2-13 対決

 警察と人目を避けた夜半のタンデム走行。腹を抑えながらもなぜか得意気な内藤翼との合流とハイタッチ。そしてあらかじめ仕込んでおいた反撃の一手の起動。夜は飛ぶように過ぎていった。

 そして翌朝。

 文化祭用に飾りつけられた校門のところで鉢合わせた翼は、見るからに寝不足。そして全身から湿布の匂いを漂わせていた。

「いや、死ぬかと思いました」

「よく生きて帰ってきたな」

「部長のおかげですよ。例の外車窃盗団のマルウェアの、バージョンが古いやつで、わざと駐車場中の車の防犯装置を作動させたんです。お陰様で貞操を守れました」

「貞操……?」気になったが、追求しないことにした。「身体を張った時間稼ぎに感謝するよ」

「もうちょっと感謝してるっぽく言ってくださいよ」

 聞こえるように舌打ちして、紅子は話題を変えた。

「顔を殴られなくてよかったな」

「いや、殴られた方がよかったかもしれません」

「女装の関係か?」

「ええ、女装の関係で。神はどこまで僕を試すのでしょう」

「その小生意気な口を閉じるまでだろう」

「腹を括ることにしますよ。主は越えられない試練は与えませんから」

「仏に縋りたくなったか?」

「いえ、僕、クリスチャンなんです。ローマ・カトリック。言ってませんでしたっけ?」

 聞いてないが、と紅子は応じる。相変わらず謎の多い男だった。

 まだ当日ではないにもかかわらず、既に校内はお祭りムードだった。壁には企画展の案内。模擬店のビラ。生徒が手作りした看板の類が廊下のそこかしこに積み上げられている。生徒会が張り出したらしい案内では、企画人気投票や校内美化への協力要請に並んで、烏丘祭2026というタグをつけてWIREのパブリックラインへ写真を投稿するよう促していた。

 そして教室の前の廊下で敵が待ち受けていた。

 報田愛莉。荒木まさみ。

 オールドファッションという意味では、通じ合えるところもあるかもしれない、とふと思った。報田の、ボリュームのある明るい色の髪を改めて見ての感想だった。こういうファッションはかつて一度流行し、一度滅んだのだと聞いたことがあった。だが書店に並ぶティーン向けファッション誌の表紙を流し見る限り、むしろ報田の方が今の最先端らしい。流行を作る誰かがこれを最先端だと規定したのだろう。

 報田が一歩前へ踏み出した。値段はともかく苛立ちを掻き立てるタイプの香水の匂いがした。趣味に合わないのは翼も同じらしく、彼も眉をひそめていた。

 報田が何か言おうとして口を開く。それを塞ぐように、紅子は言った。

「お客様からのクレーム対応に大忙しか?」

「お前、何した?」

 息を吸い込み、ひと息に言った。「ただのランサムウェアだよ。〈A〉が管理する男たちほぼ全員の端末が感染したはずだ。ただ内部のファイルを暗号化するだけじゃない。金を振り込まない限りネットカフェでの盗撮映像が無限に流れ続ける優れものだ。音声はスピーカを切断しない限り最大になる。携帯端末だと厄介だぞ。おかげさまでひと晩で一七〇万円ほど稼がせてもらった。目標金額達成だ。ちょっと支払いの必要があってな」

 これこそが、紅子と翼が仕込んだ逆襲の一手だった。

 PCや携帯端末の内部ファイルを暗号化し、そのファイルを人質に取って身代金の支払いを要求するランサムウェアは二〇一〇年台後半から現代に至るまで猛威を振るい続けている。紅子らが使ったのはその派生版で、ポルノ映像を再生し続けることで、社会性を守るために身代金を支払わざるを得ないよう端末の所有者を追い込むのである。ソフトの生まれ故郷は日本であり、このソフトに映像を無断で使われたアダルトビデオやゲイポルノ映像の売上が急上昇する、男優が動画サイトのスターになるなどの影響をもたらした。

 紅子らはこれに更にひと工夫を施した。感染先に応じ、可能な限り、その男が買春したと思しき少女の映像に差し替えたのである。平田颯介の宝箱を破ったことで、材料はいくらでもあった。

 そして感染した端末は男たちのものだけではない。

「報田さん、今日ケータイ持ってきてないでしょ? 調子悪いよね。診てあげようか」翼が口を挟む。

 報田の額に青筋が浮かんだ。彼女の携帯も感染済みなのだ。

 何か言い返してくる前に畳み掛ける。「お前がそこから一歩でも私に近づくならクラスWIREに荒木の映像を流させてもらう。言っておくが、映像は偶然ネットで拾っただけだ。もちろん私は平田颯介なんて男は知らないし、あんなネカフェなんか行ったこともない。ところで荒木さん。どうも判然としなかったから教えて欲しいんだが、君、撮られていることを知っていたか?」

 上背のある荒木が数秒、紅子を見下ろし、それから報田へ向き直った。

「おい愛梨、撮ってたって、どういうこと?」

 紅子は一歩前へ出る。「報田愛梨。お前のことはひと通り調べさせてもらった。元水商売で病気持ちの母親と義理の父か。その母親は夫に見放されたくないあまり娘に金を稼がせようと画策したわけだ。お前が〈A〉を介さず取引している男がそれだな。だがお前は平田颯介と知り合ったことでビジネスの拡大と、親に持っていかれない金を作ることを思いついた。親の支配から逃れたいのかな。それともあるいは……母親は、お前自身を夫に差し出したか?」

 唸るような声で何か言って目を見開き、掴みかかろうとする報田。紅子は咄嗟に一歩下がって携帯の画面を示して制する。

 登校してきたクラスメイトが、珍しい組み合わせを訝しむような目線を向けながら教室へ入っていく。

「何が望みだよ」と報田は言った。

「貴様が管理する三五人は全員がすべて納得済みだったのかな。馬場えれなのように半ば強制的にビジネスに組み込んだのは内何人だ?」怯むな、と自分に言い聞かせ、紅子は報田の、濃いめのアイラインが引かれた目を睨み返した。「端的に言うなら……私のような物好きもいるというだけだ。この世に悪のある限りな」

「そうは言っても僕らは報田さんたちと和解したいんだよ」翼がいけしゃあしゃあと後を継ぐ。「こちらのカードは映像を流出させないことと、あなたが作ったスキームについて一切口外しないこと。それに僕の怪我について、階段から落ちたってことにすること」

 なんとか言えよ、と横から食ってかかろうとする荒木を無視し、報田が応じた。「そっちの要求は?」

 紅子はほくそ笑む。

 刑事罰を与えたいわけではない。それは警察の仕事であって、〈WIRE ACT〉を手にした者の使命ではない。

 たっぷり数秒、沈黙のプレッシャーを与えてから応じた。

。私の要求はそれだけだ」

「申し訳ないんだけど」と翼。「報田さん。断ればあなたの家庭、交友関係、すべて破壊できるだけの素材が僕らにはある。まあご覧の有様の荒木さんはともかく、平田さんとも決裂だろうね。森野さんは、たぶん他の友達とあっさりよろしくやっていくと思うよ。……ナイフで刺されないようにだけ注意しましょうね、部長」

「こいつ個人は反社会的勢力との繋がりは薄いからな。怖いお兄さんが襲ってくることもなかろうて。そうなれば、恐らく何も知らないだろうこいつの父親にタレ込むまでさ。……まあそういうわけだから。考えておいてくれたまえよ、報田愛梨さん」

 呆然としている報田の横をすり抜けざまに、紅子はもうひとつ、付け加えて言った。

「私の勝ちだ、報田愛梨」

 教室へ入る。いつもと同じ光景が広がる。八割方が埋まった朝礼前の教室。男子が全開にした窓から吹き込む風で迷惑した女子生徒が抗議している。人目を忍ぶように背を丸めてイラストのついた本を読む男子。数人で固まって益体もない話を延々と続けている女子のグループ。何が楽しいのかロングヘアのかつらを被り、教壇で滑って遊んでいる数人の男子。片瀬怜奈が風のせいで髪が乱れて迷惑そうな顔で携帯を弄っている。

 廊下から言い争う声がして、程なくして報田の方がどこかへ走り去っていく。

「ひとまず、上手くいきましたかね」と翼が言った。

「さあな。まあランサムウェアは囮で、ネットバンキングやチャージされた電子マネーを上限五パーセントで掠め取る方が本命だ。資金洗浄で忙しくなるぞ。とりあえず六つほど暗号通貨を介すつもりだ。投げ銭サービスの規制緩和様々だな」

「報田の親のこと、どうやって知ったんです?」

「断片的な情報から仮説を立てて、報田本人、母親、父親のWIREへの投稿を分析した。正確ではないかもしれないが、あの様子だと当たらずとも遠からずだったんだろう」

 荒木が教室へ戻ってくる。一瞬だけ紅子へ視線を向けて舌打ちすると、そのまま自分の席へ着く。

 その直後に、今度は馬場えれなが現れた。報田とすれ違ったのか、見るからに怯えた顔で視線を右往左往させていた。そして紅子を見つけると、顔に喜色を浮かべた。

 紅子は人差し指を立てて唇に当て、翼が拳に親指を立てる。それで伝わったらしく、えれなは手を合わせて会釈すると自席へと向かった。

「ひと言、いいですか」と翼は言った。

「好きにしろ」

「部長って性格悪いですよね」

 紅子は灰色の笑顔で応じた。「そんなことか。何を今更」

 週末からは文化祭だった。

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