2-7 不愉快な出来事

「状況を整理しますよ」と内藤翼は言った。「〈A〉経由の援交予約と思われるWIREが再び発信された。日時は今日」

「そうだ。唐突にだ。〈A〉から日時だけが飛んだ。これが意味するのは……」

「〈A〉は、〈A〉以外のアカウントを使って男と少女と事前の段取りを整えているということ。どこかに別のリストが存在すること。これらは確実ですね?」

「君は頭が回るから説明が短くて助かる」

「褒めていますか?」

「ああ。褒めているぞ。今回はな」と紅子は応じた。

 紅子は風邪用のマスクを着け、いつも後ろで結んでいた髪を解いていた。一方の翼はウェリントン型の大きな黒縁眼鏡。下手なりの変装を強いられているのには理由があった。

 駅から少し離れたところにある、一階部分が壁のない駐車場になっているファミリーレストラン。その立地から、昼間は主婦や高齢者の集会場として、休日は家族連れで賑わう店舗だ。紅子と翼は放課後一旦帰宅し、私服に着替えて合流。ふたり連れ立って入店した。

 一九時。店内は、混雑というほどではないが空いてもいない。目的に最適な席が空いていたのは幸いだった。

 四人がけのボックス席に座り、目立たないよういつもよりも小型のPCを開く。

 ドリンクバーのない比較的高価格帯の店。紅子はコーヒー、翼はメロンソーダ、そして互いに目立たない程度の軽食を注文し、今回の標的の様子を窺う。

 その標的のひとりは、まだあどけなさが残る、中学生くらいの女の子だった。年上に見えるようなメイクや、肩の出た服が、却って年齢を際立たせているように見えて、紅子の目には痛々しく映った。鈴木瀬良すずきせら、という名前だった。セミロングの髪を片耳が出るようにセットしていた。これもきっと、実年齢より年上に見られるための努力に違いなかった。

 そして鈴木瀬良の隣に、報田愛梨がいた。

 リング型USBメモリを挿したPCを睨み、紅子は声を抑えて言った。「調べがついた。中三だな」

「嘘でしょ。僕らより年下ってことですか」

「そうだ。Seraというアカウントを使い、以前にパブリックラインで援交募集と投稿していた。だが今回は〈A〉経由だ。援交自体は初めてではないのだろうが、〈A〉のスキームからすると、イレギュラーだ」

「そして報田です。なぜ彼女がここに?」

「二輪車というやつかもしれないが……」

「報田は既に、僕らの想定している〈A〉のスキームから外れた存在です。ならそこから、まだ僕らに見えていない仕組みの一端が見えるかもしれません」

 ここで得られた情報次第では、推測が根底から覆るかもしれない。〈A〉の正体を平田颯介と仮定した際に残る多くの矛盾を解決できる可能性に賭けて、遠隔ではなく直接の監視を選択したのである。しかし報田とは仮にも同級生。慣れない変装を強いられた理由だった。

 鈴木瀬良は落ち着きなく携帯を弄っていた。一方の報田は落ち着いたもので、頬杖で隣の瀬良と何か言葉を交わしていた。紅子は、報田の方に仕込んだ盗聴アプリを遠隔で立ち上げた。するとやや遠いが、ふたりの会話が聞こえた。

「でも愛梨先輩すごいですね」

「お前だって捕まりたくねーだろ。うちらのやり方なら警察が来ることもない。絶対安全だから」

「でも……本当なんですか? その……」

 ごにょごにょと、何か言い淀む音が聞こえた。

 翼が「先輩後輩なんですかね? 中学の」とWIREした。

 紅子はそれには応じず、聞き耳を立てた。だが、報田愛梨と鈴木瀬良が交わしている会話の内容は聞き取れなかった。

 嘘ぉ、と瀬良の方が声を上げた。そして中身のない、驚きと確認の言葉をふたりは繰り返す。騒がしさが気に障ったのか、紅子らのすぐ隣の席にいたサラリーマン風の男性がこれみよがしに舌打ちした。

 知った風に振る舞う高校一年の先輩と、彼女に懐いている後輩。傍からでは、どこにでもある、ありふれた、普通の光景にしか見えなかった。だが紅子は、荒木まさみを買った會澤昇一の姿を目にした時のことを、思い出さずにはいられなかった。彼も、一見すると普通の、どこにでもいる男性にすぎなかった。高校一年の女子生徒に金銭を渡してみだらな行為に及ぶような、異常な行動に出る人間には見えなかった。あるいは世の男はみな、少女への劣情を心の中に飼っているのかもしれない。そういう意味では、會澤は真実、普通の男なのかもしれない、と紅子は思った。

 何を嘘だと思ったのか、何がありえないのか、何がマジでキモイんですけど、なのか。鈴木瀬良の首根っこを掴んで問い詰めたい衝動に駆られたが、抑えるだけの分別を紅子は身に着けていた。

 すると翼が、かけ慣れない眼鏡のつるに触れながら、小声で言った。

「来ました。堂林幸一郎です」

 堂林幸一郎。五二歳。神奈川県横浜市保土ケ谷区在住。妻と子供ふたりの四人暮らし。髪の薄い、頬の垂れた中年の男だ。横浜市にある私立の中高一貫校の校長だった。表のアカウントでは、日々教育論のようなものをパブリックラインへ投稿しており、それなりにフォロワー数も多かった。WIREを見下しているようなところもあり、Facebookの方により長い、論考にしては穴の多いテキストを投稿し続けていた。こちらもそれなりにいいねを稼いでいた。著書もあるようだが、あまり売れている様子はなかった。

 自分が一廉の存在であると信じたい、どこにでもいる、普通の男。

 よりによって教育関係者だったことが、紅子を焦らせ、憤らせていた。子供を教え、導くはずの人間が、児童買春に手を染めているのだから。気味が悪かったし、怖気が立った。そして同時に、日々接している教師たちも、少女たちへの劣情を心の内に飼うありふれた男なのだと認めると、名状しがたい恐怖と嫌悪感に襲われた。

 PCに挿したリング型USBメモリを指先で撫で、こんなことは一刻も早く止めなければならないと、紅子は強く思った。止められるのは自分だけ、止めることが、父から〈WIRE ACT〉と共に与えられた使命なのだという思いが、紅子の心を黒く染めていた。

 表から重たいエンジン音が聞こえた。堂林は外車趣味の持ち主であり、ドイツの高級セダンと自分の写真をしばしば各SNSに投稿していた。

 程なくして、写真で見たのと同じ顔が店内に現れ、報田愛梨と鈴木瀬良と同じテーブルに向かい合わせで座った。

「パパ、おそーい」と報田が言った。

 それが何かの符牒なのか、周りに父子だと思わせるための演技なのか、紅子にはわかりかねた。翼は顔をひきつらせていた。報田の声があまりにも教室で聞くものとは違うせいだと容易にわかった。反吐が出そうなのは紅子も同じだった。

 忌々しさを堪えて、盗聴アプリから聞こえる会話に耳を澄ませた。

 周りに聞かれて通報されることを避けるためか、報田も堂林も父子という体で話していた。鈴木瀬良は言葉少なだった。まるで派手で活発な姉と、内気な妹のようだった。

 聞くにつれ、紅子の中に黒いものが溜まっていった。荒木の行為を目撃したときの虚無感と、片瀬怜奈を助けるために一歩を踏み出せなかった時の無力感が、練炭の煙のように紅子を息苦しくさせていた。報田愛梨など、気にする必要もない女だと思っていた。だが、甘えた声で年上の男に話を合わせる報田の言葉が連なり、鈴木瀬良がそれに同調し、堂林幸一郎が気分よさそうに笑うたび、紅子は店内にいるすべての人々に聞こえるように叫びたい衝動に駆られた。

 今そこで、児童買春が行われようとしている、なぜ誰も気づかず、止めてくれないのだ、と。

 そして報田がふいに発したひと言で、紅子の我慢は限界に達した。

「この子、今日が初めてなんです。優しくしてくださいね」

 紅子はマスクを着け直して携帯を手に席を立った。部長、と翼の声が追いかけてきたが、無視した。

 店外へ出て、駐車場へ向かう。手元ではあらかじめインストールしておいたマルウェアを起動した。

 Bluetoothを介して車のOBDに侵入し、電子制御へ介入することのできる、携帯端末用のソフトウェアである。SNSにアップロードされていた写真から車種・年式が把握できたため、事前に最適なマルウェアとその設定も含めた攻撃環境を構築しておくことができた。元はコネクテッドカーを標的とする高級車専門の窃盗団が開発したものだが、多くのブラックハッカーにより改良を重ねられたものがネット上に出回っていた。多数の人間の手が加えられることでソースコードからの追跡も困難になった代物である。

 車の脇に立ち、ごく単純なブルートフォースアタックがコードを破るのを見守る。ご丁寧に、進捗率が表示されていた。一三パーセント。なんの進捗を表しているのかはよくわからなかった。

 電話の着信が画面に重なった。翼からだった。応じずに切った。だがもう一度かかってきた。これも切った。進捗は一七パーセントだった。

 すると、両手に荷物を抱えて階段を降りた翼の姿が目に入った。彼も紅子を認め、駆け寄ってくる。

「荷物も財布も置きっぱなしで、何してるんですか」翼は肩で息をしていた。

「この悪行を止める」と紅子は応じた。「堂林の車だ。どこへ行くのか知らんが、まあどこかのラブホだろう。だが行かせない。安全機能を狂わせて、電子化されているブレーキ類をすべて無効にしてやる。途中で事故ってご破産だ。警察が来れば、堂林と同乗者の関係も問い質される」

「いや、部長。それは危険でしょう」

「危険? マルウェアから私に繋がるものは何もない。私は買っただけだからな。店内の様子はどうだ? もうしばらく座っていそうか?」

「今にも席を立ちそうだから来たんです」

「大丈夫だ。すぐに済む。我々に危険はない」

「危険ってのは、僕らのことじゃありません」翼は紅子の、マルウェアが走る携帯を持った手首を掴んだ。「堂林と鈴木ですよ。ブレーキが壊れた車で走らせるつもりですか。やりすぎだ。最悪死にますよ」

「何がやりすぎだ。連中に言え。こんなもの、黙って見ているわけにいくか」

「相手が悪いなら何をしてもいいわけじゃない! 部長、やっぱりあなたは冷静じゃない」

「それはこっちのセリフだ! それとも何か、売春も買春も好きでやってるんだから放っておけと?」

「そうは言ってません」

 進捗率が四〇パーセントを越えた。

「言ってるも同じだろう! そういえばこの一件、前から君は乗り気じゃなかったな。外面しか見ないんだ。だが私が暴きたいのは心だ。守りたいのも心だ。鈴木瀬良は今日が初めてだと報田が言ってた。どういう意味かわからんとは言わせないぞ」

「落ち着いてください」

「ごまかすな」

「堂林と報田と鈴木が来ます。撤収です」

「断る。ひとりで失せろ」

「あなたを危険な目に遭わせるわけにはいかない」

「構うな」

 その時、階段に堂林が姿を見せた。

 まとわりつくように腕を組む鈴木瀬良と、一歩引いた報田愛梨。

 報田と目が合った。それで、翼の言うことを聞かなかった愚かさを悟った。

「ああもう」翼が、掴んだままだった紅子の手を引いた。「先に謝ります、部長。ごめんなさい」

 何、と応じる間もなかった。

 身体ごと引き寄せられ、唇と唇が触れた。キスされている、と気づくまで数秒かかった。駐車場の壁に背中が押しつけられる。声を上げようとしたが、口から出たのは唸りのような音だけだった。翼の身体を押し返そうとしたが、逆に抱き寄せられる。ただ触れていただけの唇の上を、翼の舌が這った。眼鏡と眼鏡が当たっていた。報田ら三人が近づいてきて、堂林と鈴木瀬良だけが車に乗り込んだ。それでやっと、ごまかすためにしているのだと思い当たった。だが同時に、ごまかしでなかったらどうしよう、とも思った。舌と舌が絡んだ。仄かにメロンソーダの味がした。だがそれを押し流すような知らない感覚に舌と唇が痺れた。うたた寝から目覚めた直後に感じる、不快なようだがつい、その感覚を求めてしまう味に似ていた。

 車が発進し、唇も離れる。

 紅子は浅い呼吸を繰り返した。目の前に翼。そしてすぐ側に、報田愛梨が残っていた。

「内藤、君は……」

「あ、報田さん」事もなげに翼は言った。

「え、何。お前ら付き合ってんの?」報田は歪んだ薄笑いだった。

「見なかったことにしてくれる? あんまり、教室で周りに言われるのとか、嫌で……」

「いいけど。お前らも、ここで私と会ったこと、誰にも言うなよ。今のおっさんのことも」

「言わないよ。約束する」と翼。

 すると、言ったら殺す、という捨て台詞を残して、報田は徒歩でその場を後にする。

 その背中を見送ってから、紅子は言った。

「……一応、今のが初めてなんだが」

「奇遇ですね、僕もです」やはり事もなげに翼は応じた。「あなたでよかった」

 紅子の手元では、携帯が『ERROR』の五文字を明滅させていた。

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