2-9 300人と35人
気に入らん女の弱みを握る。
それだけのつもりだった。だがその女の背後に広がる底知れない闇に、紅子はたじろいだ。父から渡されたUSBメモリは何も言ってくれない。警察に匿名の通報をして現場に送り込んだとしても、トカゲの尻尾を切られるだけで、闇の広がりを止めることはできない。
放課後のロボット研究会部室。徐々に完成に近づく文化祭用の企画ロボットを前に、紅子はWIREのプライベートラインを追いかけていた。
報田と、荒木と、馬場えれなの三人。
報田は、森野麻未菜や平田良華抜きの三人で遊びに行こう、と馬場えれなに持ちかけていた。
もちろん、会話の内容は遊びの誘いだけではない。平田良華からえれなへの当たりが妙に強いこと。森野麻未菜がドラマの話をする時に声が甲高くなって気持ち悪いこと。ふたりがえれなのことを軽んじることの理不尽に荒木まさみが憤るようなことを呟き、報田が窘めつつも同意する。人間関係が大事だからあまり言わないが森野や平田の態度を快く思ってはいないことや、えれなはいい子だからずっと友達でいたいと思っていることを、言葉巧みに並べ立てる。
最初は警戒して自分のノリの悪さを責めたりつい他人を苛立たせてしまうことへの後悔を口にしていたえれなだったが、次第に同調し始める。愛梨やまさみがそんなことを言ってくれるのが嬉しい、ふたりと一緒のクラスでよかった、等々。優しい言葉の裏に張り巡らされている計略に、気づく素振りもなかった。
やがて話は『秘密のバイト』へと及ぶ。
実はふたりともそのバイトをしている、他にもたくさんいる。学校に通うだけでは知り合えない友達がたくさんできる。みんないい子だけどバイトの人数は限られているから、新しい子は中々入れない。紹介するのは、えれなのことを大事な友達だと思っているから。教室のパワーゲームの頂点に立つ報田愛梨からのその誘いは、日常に息苦しさを感じているえれなにとって、麻薬に等しかった。
実は遊びに行くんじゃなくて、そのバイトについて詳しいことを話すために三人だけで会いたいのだ、と報田がもちかける。えれなは是も否もなく応じた。
きっとそこで、大人の男と親密な時間を過ごして金を受け取るバイトであることを説明されるのだ。そして拒否する素振りを見せれば、親友だと思っていた、などと、気持ちを盾に取った脅しに入るに違いない。きっとえれなは断れない。根が素直で気が弱く、教室での立ち位置を間違えてしまった不幸な少女であるえれなは。
時間と場所の約束が取りつけられる。そして最後に、報田愛梨はPLをこう締めくくった。
うちらだけの秘密だからね、と。
「浮かない顔ですね」と内藤翼は言った。
「うきうきしていられるわけがないだろう」
「そうですか? 僕は結構楽しいですが」
「どこがだ」
「面白いものが見られたじゃないですか。高校生がSNSを利用して作り上げた売春組織。三〇〇人の顧客相手に売春を繰り返す三五人の少女たち。こんな面白いものはそうそうありませんよ」
三五人。
報田が作成したPLに登録された少女たちの数だ。
「なあ内藤くん。うちのクラスの人数、何人だったっけか」
「三五人ですね。部長風に言うなら、孤独な数字が五つですね」
「この街にクラスひとつ分の援交少女がいるってのは、どう思う」
「氷山の一角でしょう。実際にはクラスどころではなく、一学年かもしれない。学校ひとつ分かもしれない。前にも言いましたが、部長、この一件はあなたの手に余りますよ」
その忠告を忘れたわけではなかった。
手に余る。確かにそうかもしれない。だが。
紅子はPCに挿したままのUSBメモリのリングを指先で撫でた。
「私はそうは思わんな」と紅子は応じた。「私の愛するインターネットはな、個人がどんなものにもなれる場所だ。たったひとりの力を、いくらでも拡張できる場所だ。神にも悪魔にも。探偵にも怪盗にも。まあ、無限とは言わん。私だって人間だからな。だが三〇〇人と三五人くらいは……」そこまで言って、紅子は手を止めた。
〈WIRE ACT〉の画面に表示していたのは、〈A〉のPLに登録された男たちのリストだった。
會澤昇一。堂林幸一郎。その他多くの男たち。いずれも関東近郊に住む以外は共通項が見出だせないかに思われたアカウント群。だが翼との会話の中に、閃くものがあった。
無作為にひとつのアカウントを開く。裏アカから本アカへ飛ぶ。
少女の方に注力していたこともあって、労多くして手がかりを得られる望み少なく思われた三〇〇人の精査は後回しにし続けていた。
ひとつ目。本アカにバズった投稿を発見。最近の子供達から垣間見える、親世代の奇妙な価値観を指摘するような文章だった。その中で、自分はスクールカウンセラーであり多くの子供達に常日頃から接していることを匂わせる表現があった。文章に信憑性を持たせ、注目を引くためと思われた。
ふたつ目。やはり匿名の裏アカから本アカを開く。自分が所属する団体の公式ウェブサイトへのリンクがプロフィール欄に貼られている。投稿は自分が社会福祉活動に従事しており、苦しむ人に寄り添っているのだから、自分の発言には価値があるとアピールしたい浅ましい虚栄心が透けて見える。彼が所属しているという団体は、学校に居場所のない子供たちのためのカフェを作っていると宣伝している。
みっつ目。名前を聞いたこともない私立大学の講師。専門は児童教育。
次。地域の民生委員。子供の安全を守るための、なんとか見守り隊という組織の活動報告がある。
改めて會澤昇一へ戻る。仕事上の豆知識として投稿した文章が多く共有されていて、気をよくしたのか補足の投稿を繋げている。その内容は、政府批判を含む、教科書の検定にまつわるもの。つまり勤め先は出版社だが、主に教科書を発行しているところ。
そして私立高校の校長である堂林幸一郎。
「教育関係者だ」と紅子は言った。「堂林だけじゃない。この三〇〇人、ひとり残らず教育関係者だよ。未成年に人並み以上の興味感心を持つ一方、未成年との不適切な関係が露見すれば自分だけでなく、所属する組織の破滅をも招きかねないような立場の人間だ」
翼は「マジすか」と言ったきりしばし呆気にとられ、一〇秒ほども沈黙してから、思い出したように続けた。
「リスクヘッジですか」
「忌々しいことにな」
「あの、部長。憶測を述べても?」好きにしろ、と紅子が促すと、翼は言葉を選んでいるようにゆっくりと続けた。「リスクヘッジ。〈A〉は報田で、たぶん愛梨のA。ですが、この周到さは、やはり盗撮映像の犯人像と重なりますよ。平田颯介です。彼の関与が、どこかにあるのでは?」
「やつは教育学部の学生で、フィールドワークが多いゼミのようだ。その関係で知り合った人間を、最初に報田と引き合わせたのかもしれないな」
「部長も大概憶測ですね」
「的外れであることを祈っているが」
「同感です」と応じた翼は、目を伏せて言った。「部長。一応確認なんですが。……その三〇〇人の中に、うちの学校の教師、いませんよね」
「一応全員アカウントは特定しているが……」紅子は構築済みのリスト同士を〈WIRE ACT〉で照合する。操作に数十秒、検索に数秒。
結果は一致ゼロだった。
翼は息をついた。「ひとまずは安心、ということですね」
「ああ。もしもうちの教師も買春に手を染めているとしたら、ぞっとしないな」
「でもこの街のどこかには、少女に金を渡してみだらな行為に及ぶ男から日々勉強を教わる高校生がいるんですよね」
「面白いか?」
「いいえ。どんな顔で教壇に立っているのかは、興味がありますが」
「リスクヘッジだろうな」と紅子は言った。「主犯が報田だとしたら、自分の学校の教師に裏稼業を知られるリスクは取らないだろう。三〇〇人もいて、うちの学校の関係者がひとりもいないのは、むしろ不自然だ」
確かに、と翼が応じた時だった。
部屋の扉がノックされた。
互いに目配せを交わす。PCに表示されていた調査の痕跡をすべて閉じ、机に広げたWIRE関係のメモや印刷したログの類をすべて隠す。
どうぞ、と紅子が声を張る。果たしていつもの顔が姿を見せた。音屋礼仁教諭だった。
「どう? 進んでる?」
「進んでいますが、少し技術的に難易度が高い課題がありまして」と翼が応じた。「そんなことより先生は今日も素敵ですね」
「そう? ありがとう」音屋は満更でもない笑みだった。「課題っていうのは? 私でわかることなら、アドバイスできるかもしれないわ」
「いえ、こちらの話ですから」紅子は翼の向こう脛を机の下で蹴った。「こいつ、『これは部長の手に余りますよ』とか言うんですよ」
すると音屋は、少し考えてから言った。「できることだけしていては、困難な課題は解決できないわよ」
「とおっしゃいますと」翼が首を傾げた。痛みのためか眉が痙攣していた。
「同じツールでも使っていない機能はないか。以前に同じ課題にぶつかったひとの記録はないか。知らない、使ったことのないツールなら案外簡単に解決できるのではないか。人間、スキルが伸びるのは難しい問題に直面したときだけなのよ」
「困難が人を育てる、ということですか?」紅子は音屋の目を見て言った。
音屋は目線を逃さずに返した。「そうよ。それにあなたたち、ひとりじゃないでしょう? いい仕事はチームワーク。ふたりでならできることもあるわ」
紅子と翼は目を見合わせた。
すると音屋は、いつものように抱えていた書類の耳を揃えた。「じゃあ先生はこれで」
「いいんですか?」
「ええ。だって壁にぶつかるってことは、頑張ってる証拠だから」
そう言って微笑むと、音屋は部室を出ていってしまった。
足音が遠ざかったのを確認してから、紅子は言った。
「少し高すぎる壁のように思うのだが」
「弱気ですね、部長」
「萎えるようなことを言ったのは君の方だろう」
「手を引こうと言った覚えはありません。第一、馬場ちゃんを助けたい気持ちは僕も同じです」
「意外だな。君がそんなことを言うとは」
「そりゃあ、馬場ちゃんってソート順結構上位ですから。それに可哀想だ。僕は可哀想な女の子が大好きなんです」
「少し見直した私の気持ちを返してくれるか」
「まあまあ、そういきり立たないで。それに、部長の手に余るとは言いましたが、僕らの手に余ると言った覚えはありません」
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