Epilogue. 灰色の青春 203405
Say Goodbye to the Underground. [終]
東京へ戻ったのは久しぶりだった。
時代は移ろい、月日は流れる。携帯端末のトレンドは手持ちからウェアラブル、そして体内埋込み型へと変わりつつあった。その火付け役となったのは、WIRE株式会社の元代表取締役社長、羽原蒼一郎の興した新規事業だった。ファッション通販サイトや多数のブランドと提携し、服を着替えるように毎日使い分ける個性的かつ無数の端末を製作・販売するプラットフォームを立ち上げたのだ。
たとえば眼鏡型の端末があったとして、ひとつが高価格かつ大型では日常の道具にはならない。そこでプラットフォームを共通化し、機能の大半を体内埋め込み端末に持たせ、外部化を最小限にすることで低コストやファッション性の高さと高機能を両立した。
たとえば見た目は何の変哲もない眼鏡でも、高度な画像処理やネットワーク連携機能を持つHMDになる。コンタクトレンズ型もある。その日の服装や気分、シチュエーションに応じて選べるだけのラインナップがあり、価格も安い。
二〇三四年。羽原紅子、二三歳。
グレイハッカーズの解散から六年の歳月が流れたある日、紅子はそんな眼鏡のひとつをかけて、武蔵小杉の駅前に建つタワーマンションへ向かった。カレンダーは土曜日だが、何かと忙しい紅子はここ数年、暦通りに休めたことがなく、今日もパンツスーツ姿だった。学生起業でいくつかのビジネスを立ち上げていた都合、他人より社会人扱いされるのは早かったが、未だに女性のビジネスカジュアルというものがわからなかった。
呼び鈴を押すと、よく知った声が応じた。
エレベータで昇り、フロアへ足を踏み入れ、もう一度呼び鈴を押す。
扉が開いた。
「お久しぶりです、部長」
「よお、内藤」と紅子は応じた。「いいところじゃないか。そこそこ稼ぎはあるようだな」
あなたほどでは、と内藤翼は応じた。
翼の勤め先は名の知れたIT企業。多重下請け構造の比較的上流に職を得ることに成功した彼は、首尾よくそれなりの仕事でそれなりの生活を築いているようだった。
相変わらずの童顔だが、少し背が伸びた。髪のパーマはやめたようだった。
「このマンション、最近管理人が変わって、色々滞ってまして。だから見た目と比べて安いんです。家賃補助もありますし。……上がってください」
「いや、ここでいい」紅子は後ろ手に扉を閉めた。「希望の話をしよう」
「相変わらず急ですね。いきなり連絡してきて、それですか。高二からだから……」
「六年だ」
「六年ぶりに話すことじゃないでしょう」
内藤翼は呆れ顔だった。その表情はあまりにも一六歳の彼のままだった。
動揺した。そして自分をこうも動揺させる人間は、内藤翼をおいて他にいないということを、紅子は改めて思い知った。
だが、もう終わっていた。
玄関に目を走らせる。
女物の靴。壁にかかった北欧ヴィンテージ風のタペストリー。花瓶の花。男のひとり暮らしには似つかわしくないもの。
「……馬場ちゃんか?」
「ええ。近くに住んでるんです。えれな、あなたが来るって言ったら、喜んでました。どうですか、一緒に食事でも」
「高校時代の恋人。四年制大学を卒業し就職後も関係が続く。きっとそのうち結婚。子供ができる。子供は未来の納税者になる。全く君の人生は正解だらけだな。私と違って」
「正解じゃない時間の方が楽しかったと、思うこともあります」
「日夜他人の個人情報を拾い集め、顔面を収集して点数をつけていた時間のことか?」
「そうです」翼は曖昧に笑った。
笑わなければならないという義務感に駆られているかのような顔。
紅子の知らない、二三歳の顔だった。
紅子は息をついてから、一気に言った。
「希望の話をしよう。野崎悠介の死後、佐竹純次は島田雅也という一組の男子生徒を新たなターゲットにし、いじめ行為を再開した。だがな、誰もが島田を見捨てたわけじゃなかった。つまり私たちだけじゃなかった。憂井道哉だよ。覚えているか、あのアナログ人間の大男で、野崎の友人だった男だ」
「覚えています」と翼は応じた。
「彼は佐竹グループに単身立ち向かい、あろうことか腕力で打ち倒した。その後私も少しばかり力を貸したが、最終的に佐竹らは学校を追われた。見せたかったよ、君にも」
「知っています。あの喧嘩、結構騒ぎになりましたし」翼は淡々と言った。「……遅かったですね。いつ、あなたが僕を殺しに来るか、僕は冷や汗ものだったのに」
「引きずったんだよ。君のことを。六年」
「じゃあ撃ちますか、僕を」翼は腕組みで壁に背を預ける。「賭けは僕の勝ちです」
「ああ、私の負けだ」
「チェーホフの銃は、いつか必ず発射されなければならない。……PCだけにしては膨らんだ鞄だ。持ってきてるんでしょう、例の銃」
「そうだな」と紅子は応じる。「私には動機がある。昔好きだった男が自分のものにならないから、逆恨みして殺す。納得の行く筋書きだな。だが」
「だが?」
「私が銃口を向けるべき相手は、君じゃない」
眉をひそめる翼。「どういうことです?」
「私は私自身の罪を贖わなければならない。他人を嘲笑い、目的はどうあれ犯罪行為に手を染め続けたことを。私は未熟だった。未熟にもかかわらずサイバー犯罪を犯した。私は私にそうさせた者の存在から目を背け続けてきた。そのツケを支払う時が来た」
「あなた、まさか」翼は目を見開いた。
「会えてよかった。やっと、あの男に向き合う覚悟が決まったよ」
学生時代に立ち上げた事業を巨大IT企業に売却した紅子は、その利益を原資にフリーの画像処理コンサルタント業を営んでいた。大手から中小まで多数の企業からマシンビジョンを中心とした要素技術の開発を受託し、時に納品先の生産拠点やオフィスに詰めて、客先と自分の納得が一致するまでプログラムやAIと睨み合う。
紅子の名が業界に知れたのは、世界最大の自動車メーカーから意匠部品の検査システム設計を受注した時だった。業界でも一、二を争うITベンダーが自動車メーカーの提示した納期を前に逃げ出した案件だったにもかかわらず、紅子はほぼひとりでハードの選定から画像処理AIのマシンラーニング、生産の立ち上げまでをこなし、その仕事が絶賛された。以降仕事が絶えることはなかった。大きな産業のように見えても技術展示会やセミナーへ足を運べば同じ顔に何度も行き当たるような世界だ。世界一の自動車メーカーからのお墨つきは絶大な力を持っていた。
そして今日は土曜日。紅子はスーツ姿。
内藤翼の自宅を辞した紅子は、渋谷にオフィスを構える新興IT企業の応接室で、落ち着かずに机を指先で叩いていた。部屋のそこかしこには、その会社の製品であるウェアラブル端末の本体や、それを手にして笑顔の若者の写真を使った広告モニタが飾られている。
名は、フォン・ワイヤード株式会社。
その代表である男が、ようやく姿を見せた。
「やあやあ、久しぶりだね、紅子」
「父さん」目線だけを上げて紅子は応じた。
元、WIRE株式会社代表取締役社長、羽原蒼一郎。
会うのは高校卒業以来だった。だが互いに、そのことには触れなかった。
目的は仕事。新たなアプリケーションソフトに関する打ち合わせだった。
空調が暑すぎず、寒すぎず効かされた部屋。子供の背丈ほどのコミュニケーションロボットが、笑顔の顔文字を頭部モニタに表示しながらコーヒーを置き、部屋の隅に控えた。
事前に渡されていた資料の内容について、改めて説明を受ける。
その説明が終わった頃には、出されたコーヒーも冷めていた。
紅子は深々と息をついた。構えるな、と優しく肩を叩かれているような内容だったのだ。
「……父さん、これは要するに、出会い系ではないか」
白髪の増えた父は呵々と笑った。「違う違う。体内端末から遠隔で走る高度な顔認証技術とSNSの投稿傾向、居住地、年収、消費傾向分析などから、性格が一致する運命の相手を街で見つける、マッチングサービスだ」
「出会い系では……」
「いやいや。グレイでもアンダーグラウンドでもない。完全にオープンでホワイトだ。晩婚化と少子化を止める一助として、政府の支援も受けられる予定だ。誰もこの国の緩やかな滅びを望みはしないさ。それは君もだろう、紅子」
仕事は仕事だった。
開発は請けるが保守点検とクレーム対応は請けない旨の契約書を提示し、互いにサインを入れた。
仕事の話が一段落した頃、蒼一郎はおもむろに言った。
「それで紅子。君は、何になれた?」
〈WIRE ACT〉のことであると、言わずとも知れた。あれを使った悪事の数々は、すべて父には知られていた。黙ってくれていたのは、親子だからなのか。それとも、行いをある程度認めていくれていたからなのか。
訊けば後者と答えるのが羽原蒼一郎だった。だが前者の比重の高さに気づかないほど、紅子はもう、子供ではなかった。
あのUSBメモリはまだ、紅子の胸元にあった。
「正義の味方気取りのストーカー、かな」
「でも君でなければ救えない人がいた。君でなければできないことがあった」
「どうだかな」紅子は立ち上がった。「不正アクセス禁止法の被疑者を年齢別に見たとき、一番多いのは一〇代の若者だ。つまり少年ハッカーという存在は、珍しくもなんともない、むしろありふれたものだ。かつての我々、グレイハッカーズのように。だがその多くに共通するものがある」
「それは?」
「何者かの教唆を受けたということ」紅子は足元に置いていた鞄を机に上げた。「サイバー犯罪のサプライチェーンが整備された現代において、サイバー犯罪を行うことのハードルは下がった。だがそれは同時に、悪をばらまく本当の悪が跳梁跋扈する最悪の世界の訪れでもある。逮捕される少年ハッカーの多くは、本職のハッカーにそそのかされて悪事に手を染めた。まあ、そういう人間はサイバー犯罪者に限らんがな。高二の春に、私はそれを思い知ったよ」
「ああ紅子、わかった。君が言いたいのは……」
「話が早いな」紅子は鞄に手を入れ、拳銃を取り出して蒼一郎へ向けた。「私にとって、それはお前だ、羽原蒼一郎」
蒼一郎は笑みを崩さなかった。「……さすがに予想外だ」
「これはけじめだ。私がした全てのこと、そして守れなかった全てのものへの」
「僕を撃つのかい?」
「悪く思うな」
紅子は引き金を引いた。
六年放置された拳銃が音を立てて崩れた。元々耐久性を考慮したものではなかった。当時選択した素材は成形性を優先しており、経年劣化には弱かった。黒かった樹脂は退色し、所々白化していた。
崩れた樹脂が紅子の手から砂のように落ち、テーブルに散った。それは燃え尽きた後に残った灰のようだった。
弾丸は放たれなかった。
紅子は汚れた手を払い、胸元からチェーンで繋がったリング型USBメモリを取り出す。
そしてチェーンを力任せに切って、テーブルの上に放り投げた。
「灰色の青春は終わりだ」
蒼一郎は額に汗を浮かべていた。「Say goodbye to Underground、かな」
「"the" Undergroundだ」
紅子は眼鏡のつるに仕込んだスイッチを押した。
視界に赤いグリッドが走った。
視力矯正用とヘッドマウントディスプレイの機能を兼ねる眼鏡越しに、目に映る全てのものが解析される。目の前の男の心拍数。健康維持のため常時監視・収集されつづける無数の情報。懐の表示用端末と、体内に埋め込んだチップからの通信が可視化され、接続された全てのウェブサービスのアカウントをハックする。プロテクトを破って侵入したマルウェアがその端末と、室内に置かれた全てのデモ機に感染。さらに蒼一郎の端末と連携していたオフィスのPCを経由して社内ネットワークに繋がる全端末とデータサーバー、建物の制御システムまでもを支配下に収める。戯れに全館の空調設定をサーバルームと同期。冷房が一斉に唸りを上げる。蒼一郎の端末内に、若く仕事の成績が優秀で容姿もそれなりによく、親の身分も確かな男たちのリストを発見――そのリスト名は『婿候補』。コミュニケーションロボットが全身のモータに過電流を検知して停止。CPUが過処理に陥り同時に冷却機構が強制停止。モニタがへの字口のしかめっ面の顔文字を表示し、外部スピーカーが同じ英語のセンテンスを繰り返す――◯UCK YOU, F◯CK YOU, FU◯K YOU, FUC◯ YOU!!!
どんなに引く手数多だろうと、多すぎる仕事で休みが潰されるほど羽原紅子は無能ではない。
「私の敗因はひとつ。コアテクノロジーのアウトソーシングで競争力を失ったことだ。故に、今度は完全内製だ」
室内の広告モニタが黒一色から赤へ。そしてロゴマークが表示される。
〈WIRE ACT2〉――羽原紅子、二三歳の裏稼業。
唖然とする父を見下ろし、中指を立てて紅子は言った。
「私は行くよ。
――――――――――――――
TOKYO GY HACKERS――HELLO, HIGHER GROUND!!!
東京グレイハッカーズ 下村智恵理 @hisago_a
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