1-9 グレイハッカー

 ファミリーレストランを出て、紅子と翼は大急ぎで電車へ飛び乗る。

 片瀬怜奈の退店から一五分以上経過しており、彼女と同じ電車を捕まえることは出来なかった。

「GPSは」

「電車が地下区間なので不安定ですが……ああ、やっぱり。僕らの三駅先。もうすぐ降ります」

「彼女の交通手段は?」

「バスと徒歩でまちまちですね」

「バスだとして、彼女の自宅方向の、同じ便は……」紅子は携帯で時刻表を表示して、舌打ちする。「無理そうだな」

「どうします?」

「二手に別れよう。駅前に停めてるから、私がバイクで先行する」一度言葉を切ってから続ける。「なんだその目は。スクーターでもバスよりは早いぞ。一二五だからな」

「じゃあ虎の子を預けます」翼はバックパックを渡して言った。「頼みますよ。これで彼女の身に何かあったら、寝覚めが悪いにもほどがあるってもんです」

 まったくだな、と紅子は応じた。

 思えば妙な話だった。片瀬怜奈の個人情報を探るはずが、いつの間にか彼女の身の安全を守るために息を切らしている。今の状況こそが片瀬怜奈という人間が持つ引力の結果のように思えて、紅子は嘆息した。

 互いにインカムを着けて通話状態にして電車を降り、階段を駆け上がる。片瀬怜奈はバスで移動していた。翼はバス乗り場へ。紅子は駐輪場へ。多少危険運転になりながらバイクを発進させ、紅子は、父に『鍵』を渡された理由を思った。

 神やら悪魔やら探偵やら怪盗やら、大袈裟なものばかり父は口にした。だが、目の前に、人が手にすることのできないちょっとした力があるとして、したくなることはもっと小さなことだ。

 いいこと。

 どうせするならいいことがしたい。狡くて黒い手段を手に入れたなら、清く白い善行をしたい。たとえば、クラスメイトの女の子につきまとう男を影から阻むような。

 黒でもなく、白でもない。

 グレイなものには手を出すな、と唇を尖らせた音屋礼仁教諭の姿を思い出し、心の中で一応詫びた。

 ハンドルバーに装着した携帯では片瀬怜奈のGPS座標がモニタされていた。幹線道路の上を移動していたその輝点が停まり、再び低速で移動を開始した。バスを降りたのだ。

「部長、まずいです」インカム越しの翼が言った。「映像を解析したところ、例の男、彼女と同じバスに乗っていました。でもこの現在地……」

「どうした。こちらは運転中なんだ。私を事故らせたくなければ手短に言え」

「自宅方面じゃないです。しまった。僕、路線間違えました」

「馬鹿野郎」

「すみません。ナビに徹します」翼は悄気げて応じる。「現在地に話戻しますけど、これ、例の歩道橋のすぐ横の公園ですよ」

 なんだと、と応じ、信号待ちの間に画面を操作する。「例の呪いの歩道橋か」

「そうです。でも、どうして彼女が……」

「すまんな内藤くん。君はここまでにしてくれ」

「部長? ここまでって」

「委細は後で話す」通話を切り、青信号と同時にアクセルを全開にした。

 片瀬怜奈の位置を示す画面上の輝点は、公園の中を踊り歩いていた。右へ左へ。立ち止まってはまた歩く。ストーカー男の方の現在位置がわからないのがもどかしかった。片瀬怜奈の周りにいる年上の男がひとりだと早合点した、他でもない紅子自身のミスだった。翼が言うように、顔写真から顔認証でWIREアカウントを横断的に検索・照合するシステム作りが必要だと強く感じた。

 だが、今は目の前の大問題だった。

 公園の駐輪場へバイクを停め、人気のない東屋で翼から預かったバックパックを広げた。中身は、クァッドコプター型のドローン。追尾を顔認証からGPS座標に切り替え、携帯から片瀬怜奈の現在地を飛ばす。高度は公園の木々に引っかからないよう三段階でプリセットしたものの最高を選択し、再起動する。

 手動制御用のソフトをインストールした端末を片手、もう片手にGPSを受信し続ける携帯。

 扇風機より少しうるさいくらいの騒音と共にドローンが離陸し、規定の高度に達して自律飛行へ移行する。

 紅子自身も息を切らして走った。どこで待機するか、それとも片瀬怜奈の現在地を追いかけるべきか、数秒迷ってから歩道橋を望む植え込みの影に陣取った。

 すまんな、と今度は翼へ、心の中で一応詫びた。

 もしも片瀬怜奈の身に危険が迫るようなら、ドローンを手動制御に切り替えて、破損覚悟で男の後頭部に突っ込ませるつもりだった。

 深呼吸して息を整え、空撮映像を確認する。

「……いた」と紅子は呟く。

 周りを気にするような足取りの片瀬怜奈と、彼女を尾行するくたびれたスーツの男。

 だが、その片瀬怜奈が携えているものに、紅子は目を奪われた。

 血のように赤い花だった。

 だがその正体を確かめようとカメラをズームインさせると、警告が鳴った。高速道路の上空に交差しようとしていた。飛行は危険であり、以前高速道路の上でドローンを飛ばしたアマチュア愛好家が逮捕された事例があった。

 片瀬怜奈は、花を胸元に抱えたまま、公園に面した交差点へ出た。国道と環状線、首都高が交差し、すぐ近くにはラジオで渋滞情報がよく流れるインターチェンジがあった。

 交差点に架かる歩道橋へと彼女は足を進めていく。紅子は舌打ちし、ドローンの制御を手動に切り替えた。歩道橋の上空は高速道路に塞がれていたのだ。だが歩道橋を目視する位置を確保したのは正解だった。

 翼から次々とWIREが飛んできた。「早まった行動は避けてください」「せめて男の僕が着いてから」「喧嘩なんかしたことないですけど……」等々。ないのかよ、と心中で突っ込みを入れて、WIREのアプリを落とす。

 代わりに盗聴アプリを立ち上げる。

 怜奈は歩道橋の上に立ち、行き交う車列をぼんやりと見下ろしていた。何か呟いているようだったが、アプリ越しでは聞き取れなかった。

 ストーカー男が動いた。歩道橋の階段を駆け上がり、躊躇いながらも早足で怜奈へ近づく。

 不意に強い風が吹いた。乱れた髪を片手で抑えた拍子に、彼女は近づいてきた男の姿を認めた。

「何か?」と彼女が言った。

 同時に紅子は直感した。

 致命的に判断が遅れた。

 男はもう、片瀬怜奈に手が届くほどの距離に近づいていた。ドローンはまだ高空で、紅子自身は歩道橋の下だった。走って、体当たりなりをしても間に合わない。ドローンを突っ込ませるのも遅れた。紅子は自分の胸元と、その下のメモリを掴んだ。

 男の僕が着いてから、という翼の言葉が脳裏を過った。

 そしてもうひとつ。

 紅子は震える手を握って言った。

「Done is better than perfect、だったな。内藤くん」

 紅子は植え込みから走り出て階段を駆け上がった。

 だが盗聴アプリと、当の歩道橋から聞こえた言葉に、階段半ばで足を止めた。

「娘の……お友達ですか」と男が言った。襲いかかるような気配はなかった。

「違います」と片瀬怜奈は応じた。「ここで死んだ女の子なら、私とは赤の他人です。たまたまその日に、ここを通りがかっただけで」

「妻から、ここに花を手向けてくれている子がいると聞きました。探して、探して……ずっとお礼を言いたかったんです」

「お礼を言われるようなことは何もしていませんが」

「それでも救われるんです。娘のことを、忘れないでいてくれる人がいるというだけで」

 男は深々と頭を下げた。

 怜奈はそんな男の姿を、冷たい目で見下ろしていた。その片手にある赤い花を紅子は認めた。

 彼岸花だった。

 しばらく沈黙してから怜奈は口を開いた。「あなたは忘れた方がいいと思います。きっと誰かが覚えていますから。それに私、手向けてなんて、いませんよ」

 煙に巻かれている男を前に、彼女は眼下の車列へと向き直った。

 そして彼岸花の花束を投げた。

 舞い散り、アスファルトに落ち、そして猛スピードで走る車にすり潰される。まるで血のような赤。

 血痕が消えない呪いの歩道橋――その正体だった。

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