?」
「チェーホフの銃。あれで僕を撃ってください。あなたは僕を撃ちたくないでしょう」
「君も大概性格が悪いな」
「あなたに」と言って、翼は深呼吸した。
空に雲がかかり、ぬかるみの汚れが顕になる。
翼は言った。
「お前に似たんだよ」
捨て台詞を残し、翼はその場を立ち去った。
部活の自粛で誰もいない校庭。
紅子は呟いた。
「私は、お前なんて名前じゃない」
これが、烏丘高校在学中、羽原紅子と内藤翼が交わした最後の会話だった。
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Tokyo GY Hackers episode 3[202612-202705]
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