1-4 サウロン、Insecam、呪われた歩道橋
九月。夏の盛りが終わり、秋の足音が聞こえ始める頃。出歩くには絶好の季節で、その週末も晴れだった。
「さて、我が街探索といこうじゃないか、内藤くん」
「それはいいんですけど、部長」山歩きのエッセンスだけをいいように取り入れた街歩きといった出で立ちの内藤翼は、紅子の爪先から脳天まで無遠慮に視線を往復させた。「なんなんですか、その服」
「文句あるか」
「文句というか……意外というか、派手というか……歯の衣を取っ払っても?」
「構わん」
「お母さんがお洋服を選んでいる小学生みたいですね」
「うるさいな、私の母は娘の服装に支配的なんだ」
「思想面では抵抗しているんでしょう?」
「服装面では私の中に抵抗するための武器がないんだ」
「ダサいことへの危機感は?」
「セクハラだぞ」
「僕は自分らしくお洒落で美しい女性の味方なんです。僕は部長の味方になりたい」
「余計なお世話だ」
「じゃあ行きましょうか。自分らしくお洒落で美しい少女の私生活を暴きに」翼は携帯を手に、意気揚々と歩き出した。
音屋礼仁教諭により図らずももたらされたヒント。紅子と翼はまず、街の中にあるハッキング容易な監視カメラをマッピングすることから始めた。
少し調べると、ネットワーク上から容易に不正アクセス可能な監視カメラを世界中から無差別に収集した、覗き魔御用達のウェブサイトを見つけることができた。そこから地域で絞り込みをかけると、烏丘高校の通学エリア内だけで三〇近い数のカメラがいつでもどこでも、ネットワークに繋がる端末さえあれば、プロテクトなしで覗き見できることが明らかになった。
さらに調査を進めると、それらのカメラの多くは二〇二〇年前後に設置されたことが判明。都からの助成金で設置した旨が記された記述も多く見つかった。
だが、それだけでは不十分だという見解で紅子と翼は一致。足を使って、ふたりの目となるカメラを探索することにしたのである。
ふたりの待ち合わせ場所は烏丘高校の北側の最寄り駅前。絶対に監視カメラがある場所からスタートである。
そしてもちろん、丸腰ではない。
「さてさて、〈炎の目〉のお手並み拝見です」翼の携帯の画面で、目を象った炎のおどろおどろしいシンボルが立ち上がる。海外の物好きなハッカーが作成した、汎用監視カメラ侵入ツールである。
探索範囲内でネットワーク上に公開状態になっているカメラや、致命的な脆弱性が明らかになっているカメラを発見すると自動で遠隔監視リストを作成する優れものである。価格は一〇ドル程度。デフォルトで提供されているのはあくまで公開状態、あるいは既に脆弱性が明らかになっているカメラへの侵入機能だけだが、使用者が容易に改造、機能追加を行うことができた。つまりホワイトハッカーが世間への警告のために作成したという体で、その実ブラックハッカーが各々の目的のために使用することを想定したソフトウェアなのだ。
〈炎の目〉という名前は著名なファンタジー小説に登場する悪役の姿に由来する。いかにもあちらのギークが考えそうなことだった。
「そもそも本当にホワイトならマネタイズしないからな」と呟きつつ、紅子はマシンパワーの強いタブレット端末で複数のアプリケーションを立ち上げる。
これらは〈炎の目〉とは違い、まだ既知ではない脆弱性を秘めたカメラを対象としたソフトウェア群だった。捉えようによってはゼロデイ攻撃である。支払いは仮想通貨のみ。入手元もよりダークな領域だが、価格が一〇〇ドルを越えることはなかった。
ネットの水面下に出回っているありとあらゆるツールをホワイト、ブラックの区別なくかき集めれば、より多数のカメラに侵入することができるだろう。だが時間と手間と監視に割ける人手と、何より金銭面の限界があった。紅子も翼も裕福な家庭の育ちだったが、自由にできる金が無限にあるわけではなかった。
それがわざわざ足を使う理由でもある。
烏丘高校の生徒が立ち寄りそうな場所や学校周辺の飲食店や商業施設、主な通学経路に対象を絞り、かつ完全なマッピングは行わずに、道行く人が思わず振り返るほどの美少女ひとりのために、カメラの設置アングルまで考慮した最低限の包囲網を構築するのである。
その北側の駅前だけで六つの監視カメラに侵入することができた。互いの戦果を確認しあい、南側の最寄り駅へと通じる路線バスに乗り込む。
烏丘高校の立地は中途半端であり、都内でありながら南北の駅からバス通学が推奨されている。自由な校風からバイク通学する生徒もいた。
走る間も監視カメラのハッキングは継続する。民家やロードサイドの飲食店のカメラが次々と引っかかる。まさに入れ食い状態だった。外車の正規取扱店入り口に設置された防犯カメラまで拾えた。
烏丘高校前のバス停で降りず、そのまま乗車し続ける。
妙に通学しづらい割には進学実績がよいことも烏丘高校の特徴だった。名門と言われる他の都立高より偏差値は低いものの、生徒の質は悪くない。ろくでもない生徒ももちろんいるが、一方で、都内でも指折りの高級住宅地に比較的近いことから、並ではない良家の子女があっさり通っていて驚かされることもあった。
そういえば、と翼が口を開いた。
「片瀬怜奈のもうひとうの裏アカって、どんなのだったんです? 摩訶不思議って言ってたやつです」
思えば部室では音屋教諭の乱入で話が途中だった。紅子は携帯でそのアカウントを開きつつ応じた。「いや……摩訶不思議としか表しようがなくてな。ビルだ」
「ビル?」眉をひそめる翼。バス後方座席で隣同士に座った彼のそんな顔を見ていると、保護欲のようなものをかき立てられて妙な気分になる。学校の女子、特に上級生から人気があるのも頷ける気がした。その正体は小動物と言うより下半身駆動の小悪魔なのだが。
気を取り直して紅子は応じた。「ああ。ビルだ。主に週末、都内の近代建築の写真が延々と投稿されている。古民家のようなものや……高速のジャンクションもあったな。コメント無しで画像だけ淡々と並ぶものだから、人間味を感じなくてかなり不気味だ」
「ビル……片瀬怜奈が?」
「なんだ。私の調査を疑っているのか」
「そういうわけじゃないですけど。なんか彼女のイメージと違うっていうか」
「君がかの美少女にどんなイメージを抱いているか知らんが……私は、そんなに意外とは感じなかったがな」
「どうして?」
都心環状線に入ったバスが速度を上げた。
「……どうしてだろうな。なんと言うか、そう、片瀬怜奈には、どこか浮世離れしたものが似合うような気がしていてな」
「部長こそ、彼女にどんなイメージを」
「ピンボケしたイメージを定めるのが我々の目的だろう」
「自分で撮ってるんですかね。週末ってことは」
「さあな。だが軽く検索した限り、ネットで拾った画像の再アップロードなどではなさそうだった」
「それは好感度高いですね」
「なぜ」
「そりゃあだって、権利意識っていうか」
「ネットに一度アップロードしたものは共通知だと私は認識しているがな。私自身の振る舞いとは別のところで」
「部長ってそういうところ、オールドファッションですよね」
「縦文字で言え」
「カビの生えた価値観」と翼は言った。
忌々しいが、父の影響だと思った。
まるで位置情報ゲームのように監視カメラをハッキングし続けるふたりを乗せて、バスは首都高の高架を潜った。幹線道路同士の交差点でもあり、巨大な蜘蛛のような歩道橋が横断歩道の代わりに片側三車線の道路を繋いでいた。すぐ近くには、垂れ流される排気ガスと帳尻を合わせるような、広大な緑地があった。実に三九ヘクタール。その面積は都内でも指折りである。
「あ、今のところですよ」翼が身を乗り出した。窓際の席に座る紅子に覆い被さるようにして、外を指差した。「知ってます? 呪いの歩道橋」
「なんだそりゃあ。妖怪でも出るのか?」
「中学生が歩道橋から投身自殺したんですよ。落ちて、アスファルトに激突して、即死した後さらに避けそこねたトラックに轢かれて。そりゃもう地獄絵図だったらしいです」
「ほう。それで。夜な夜な高架下の暗がりにその中学生の幽霊でも出るのか?」
すると翼は紅子の耳元に顔を寄せた。「……血の痕がね、消えないらしいんです」
「清掃するだろ。車通りも多い。下らんな」
「いやいや、それが、清掃したはずなのに、定期的に血痕のような染みが現れるらしいんです」
「らしい、らしいって、エビデンスを元に話せ。監視するか?」
翼は携帯に目を落とした。「ちょうどいいカメラがないです。部長の方は?」
「残念ながら、私の方も」
「……怖がらないんですね」
「非科学的なものは信じんよ。誰から聞いた?」
翼は空振り三振した高校球児のような顔で、女子生徒の名を口にした。同級生だった。裏アカ探しのために名簿を睨んでいなければ、覚えていない程度に紅子とは関わりのない生徒だった。
それからバス通り沿いの監視カメラをひと通り収集。南側の学校最寄り駅前で降車した。
北側の駅は住宅街にひっそりと佇む地味な立地だが、こちらは繁華街だ。再開発された駅ビルには多数のオフィスが入り、一方で足元には個人商店が所狭しと軒を連ねる気安い商店街が広がっている。首都高速の高架と地下を走る鉄道。いつも渋滞している国道。都市のマイナスを街のプラスが打ち消しているようなこの街が、紅子は気に入っていた。
ビルに入り、OSINTの原理で公式サイトからエクセルファイルやPDFファイルを検索すると、見事に外部からアクセス可能な領域にネットワーク監視カメラの一覧が存在していた。紅子と翼は互いにほくそ笑み、すべて入手した。
ひと通り商店街を探索し終えた頃には日が傾いていた。もうすぐ秋分だった。
「この後どうします?」と翼。別にどうかしたいわけではなさそうだった。
紅子は、駅前駐輪場を指差して応じた。「ここにバイク停めてるから。帰って監視対象のカメラを絞り込むよ」
「例のスクーターですか」
「まあな」
紅子も烏丘高校に少なくない二輪車通学者のひとりだった。卒検時に満一六歳になるよう自動車学校へ通い、免許が取れる年齢になって即、自転車から切り替えたのだ。愛車はブロックタイヤとそれらしいパーツでスクランブラー調にカスタムしたスクーターだった。スポーツバイクではないが、自分ではバイク、と呼んでしまっていた。
「気をつけて。そろそろ慣れてくる頃でしょ。そういう頃が一番事故るんですから」
「ハンドルを握ったこともないくせに、よく言う」
「お元気な部長とまたデートしたいですから」
「君は誰にでもそういう思わせぶりな物言いをするのか?」
「まさか。部長にだけですよ。……それじゃ」
片手を挙げ、翼は地下鉄の入り口へと消えた。食えない男だった。
紅子は駐輪場へ向かい、そろそろとバイクを押し出し、ジェット型のヘルメットを被って環状線に乗った。ちょうど、来た道を戻る格好だった。
片瀬怜奈について、翼には伝えていないことがいくつかあった。
教室の上位にいる女子のグループに、彼女はあまり好かれていなかった。WIREに裏グループがあるだけではなく、その裏グループでは、毎日のように彼女の噂話が交わされていた。使っていたハンドクリームが高級品であること。ペンが製図用であること。誰かの彼氏に色目を使った。あの顔なら男には困っていないし化粧品も買わせているに違いない。母親は芸能人だから顔で男に取り入るのは親譲りの上手さ。年上の男に貢がせている下らない女――。
もちろんすべて、エビデンスのない推測の積み重ねだ。そうやって盛り上がって溜飲を下げる連中に心底腹が立った。そして片瀬怜奈を取り巻く下世話なパートは、翼には見せたくないと思った。
ワイヤードの裏口を得るとは、人の心の裏側を覗き見ることと同義だ。監視カメラとはわけが違う。今はまだ、それを他人に気安く背負わせるべきではないということしかわからなかった。
一二五ccのスクーターで車の流れに乗り、環状線を北上する。
やがて、翼が語った呪いの歩道橋へと差し掛かった。眼鏡の上からゴーグルを着けた目線をふと上へ向け、歩道橋から行き交う車をじっと見下ろす人影に気づいた。
長い黒髪が風に遊んでいた。一瞬だったが、見間違うはずがなかった。
片瀬怜奈だった。
歩道橋を通り過ぎ、バックミラーで後方を伺うも、角度が悪かった。なぜここにいるのか。ここで何をしているのか。
その時、前方の路面の異常に気づいた。
アスファルトの上に点々と散らばる赤。
血痕だった。
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