2-12 グレイハッカー part2
集中しろ、と紅子は自分に言い聞かせた。
どの時間も車が絶えない都心の道を走るのに最も適した乗り物である125ccのスクーターで車列をすり抜ける。それでも到着までに二〇分ほどかかった。駐車場には既に例のドイツ車が停まっており、堂林の位置情報を示すマーカーは既に建物の中だった。
建物の裏手にバイクを停める。えれなの携帯から盗聴アプリを起動しつつ、同時にPCをネットワークに接続して、建物の統合監視システムに感染済みのマルウェアを起こす。
SX-netと呼ばれるマルウェアである。
SCADAとそこに繋がるPLCを標的としたプログラムであり、その存在が世に知られたのは二〇一〇年に遡る。イランの核処理施設の産業用制御システムに感染し、ラダープログラムを書き換えることでウラン濃縮用の遠心分離機を停止させたのだ。当時はシーメンス社のPLCを標的としていたが、現在ではより改良が進み、日本国内で汎用される三菱製に特化した攻撃能力を有するものも存在する。当時はstuxnetと呼ばれていたが、現在は縮まってSX-net。生産設備のスマート化・IIoT化に伴い活躍の場を広げ、北朝鮮や中国、ロシアの国家機関製と思われる派生ソフトも数多く出回っていた。
そして紅子が手に入れたのは、スマートビルディングを標的とした最新の改良派生型である。遠隔制御でリアルタイム書き換えを行うことができ、電気制御の知識とPLCに合わせた標準のシーケンサエンジニアリングソフトがあれば、スイッチをオンオフする感覚で、統合監視システムに接続された機器を外部から操ることができる。
〈ホテル・キャナリークライ〉はありとあらゆるシステムを同じ統合監視システムに一元化しており、紅子のPCから入室時刻や部屋の埋まり具合まで閲覧できた。システムの先進さに比べてGUIは稚拙だった。複雑さのあまりデザインセンスのないソフトウェア技術者がそのまま作っているからだと知れた。
だが使いやすさは抜群だった。膨大なプログラムの中から、堂林と馬場えれなが入った部屋の制御を行っている部位を探し出す。事前に山井からある程度構造を教わっていたため、要した時間はものの数分だった。
盗聴アプリから会話が聞こえた。
「制服は持ってきてくれた?」堂林の声。
「はい。一応」
「じゃあ着替えてみようか」
「え……今ですか?」
「そう。見てるから。下着は着けなくていいからね」
ええー、そんなあ、恥ずかしいとえれなは繰り返す。
えれなが抱えていたやけに大きな鞄の中身を知り、紅子は舌打ちする。
押し問答の末、着替えは堂林がシャワーを浴びている間になったようだった。
チャンスは今だけだった。
紅子は背負ってきたクァッドコプター型のドローンを広げ、手動制御で立ち上げた。今回のミッションに応じた改造を施した特別版だ。翼のサポートが欲しかったが、彼からの連絡はなかった。無事を祈る他なかった。
部屋への温水の供給を確認し、紅子は意を決した。
空調室外機が轟々と呼吸する建物背面にドローンを飛翔させる。目指すは三階の四号室。そして同時に、えれなの端末へWIRE通話をかけた。
一コールも待たずに彼女は電話口に出た。
「羽原ちゃん? どったの?」
「唐突で悪いが聞いてくれ。君は今、望んでそこにいるか?」
「え? 何言ってるの? あたし……」
「そんな男と寝たいのかと訊いているんだ! 自分を犠牲にしてまで守る人間関係か? 報田がなんだ、荒木がなんだ、君にそんなことをさせるやつが友達か。違うだろう!」
えれなは戸惑ったように少し沈黙してから応じた。「羽原ちゃんにはわかんないよ」
「うるさいっ! 驕るな! そう思うのは君の世界が狭いからだ!」
「は? なにそれ。勝手なこと言わないで!」
「勝手なのは君だ! 窓を開けて、下を見ろ」
「窓って……」
「いいから!」
電話口のえれなが悲鳴を上げた。無理もなかった。突然窓が向こう側から叩かれたのだ。
紅子はストーキングドローンに圧縮空気駆動のピストン機構を移植していた。先端にはグローブを装着。すなわち、遠隔窓殴りドローンである。
恐る恐る窓が開き、前がはだけた制服のえれなが姿を見せた。目と目が合った。
紅子は言った。
「迎えに来たぞ。さっさと降りてこい」
「どうして……」
「友達だろう。私はそのつもりだ」紅子は、携帯を片手にしたえれなを見上げて言った。「君は……違うか?」
言葉にして、自分はえれなのことを友達だと思いたいのだと紅子は気づいた。
親愛の情を正直に言うとは自分の弱みを見せるのと同じだと思った。言った瞬間に激しい後悔に苛まれた。もしも違うと言われたら。お前のことなどどうでもいいと言われたら。昨日まではどうでもよかった教室は、心底居づらくて逃げ出したい場所に変わるだろう。
もっと上手な言い方があったのではないか。内藤翼ならもっと後戻りの効く言葉を使えたのではないか。見上げる自分の瞳が不安に染まっているのがわかった。夜の暗がりが何もかもを覆い隠してくれることを祈った。
えれなは一度目を逸らし、それから携帯を下ろして地声で叫んだ。
「違わないよ、羽原ちゃん!」
その笑顔に、紅子はすべての不安が報われたことを知った。
「よし!」応じた声が裏返っていた。「よしよし! 君が部屋を出たらこちらの操作で一〇分間、部屋の扉をロックする。その隙に……」
「おっけー!」
室内へ戻るえれな。紅子は携帯を片手にPCに一度目を落とし、もう一度見上げる。
荷物を抱えたえれなが窓から身を乗り出していた。
「はああ!? 馬鹿か君は! 部屋はドアから出ろ!」
「大丈夫大丈夫!」
「どこが! 戻れ!」
「落ちたら受け止めてね」
「断る。落ちないために全力をを尽くすのが正しい技術者の態度だ」
「えー、薄情」
「情でロバストネスは買えないんだよ!」紅子はドローンの下部に懸架させていた照明を灯した。
照明を頼りに室外機やダクトを伝い器用に降りてくるえれな。その様を心拍数高く見上げていた紅子は、我に返ってホテルの統合監視システムの画面を操作する。
すると破裂音とともに目の前の建物から発せられる音が変わった。
「あ、しまった」紅子の顔が引きつる。「これは間違えたな」
「えー! 暗いー! 見えない!」
えれながドローンへ手を伸ばそうとするので紅子は携帯を離して怒鳴る。「馬鹿! 七〇〇〇rpmだぞ、君の指が飛んでも知らんがそのプロペラは高いんだよ!」
「なんで暗いの!」
「すまん、スイッチを間違えて電源が全部落ちた」紅子はPCの画面に顔を寄せる。軽度異常による全館一時停止だった。「……ブレーカーは生きてるからすぐ再起動できるな。こっちか」
今度は紅子の意図通りに電源が復旧し、空調室外機の轟音が再び路地裏に響き始める。そしてえれなのいた部屋のドアがロックされた。タイマーは一〇分。
えれなはもう目の前だった。手を伸ばして荷物を受け取り、飛び降りたえれなを抱き止める。勢いに負けて背中から倒れた。
紅子に馬乗りになったまま、えれなは言った。「あー、やっちゃったな……」
「気にするな。呪いが解けたと思え」
「え、でも明日どうしよ。愛梨絶対怒る。あー……」
「あの女なら私に任せておけ」
「……本当に?」
「本当だ」
「本当の本当に?」
「こう見えて私は他人の弱みを握るのが得意でな」そこまで言って、紅子は目の前のえれなから顔を背けた。「まあ、友達は減ってしまうな。すまない。代わりが私では不満かもしれないが」
するとえれなは身体を倒して顔を寄せた。えれなの解いた髪が紅子の頬に触れた。
紅子は、目線だけでえれなを窺う。真顔だった。
えれなは言った。
「ねえ羽原ちゃん」
「なんだ」
「ちゅーしていい?」
頭が凍った。
さっそく唇を尖らせて目を閉じるえれなを、紅子は慌てて押しのける。
「駄目だ駄目だ駄目だ! なんなんだどいつもこいつも!」
「けち」
「私は安くないぞ」
「じゃあハグして」
「……それくらいなら」
やった、と声を上げて抱きついてくるえれな。髪からのシャンプーの匂いに混じって、覚えのある香りがした。紅茶とシトラスの混ざった、甘く華やかな香り。買い出しの時にえれなが手に取っていた練り香水だった。
この匂いに包まれるのが自分でよかったと紅子は思った。
「ところで羽原ちゃん」
「なんだ」
「どいつもこいつも、って何かなあ」
「はああ!? どうでもいいだろうそんなことは!」
「もしかして内藤くん?」
「いいから逃げるぞ」紅子は立ち上がって服の埃を払った。「タンデムは初めてだ。コケないことを祈ってくれ。多少グレイだが気にするな。私のすることはなんでもグレイだからな」
「ふたり乗り?」
「そうだ」
「バイク?」
「不満か。置いていくぞ」
「いや、あのね」えれなは制服のスカートの辺りを抑えた。「ちょっと、都合が悪いっていうか」
「なんだ。見えるくらい気にするな。減るもんじゃなしに」
「忘れた」
「何を」
「パンツ」
「はあ」
「部屋にパンツ忘れた」
「はああ!?」
「だって脱いどけって言われたんだもん!」
今にも泣き出しそうな顔のえれなに、紅子は「阿呆!」と叫ぶことしかできなかった。
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