2-10 養生テープと練り香水

 それから数日の支度は、マルウェアの改造と一部の攻撃手段の考案を除いて翼に一任した。紅子には独自に探りたいことがいくつかあったのだ。

 まず、報田愛梨と平田颯介の関係。これは過去のWIREへの投稿に特定の共通語がないか調べたことで判明した。家庭教師だったのだ。同じ日に、報田の方は家庭教師の先生が友達の兄で大いに笑ったが仲良くなった云々という内容、平田兄の方も家庭教師でお邪魔した先に妹の友達がいた云々という投稿をしていたのだ。ここでも、報田家が金銭的に困窮しているわけではないことが伺える。

 ならばなぜ、報田愛梨は私製売春組織を作り上げてまで金を稼ぐのか。

 それを探るのは自分の使命だと紅子は思った。少なくとも翼の役目ではなかった。この世で最も強固なセキュリティである嘘と仮面で守られた人間という最も複雑なコンピュータを破ることこそが、〈WIRE ACT〉を与えられた理由であり、今の自分に求められていることだと紅子は感じていた。

 しかし方法がわからなかった。報田愛梨はWIREでも仮面を被って何かを演じていた。たとえば片瀬怜奈にとってのかの憂井という少年のように、素の自分に戻る相手や場所が報田にもあるのか。興味は尽きなかったが、そのための手段は頭打ちだった。

 そうして考えあぐねた紅子が思い出したのは、翼のひと言だった。

 直接訊いてみればいいんですよ。

 だが、さすがに報田本人とは接点が一切なかった。そうしてまた考えあぐねていると、絶好の機会が巡ってきた。

 文化祭準備のためほぼ全生徒が居残りを強いられていた放課後。眼鏡の委員長が買い出しに出てくれる人を募っていた。みんなで仲良く共同作業というものが死ぬほど嫌いでかつ大の苦手な紅子は、教室から出られるとあって喜んで立候補した。すると教室の反対側から、馬場えれなが「羽原ちゃん行くならあたしも行くー」と手を挙げたのである。彼女は報田に近しい。得られる情報は多いはずだった。

 リストと封筒に入った現金を預けられ、紅子はえれなと連れ立って校門を出た。

「訊きたいことがあるんだが」と紅子は言った。「羽原ちゃんってなんだ」

「あれ? 嫌じゃったか?」

「嫌ではないが驚いた。正直に言うなら、三〇パーセントの嫌だ」

「残り七〇パーセントは? 驚き?」

「それは六〇パーセントだ」

「えーっと……」えれなは首を傾げた。算数をしているようだった。「あと一〇パーセントは?」

「秘密だ」

「えー? 教えてよお」

 駄目だ、と応じる。

 たぶんその一〇パーセントは嬉しさだった。だがそれが本当に嬉しさなのか、確信を持てなかった。互いを愛称で呼びあうような関係を得たことも、望んだこともなかった。学校に通っていれば嫌でも周りの人間と関わるし、呼ばれることもあった。だが女子からは羽原さんで、男子からは羽原さんか、親しくもないのにもっと適当にお前と言われるだけだった。

「委員長、何買ってこいって?」

 えれなは手書きのリストを見つつ応じた。「えっとねー、厚紙とマステとマジックとチャックつき小袋と……養生テープって何?」

「養生テープは養生テープだろう」

「どこで売ってるの? マツキヨ?」

「なぜドラッグストアなんだ……」

「え、だって養生するんじゃないの」

「そりゃ養生するんだろう」

「じゃあドラッグストアじゃん」

「いや、仮貼りだぞ。糊が弱くて貼った後でも痕を残さず剥がせる」

「痕残ったら困るよ」

「だから困らないための養生テープ……もしかして養生という言葉を知らんか」

「いや、知ってるし。養生せいとか言うじゃん」

「それは往生せいの間違いだと思うが……」

「は? どゆこと?」

「養生シートとか」

「何それ。包帯の仲間?」

「全然違うが……」

 わかんない、と騒ぐえれなを無視することにした。現物を見せた方が早そうだった。

 学校から徒歩一〇分ほどのところに、ホームセンターのような品揃えにも秀た大型のスーパーマーケットがあった。入ってみると、似た目的らしい同じ烏丘高校の制服を着た生徒の姿もあった。

 文具や工作用品のコーナーへ向かう。目的のものはすべて揃っていた。もちろん養生テープも。

「塗装とか粉が出る加工をするとき、環境を汚さないように養生シートを貼る。機械を持ち運ぶときに部品を箱に養生テープで仮止めしておく。目的を持って、後で撤去するために何かしておくことを養生と一般に言うんだよ」

「物知りだねえ、羽原ちゃん」

「生きる世界が違うだけ」と応じかけ、言い直す。「いや、養生テープくらい知っているだろう、普通」

「えー、知らないよー。だってこういうコーナーってお父さんの場所みたいな感じしない?」

「役割性に重きを置きすぎた見方だな。感心しないぞ」

「やくわ……何?」

 なんでもない、と紅子は応じた。翼と一緒の時と同じ感覚で喋ってしまうのはよくないと思い直したのだ。ロボット研究会の部室に引きこもっていると忘れがちだが、そういえば自分たちは異常者だったのだと、紅子は今更ながらに再認識させられた。何せ部員はふたりしかいない。

 委員長を待たせるのも申し訳ないので会計に向かおうとすると、えれなが足を止めた。

「あ、今月の新作出てる。ちょっと見てっていい?」

 シャンプーや化粧品、薬の置かれているコーナーだった。薬剤師の人が常駐してるから重宝するの、と母が言っていたことを思い出した。実際に常駐しているのは登録販売者だったが、母にとって、その違いは重要ではないようだった。

 チャンスだ、と直感した。

 いいよ、と応じると、えれなはやはり新作コスメ、と書かれたコーナーへ向かった。隣に立って覗き込んでみるも、購買意欲を絶妙に削がれる数字の値札が並んでいた。これならやや高級なボルトやエア継手のストックを買った方が幾分マシだと紅子は思った。

 えれなは新商品のサンプルを手にご機嫌な様子だった。

「ほらこれ。めっちゃいい匂い。羽原ちゃんもつけてみなよ」

「なんだそれ。リップクリームか? サンプルで置くか、そんなもの」

「違うよー。香水だって」

「いや、どう見ても固体じゃないか。むしろスティックのりに見えるぞ」

「練り香水だよ。そんなに保たないし香りも強くないけど、このくらいなら使えるし。ほら、うちの学校って校則で香水禁止じゃん?」

「そうなのか? 知らなかった」

「……羽原ちゃん、あんまりお化粧とかお洒落とか、興味ないタイプ?」

「こんなものパーツクリーナーですぐ飛ぶ」

「そう言わずにつけてみんさいって」

 えれなは、紅子の買い物かごを持っていない方の腕を取り、手首にその香水を塗った。見た目はやはりスティックのりの類にしか見えず、紅子は首を捻らずにはいられなかった。えれなの指は冷たかった。

 促され、手首を鼻に当ててみる。紅茶とシトラスの混ざった、甘く華やかな香りがした。

 感心していると、えれなは満足気に笑った。

「うちら女の子なんだからさ。女の子にしかできないこと、目一杯楽しみたいじゃん?」

「また役割性だな。感心しない。だが」もう一度手首の香りを確かめてから続けた。「悪くはないな」

「でしょ?」

「馬場ちゃんは詳しいんだな、こういうの」

「そうでもないよ。あたしだって、愛梨とかに教わったのが大半だし」

 心の中で、無邪気なえれなに詫びた。

 かかった。

「報田さん、そういうの詳しそうだよな。結構高くつきそうだが」

「んー……バイトしてるって言ってたし。それじゃないかな」

「馬場ちゃんはバイトとかはしてるのか?」

「あたし? してないけど」えれなは少し目を伏せて、サンプルの練り香水を棚に戻した。「今度、一緒にしようって誘われてるんだ。実は」

「どんな仕事なんだ?」

「えっと……わかんないけど、割がいいって愛梨言ってた」

 嘘だな、とすぐにわかった。

 紅子は軽い目眩を覚えた。

 馬場えれなは、報田愛梨が一緒にしようと誘った、秘密のバイトの内容に勘づいている。

 そして勘づいていながら、断れないでいる。

「あのさ、馬場ちゃん」紅子は悟られぬよう深呼吸して続けた。「女子高生がする割のいいバイトって、それ大丈夫なのか?」

「え。なんそれ。大丈夫だよ」

「報田さんはどこでそのバイトを?」

「えっと……お母さんの紹介とか言ってたかなあ」えれなは目を瞬かせた。なぜそんなことを訊くのかと、疑問に思っている様子だった。

 これ以上踏み込むのはまずいと感じた。だが、これまで掴めていなかった情報だった。

 母親。

 報田愛梨の両親は最近再婚した。彼女は母親の連れ子で、父親とは血の繋がりがない。

 憶測、あるいは推理――報田愛梨は〈A〉というアカウントを使って売春組織を構築するような秘密のバイトをしており、その裏には実の母親の教唆がある可能性。

 何か、言わなければならないと思った。

 えれなを思い留まらせるための言葉。彼女自身が納得しているにせよいないにせよ、人間関係を壊さないことを優先するあまり売春に手を染めるなど、愚かにもほどがある。だが人間関係よりも大切なものは、あの教室にいる限り、ない。紅子にはロボット研究会があり、片瀬怜奈にはあの少年がいた。だがえれなにはきっと、それがないのだ。

 それでも沈黙には抗えなかった。おかしな間が疑いに変わる寸前に、紅子は言った。

「まあ、君が納得しているなら構わんが」

 違う、違う、違うと、紅子の心の中で誰かが叫んでいた。

 そんなことを言いたいのではなかった。〈WIRE ACT〉と共に課せられた使命は、目の前の悪行を止め、望まずして黒の側に足を踏み入れようとする人を白の側に引き戻す、灰色の役割だ。ネットワーク回線の先にある人の心を暴き、サイバー犯罪手段を用いていいことをする、探偵と怪盗の中間にある存在だ。にもかかわらず、今この場で告げるべき言葉が、紅子にはわからなかった。

 馬場えれなが、本当に望んでいる言葉。

 レジの方へ歩いていこうとするえれなに、紅子は言った。

「私は君の味方だ」

 えれなは振り返った。ふたつ縛りの髪が跳ねた。「どしたの、急に」

「いや、その……友達、という意味だ。嫌なこととか、許せないこととかあったら、私にも相談してくれ。力になれるかもしれないし……いざとなったら助けに行く。WIREひとつで駆けつける。絶対だ。だから……」

「もしかして、あたしのこと心配してくれてる?」

「いや、まあ」紅子は首筋に手を当てる。まとまりきらなかった後れ毛が鬱陶しかった。「そういう意味だ。ごめん。私は口が下手なんだ。内藤にも笑われる。部長は対人経験値が低いんだからとか、あの馬鹿……」

「ありがと。でも大丈夫だよ」

「そうか。だよな。忘れてくれ。変なことを言った。だから私は友達が少ないんだ。ごめん」

「あたしは大丈夫だから」えれなは笑った。

 その微笑みは、夕焼けに染まる教室で彼女が見せた表情によく似ていた。

 買い出しを終えて学校に戻ると、委員長の遅い、という叱責が待っていた。

 〈A〉から、堂林幸一郎のアカウントへ日時を知らせるWIREが飛んだのは、それから三日後のことだった。

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