2-3 うちらだけの秘密

「そーそー! あたし処女だからさ、ピュアなんだよねー。ははは……」

 休み時間の教室に馬場えれなの声が響いた。

 報田愛梨らは今日もひと塊だった。

「アズマくんが、部活の後輩の子紹介したいって言ってたよ」上目遣いで首を傾げるのは、平田良華。「馬場ちゃんのこと可愛いって言ってたって」

 アズマくんとは平田の交際相手である硬式テニス部の先輩である。平田は敢えて先輩をくん呼びすることで、そう呼ぶことを許されている自分を周りに、特に報田愛梨に見せつけていた。自分は力のある重要な存在だと認められたいのだ。

 ちなみに、馬場えれなのことを可愛いと言っていたという後輩は実在しない。恋人がいない部員へ適当にえれなを充てがおうとしているだけであり、えれながどんな反応を示すか、紹介を受けたとしてWIREでどんな言葉を交わすか、休日にどんな服を着て待ち合わせに現れるかを存分に笑うつもりだった。

「ねえ良華あ、ウチにも紹介してよ」森野麻未菜が口を挟む。「いいなあー。テニス部メッチャレベル高いし羨ましいわ」

「あんた例の男子校の子はどうしたの」と平田。

「ユウキくん? 悪い人じゃなかったんだけど……フィーリングが合わなかったっていうか。あそうだ、ユウキくんの友達、ウチの文化祭に来るらしいよ」

「えー、うっそー。馬場ちゃんゲットしに行きなよ。絶対向こうも童貞だって」

「うん、頑張るー。頑張るから」えれなはあからさまな作り笑いだった。「テニス部の人は、いいかなー、なんて」

 一瞬、棘のある沈黙が流れた。

 馬場えれなは、平田良華の誘いを断った。平田の方が上、という空気を読まなかった。えれなにすれば、とにかくこの話題をやり過ごしたかったのだろうが、失敗だった。平田は「あのさあ」と言った。声のトーンが一段低くなっていた。平田の方も必死なのだ。そうしなければ序列が崩れるから。森野の笑顔が固まっていた。

 あくまで一瞬の沈黙。

 ずれた会話のテンポを打ち直したのは、ずっと黙っていた荒木まさみだった。平田を遮るように、荒木は言った。

「なら自分の力で頑張んなよ」

 すると平田も「そうだよ、大事なのは積極性だよ」同調した。

 携帯に目を落としたまま、やはり黙っていた報田愛梨がとどめを刺した。

「じゃあ、テニス部の人は麻未菜に紹介すれば?」

 容姿で比べるなら森野麻未菜より馬場えれなの方が上だ。すなわち、森野を紹介したら、平田良華はアズマの顔を潰すことになる。適当に充てがうだけにせよ、可愛いに越したことはない。平田とアズマの関係には多少の傷が入るだろう。

 それこそが報田愛梨の狙いであると見て取れた。先輩をくんづけで呼べる自分を見せつけてきた平田への牽制。調子に乗るな、と釘を差したのだ。

 えれな以外は全員、平田とアズマの企みは承知している。何気ない会話の中で繰り広げられるパワーゲームから発せられた酸性の空気は、事情を深くは知らない他の生徒たちの肌さえ焼いていた。聞いているだけでも、なんとなく、察することができるものだ。

 ましてやWIREの監視を通じて彼女たちの微妙な関係を読み解いていた紅子は尚更だった。ほとほと嫌気が差した。教室では別の誰かを演じている、と豪語した片瀬怜奈の気持ちがわかる気がした。毎日毎日こんな上下関係の見せつけ合いに巻き込まれてはたまったものではない。

 その時、「はいみんな、注目!」と眼鏡の学級委員の女子が教壇で声を張り上げた。いかにも地味で大人しそうな子で、名前は思い出せなかった。いつもは鬱陶しいだけだが、今日に限ってはありがたかった。

「文化祭のクラス企画アンケート、まだ出してない人は今日の終礼までにお願いね」

 紅子は目を瞬かせた。すっかり忘れていたのだ。

 ロボット研究会も、学校から予算を貰っている以上、秋の文化祭からは逃げられなかった。小規模文化部の合同企画に何か一つの展示をするよう、夏休み明け早々に生徒会から通達されていたのだ。片瀬怜奈の追跡に夢中になっていたせいで、紅子の頭からは弾き出されていた。その上クラス企画まである。忙しくなりそうだった。

 教室の後ろに、手先の器用な女子がダンボールで作ったアンケート箱が設置されていた。どうでもいいので無視していたが、そうもいかないようだった。

 委員長が言った。「日直の人は、放課後に投票数数えて、集計して先生のところに持っていってください。今日の日直は……羽原さんと、馬場さん。お願いね」

 馬場えれなが間延びした声で返事をした。紅子は、そういえば自分の名前が羽原だったことを思い出すまでに一〇秒ほどかかった。

「羽原さん?」と委員長から念押しされ、了解、とだけ応じた。

 調査対象との接触は好ましくなかった。紅子は、自分には役者の才能はないと自覚していた。WIREを介して調べ上げている相手と面と向かって話して、知らないはずのことをうっかり口にしてしまわないでいられる自信がなかった。

 そして覚悟が決まらないまま放課後になってしまった。

 報田らは、特に馬場えれなを待つでもなく帰宅してしまった。紅子も抜き足差し足で逃亡を試みたが、委員長に捕まった。彼女はこう言った。

「内藤くんがね、『部長は絶対逃げるから目を離すな』って」

「あの野郎、余計なことを」

「羽原さんって、内藤くんと仲良いよね」

「部活が同じなだけだ。それと、あいつには心に決めた女がいるから、脈はないぞ」

「えっ? べ、別に、そんなつもりで訊いたんじゃ……」

「みんなそう言うんだよ」言い捨て、もう箱を開けようとしていた馬場えれなの方へ向かった。

 同じクラスだが、馬場えれなとはほとんど話したこともなかった。一学期の間は席が前後ろ隣同士だったが、式の日に互いの出身中学を訊いて以来、ほぼ言葉を交わすことなく夏休みを迎えた。日直が回ってくる時だけの、出席番号が連続しているだけの関係だった。

 箱を抱えて机に置いたえれなに、紅子は言った。

「意外だ」

「何が?」えれなは小首を傾げた。たぶん、ソート順は上から数えた方が早かった。

「私よりクラスの仕事に真面目だから」

「えー、あたし真面目だし。羽原さんこそ、意外だなあ」

「何が」

「あたしより不真面目だから。成績は全然いいのに」

「成績と生活態度に因果関係はないと思うぞ。それに私は国語が苦手だ」

「そうなん? こないだの実力テストは?」

「六二点」

「あたし七一点。勝った」

「大して変わらん」

「えー、でも七〇点以上と以下だと、結構気持ち違わない?」

「そうだな」と紅子は応じた。「結構気持ち違うな」

 机の上に投票用紙を全部出し、前後の椅子に座ってまずは数える。三四枚だった。

 いつの間にか、教室には他に誰もいなくなっていた。

「うちのクラス何人だっけ」

「三五人だな」

「じゃあひとり投票してないね。誰だろね」とえれな。

「私だ」紅子は制服の胸ポケットから白紙の用紙を出し、机に置いた。

「え、マジ」

「無記名投票だからひとりくらい投票しなくてもバレないと思ったが、数えられると弱いな」

「なんか意外」

「成績は全然いいのにか?」

「そう、それ」

「どうも興味が持てなくてな。……候補は、何があるんだったか」

 箱の側面には、箱を作った几帳面な誰かの字で、クラス企画案がみっつ書かれていた。

 A、男装女装喫茶。B、占いの館。C、巨大迷路。以上三案だった。

「君は何にしたんだ?」

「……君、とか言うんだ、羽原さん」

「あー……すまん。馬場さんは、何に?」

「馬場ちゃんでいいよ」

「……馬場ちゃんは、何に」

 えれなは満足気だった。「んー、あたしはねー、男装女装喫茶」

「なぜ」

「内藤くんの女装が見たいから!」

「それは私も見たいな」

 だよね、とえれなは破顔して応じた。

 小生意気だが愛らしい童顔の内藤翼。あれが女装をしたらどうなるのか。頭の中で、ロングのウイッグを被せて女子の制服や、典型的なメイド服を着せてみる。

 紅子は鞄からペンを取り出した。

「私もAにしよう。やつが吠え面かくところが見たい」

「部活同じなんだっけ。内藤くんと」

「まあな」Aと書き、用紙を放る。これで全三五票だった。「馬場ちゃんは、部活は?」

「あたしは帰宅部だよん」

「それっぽいな」

「そうじゃろう? よく言われる」

「集計するか」紅子は席を立ち、黒板へ向かった。「読み上げてくれ。私が書く」

 オッケー、とえれなは応じた。

 綺麗に拭われた黒板に、チョークでABCと書く。悪いことをしているような気分だった。

「じゃあ行くよー。最初、A。次、C。C、A、B……」

 えれなが読み上げるのに合わせて、ABCの下に正の字を書き加えていく。

 わざわざ箱を作り、用紙を作り、配り、書かせて、集めて、集計する。Googleドキュメントならば集計まで一発なのに、なぜこんなアナログな方法を取るのかよくわからなかった。きっと、手順が決まった儀式を踏むことで、段々と非日常感を高めていくことが楽しいのだろう。紅子にはわかりかねる感覚だったし、わからなくてもよかった。

 だが、背中越しに伺うえれなの表情も、楽しげだった。夕日が彼女の横顔を照らし、制服と、ふたつ縛りの髪の影を誰もいない教室へ長く落としていた。それは、常に背中に忍び寄る寂しさから目を逸らし、今だけの平穏に包まれて肩の力を抜いているように、紅子の目には映った。後でこいつのWIREを覗いてみよう、と紅子は思った。暴きたい心がそこにあった。

 そうして黒板にいくつかの正の字が並んだ。

「……最後、B。おわりっ」

 最後の一画を書き足し、紅子はチョークを置いて教壇を降りた。

 A案、一三。B案、八。C案、一三。

 数字を睨み、足し算を三回繰り返してから紅子は言った。

「一票足りないぞ」

「あ、それなんだけど」えれなは用紙の一枚を取った。「何も書いてないのがひとつある」

「白票? 誰だ」

「わかんないよ。無記名だし」

「困ったな。AとCが同率首位だぞ。決選投票か?」

「えー、でもこれCに入れるのとか絶対男子だよ」

「なぜ」

「え、だって暗くなるし。狭いし。屈んだりするし。絶対男子の下心じゃん」

 なるほど、と紅子は思わず感心して応じた。あまり持ったことのない視点だった。

 席まで戻って、問題の白票を改める。

「誰だろ。問題児だねえ。羽原さんとおんなじ」

「私と?」

「だって羽原さんも何も書かずに持ってたじゃん」

「私は投票しなかったぞ。一緒にするな」

「じゃあ似てるね」とえれなは言った。

 それでふと、勘が働いた。

 この白票の主は、片瀬怜奈なのではないか、と。

「書くか」と紅子は言った。

「え、それまずくない?」

「大丈夫さ。私たちが書いたところで、気づくのは白票を投じた本人だけ。わざわざ白票にするようなやつだ、きっと私と同じように、クラス企画の内容などに、関心を払っていないんだ。気づいても何も言ってこないさ」

「……大丈夫かな」

「なら決選投票にするか? 票は拮抗してる。もう一回やったら、エロ目当て迷路が勝つかもしれんぞ」

「それはやだ」

「なら決まりだ」

 紅子はその白票にAと書き、次いで黒板に戻ってAの下に一画書き足した。

 A案、一四票。

「あたし何も見てないからね」

「困ったな、私も何も見ていない」紅子は教壇を降り、改めて黒板を俯瞰する。「うん。縁起もいい。不吉な数に一を加えて、孤独な数字がふたつ集まった」

「……よしっ!」えれなは席を立ち、黒板に向かって携帯のカメラを向け、写真を撮った。「じゃあ一年二組は女装男装喫茶ってことで」

「お、腹を括ったか」

「うん。うちらだけの秘密だからね」

「そうだな。うちらだけの秘密だ」

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