2-6 300人

 その日から紅子は〈A〉および平田良華の兄、そして報田愛梨のアカウントの探索に没頭した。

 まずは平田良華の兄。平田颯介という名前の彼に、徹底的な標的型攻撃を仕掛けた。〈WIRE ACT〉で割り出したメールアドレスへ二六通りの個人情報を釣り上げる偽メールを送信し、そのうち三通が迷惑メールフィルタを通過。そのうちひとつに平田兄は食いついた。運送業者の再配達依頼に偽装したものだった。

 撮影した映像の行き先について、紅子はあらかじめ仮説を立てていた。その実証のため、入手したIDとパスワード、あるいはそれに類似する文字列を、主だったクラウドストレージのログイン画面で入力した。すると海外にサーバを持ち容量無制限のストレージで、ログインに成功した。

「それがこれだ」

 紅子はそのストレージのスクリーンショットを表示したPCを翼へ向けた。

 新宿の、ビルの二階にある喫茶店。全席に電源があり無線LAN完備。席と席の間には顔が隠れるほどの間仕切りがあり、居心地がいいことから紅子が愛用している店だった。

 翼は唖然として応じた。「これは……あのネカフェの、ブース内の映像ですか」

「ああ。それもひとつじゃない。中身は精査していないが、ざっと五〇ある」

「見なきゃよかった」翼は顔をひきつらせた。

「まったく同感だよ。あの男、ネットワークカメラで撮影した映像をクラウドサーバで録画していた。サーバは海外に設置されていて、名目上、日本国内で児童ポルノを製造していることにはならない。自分のPCの中には保管していないから、所持・保管にあたるかはグレーだ。サーバの中は日本国内ではないしな。さらにサーバ上とはいえ不特定多数の目に触れる状態ではないから、提供・陳列にあたるかもグレー。裁判になってもいくらでも言い逃れができる状態ということだな」

「よく見つけましたね、こんなの。どうやったんです?」

「キーワードは『リスクヘッジ』だ」紅子は深く息をつく。「会員カードの件といい、平田颯介という男はリスクヘッジに余念のない男だと推測した。そんな男が自分のハードディスクに児童ポルノ映像を残すとも思えなくてな。さらに手が込んでいることに、これが児童ポルノの構成要件を満たさない可能性もある」

「いや、誰がどう見ても児童ポルノでしょう」

「そういう話じゃないんだよ。この映像は児童ポルノだが、児童ポルノが犯罪として成り立つにはいくつかの条件がいる。そのひとつが、性的好奇心を満たす目的の有無だ」

「詳しいですね」

「調べた」紅子はクラウドサーバからコピーしたエクセルファイルを開いた。「見ろ。顧客リストだ」

 翼はそれを一瞥して言った。「少ないですね」

「そうだ。少ない。これが鍵だ。この数では不特定多数とは言えない。そしてこいつら、全員違法ビデオ業者だ」

「……話が見えました。つまり平田颯介は、原材料を提供していただけってことですね」

 その通りだ、と紅子は言った。

 ポルノ映像を焼いた物理メディアの需要は依然として多い。その多くはネット上から収集した撮影者、被写体不詳の私製ポルノや違法アップロードされたアダルトビデオを寄せ集めたものだ。需要がある以上は供給があり、供給者が存在する。彼らは彼らの顧客リストをシェアし、インターネットの深いところや、逆にアナログな口コミを介して物理メディアを販売する。顧客リストを反社会的勢力から入手し、結果としてその売上は反社会的勢力の資金源となってしまうこともある。

 平田兄が所持していたのはそうした脱法業者のリストである。

 すなわち。

「平田颯介は、常にリスクヘッジを怠らない。もしもこれが発覚し、検挙された場合も、彼は法廷でこう主張するだろう。『性的好奇心を満たす目的ではなく、特定少数者への供給・販売による利益追求を目的としたものであるため、児童ポルノの構成要件を満たさない』」

「素人無修正エロ動画のBtoBビジネスですか。頭が痛くなる話ですね」翼は冷めているだろうコーヒーに口をつけた。「脱法業者を通じて既に不特定多数にネカフェ援交盗撮映像がばらまかれていると?」

「遺憾ながら、そう考えざるを得ないな……」

「浮かない顔ですね。乱入して、止めればよかったとか、考えているんですか?」

「それは……こちらもしていることはグレイだからな」

 言い訳だった。

 犯罪を見て見ぬふりをしたことには変わりない。本当にいいことをしようと思うなら、あの場で乱入して止めるべきだった。そうしなかったのは、扉を開ける勇気がなかったからだ。せっかく得た力で正しいことをしたいという思いに、行動がついていかなかった。片瀬怜奈追跡の時、歩道橋の階段を駆け上がる判断が致命的に遅れたと悟った瞬間の後悔を、紅子は思い出さずにいられなかった。

 その紅子の忸怩たる思いを知ってか知らずか、翼は話題を変えた。

「〈A〉の方は、何かわかりましたか?」

「繋がっているアカウントが多すぎてな。まだ輪郭が見えた程度だが……」

 紅子は画面を変えた。

 〈A〉についても、いくつか判明したことがあった。

 まず、〈A〉は男と少女を繋げる援交業者のような存在であるということ。會澤のアカウントから、〈A〉へとWIRE Payでの送金があり、その金額の七〇パーセントが荒木まさみへ送金されていたのだ。少女と男を直接繋げないことで、双方が抱えるリスクを低減する。男にしても、〈A〉という謎めいた存在の影があれば、少女を暴行する、危険な性行為を強要する、脅迫する、リベンジポルノを配布するなどの行為へのブレーキが働く。やはりここにも、リスクヘッジの発想が見え隠れしていた。

 そしてふたつ目。

「〈A〉の作ったグループのキーを持つアカウントをひとつひとつ当たってみたのだがな、まだ全部は確認できていないが、今の所例外なく、直近二年以内に、プライベートモードで〈A〉とやり取りしている」

「え、そのグループって確か、アカウントが三〇〇だか登録されているんですよね」

「そうだ」

「じゃあそれはつまり、ってことですか」

「そうなるな」紅子はコーヒーで口を湿らせ、気を落ち着かせてから続けた。「WIREの閉鎖性が仇になったな。パブリックラインで募集などしていれば警察のサイバーパトロールに発見される。だがこいつのやりとりはすべて、通常の方法では外部からは閲覧できないんだ。仮に男の誰かが警察に捕まったとしても、みな〈A〉以外とは接触していない。加えてセキュリティモードだから、WIREの方も確たる証拠がなければ開示しないだろう。芋づる逮捕を防ぐためのリスクヘッジだよ」

「金銭の授受も?」

「WIRE Payもそれ以外もあるが、すべて〈A〉に向けて、何らかの電子マネーで送金されていた。あくまで追えた限りだがな」

「演繹的にいえば、三〇〇人が全員そうしているということになりますね」

「この世はそれほど論理的ではないぞ」

「なんです、まだ非援交説ですか? 僕らは現場を見たんです。一週間程度のラグだって、説明できるでしょう。〈A〉はあくまで約束を取りつける事前のやり取りだけしかしていない。それは援交当日から数日遡る。筋が通ります。まだ何か、気にかかることが?」

 紅子は腕組みになって応じた。「人数だよ」

「人数? 三〇〇ってのは、部長が調べたんでしょう」

「それは男の数だ。女はどうなる?」

 三〇〇人の児童買春男。

 だがこれまでにその相手をしたと思われる少女たちの数は把握できていない。〈A〉を介した男とのマッチングシステムのスキームを走った現場を確認できたのは、今のところ荒木まさみだけだ。

 〈A〉が運用されている端末に何らかのマルウェアを送り込むことも考えたが、既に攻撃済みの関係者の中に〈A〉が潜んでいる可能性を鑑みると、慎重にならざるを得なかった。WIREに偽の更新をかける方法を安易に使うと、違和感を抱かせるリスクがあった。同時に三アカウントを攻撃できた片瀬怜奈の時とは違うのだ。

「荒木まさみと〈A〉のフォロー関係は既に切れている。そしてWIREのプライベートモードの仕様として、フォロー関係が切れるとやり取りしたアカウントの情報が消えてしまう。男たちとの方は、フォロー関係が残っているから追えたが、少女の方は追えないんだよ。加えてこの映像だ」

 翼は画面を覗き込む。「確かに、この映像に映っている女の子、ひとりやふたりじゃないですね」

「ああ。ひとりやふたりじゃない。相当数だ。三〇〇人の相手をできるだけの」紅子は携帯で別のウェブサイトを開いて、テーブルに置いた。「まあこいつを見てみろ。参考にな」

 翼は画面を一瞥すると、顔をひきつらせて目を背けた。「ちょっと、部長、なんてもの開いているんですか」

「ソープランドの在籍表だが。ここから徒歩五分の」

「いやいや、何をしれっと言ってるんです。一応女の子でしょうが」

「君、時々急に私を女扱いするよな……」

「言いたいことはわかりました」翼は咳払いする。「在籍表、つまり少女たちのリストがどこかにあるはずだ、ということですね。そして未だに部長がその存在を掴んでいないということは……」

「ああ。〈A〉がそういったプライベートグループを作成しているのではないかと踏んだが、見当たらない。この〈A〉は、男と少女をまったく別に管理しているんだ。これもリスクヘッジだな」

「リスクヘッジ」と翼は繰り返す。「部長の分析を聞くに、どうも〈A〉の正体は平田颯介のような気がしますが」

「確証はないがな」

「でも、その可能性が高いと考えている」

 まあな、と紅子は応じた。

 だが、〈A〉=平田颯介説を真実と仮定しても、まだ不可解なことは多い。その最たるものが、平田颯介が、平田良華の兄であるという事実だ。

 平田颯介は、一見すると普通の大学生だ。名前を検索するとゼミのウェブサイトがヒットした。有名私大の教育学部だった。なぜ女子高生の援助交際を幇助し、盗撮に手を染めたのかは、判然としない。

 そして、報田愛梨の関わりについて。

 報田の周囲にも似たような行為の痕跡と思われるものがあったが、これまで分析した限りでは、報田は〈A〉を介さず男から直接金銭を受け取っていた。今、明らかになろうとしている〈A〉とその周辺の私製売春組織と、報田はどんな関係があるのか。

「報田に送金した男たちと、〈A〉との間には何らかの関係があったんですか?」

「あった。いずれも〈A〉の作った三〇〇人のリストに含まれていた」

「じゃあ報田も、荒木と同じく、現役JK無店舗闇本デリ〈A〉在籍一覧のひとりってことなんでしょうか」

「どこでそんな言い回しを覚えた……」

「部長と同じく、調べました」

 紅子はこめかみを揉んで応じる。「だがそうすると、スキームに沿わずに直接金を受け取っている事実に説明がつかん」

 そこなんですよねえ、と応じたきり、翼は何も言わなくなった。

 それからしばらく沈黙が流れた。紅子はPCを閉じ、携帯のウェブブラウザも閉じた。

 店員がやってきて、とっくに空になっていたふたりのコーヒーカップを下げた。

 何か頼みますか、と翼が言った。要らん、と紅子は応じた。それからまたしばらく互いに何も言わなかった。

 店内は混雑していた。入口には、休息場所を求める人々が行列を作り始めていた。

 紅子は、テーブルの木目を目で追いながら口を開いた。

「意外と冷静なんだな。君は生粋のフェミニストなんじゃなかったのか」

「僕はセックス・ワーカーの存在自体を否定するタイプではありませんよ」翼は事もなげに言った。

「そりゃ一体どういうことだ。筋が通らんだろ」

「男とは意外と複雑で矛盾を孕んだ存在なんです。部長が思うよりもね」

「好きにしろ……」

 ふと、目眩を覚えた。報田愛梨。荒木まさみ。平田良華の兄。教室でパワーゲームを演じるグループの裏の顔。それらを順繰りに思い浮かべると、嫌が応にも、馬場えれなの姿が目に浮かんだ。夕暮れ時の教室で、彼女の足元に伸びていた長い影を。

 そして、うちらだけの秘密、と口にした時のえれなの笑顔。

 〈A〉の作り上げたこの地獄に、馬場えれなも取り込まれるのだろうか。あるいは既に。

 すると翼が居住まいを正して言った。

「僕からもひとつ、いいですか」

「なんだ。君の女性論ならたくさんだぞ」

「いえ、そうではなく。……この一件、正直、あなたの手に余ると思うんですが」

「……どういうことだ」

「いえ、別に」翼は伝票を手に席を立った。「俄然面白くなってきたな、と思っただけですよ」

 面白くない出来事があったのは、それから僅か数日後のことだった。

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