東京グレイハッカーズ

下村智恵理

1. 彼岸花の少女 202609

1-1 Welcome to Underground.

「この鍵があれば君は神にも悪魔にもなれる」と父は言った。「探偵にもなれるし怪盗にもなれる。刑事にもなれるし殺人鬼にもなれる。ヒーローにもなれるし怪人にもなれる。人の心を覗き見られる勝手口の鍵を手に入れるとは、そういうことなんだよ、紅子」

 勝手口、と問い返すと、父はばつが悪そうに応じた。

「ワイヤードの裏口バックドアだよ」

 父の名は、羽原蒼一郎はばらそういちろう

 娘の名は、羽原紅子はばらこうこ

 その日は、羽原紅子の、一六歳の誕生日だった。

 母からの誕生日プレゼントは、歳に見合わないフリルで飾り立てたワンピースだった。父から贈られたのは、亜鉛合金のリング型USBフラッシュメモリだった。穴に安物の、一応女もののチェーンが通されていた。首から提げるにはあまりにも無骨で、一六歳の女子高生に似合わないことでは、母のプレゼントと同じだった。趣味も性格もまるで一致しないふたりの結婚生活がそこそこ上手くいっている理由がわかった気がした。

「挿してごらん」と父が言った。

 母親に買い与えられたネグリシェの下に中学のジャージを着た紅子の前で、愛用するPCのモニタが煌々と光っていた。こういう時は暗闇に限ると父が言うので、部屋の電灯は消していた。

 紅子はUSBメモリをPCに挿した。すると、何かのアプリケーションが自動で立ち上がった。

 父、羽原蒼一郎は、二〇〇〇億円を売り上げる日本でも有数のICT企業・WIRE株式会社の創業者にして代表取締役社長だった。

 その事業内容は産業向けソリューション開発からスマートフォン向けアプリまで幅広いが、最も有名なサービスは、会社名を冠したソーシャル・ネットワーキング・コミュニケーション・サービス『WIRE』である。日本では老若男女を問わず普及し、特に若年層の利用率は実に九五パーセント以上。オープンSNSの特徴も備えるが、日本で爆発的に普及した理由は、クローズド・コミュニケーションに特化した機能を備えていることだった。

 各ユーザの投稿はパブリックラインとコミュニケートラインに大別される。PLへの投稿はアカウント自体を非公開にしない限り基本的にWIRE登録者なら誰でも閲覧可能だが、CLへの投稿は、あらかじめ構築したグループへ流れ、基本的にその部屋のメンバーでなければ閲覧できない。ユーザは、たとえば友達同士や職場の同僚同士でグループを作り、クローズドなCLでコミュニケーションを行う。

 グループへの入室権はキー、そのアカウントの公開投稿を購読しパブリックラインに登録することをフォローと呼ぶ。キー所持数の多さはプライベートな顔の広さ、フォロワー数の多さは社会的な影響力の強さを示すとも言われる。

 たとえば紅子のキー数は三、フォロワー数は二〇、フォロー数は一五。蒼一郎はキー数三〇〇、フォロワー数は二〇〇〇〇を数える。一方で紅子が匿名で作成したサブアカウントはキー数一五、フォロワー数は一五〇〇。どのような使い方をしているかが、キー数とフォロワー数に現れるのである。

 そして、PLとCLを総称した、WIREによって提供されるコミュニケーション空間全体を、『ワイヤード』と俗称する。

「どうだい、紅子」と蒼一郎が言った。

 紅子の目は画面に釘付けだった。

 立ち上がったアプリケーションは、WIREの開発者ツール。ウィンドウの中に立ち上がったサブウィンドウやショートカットに目移りしていると、蒼一郎が満足気に言った。

「一番使えるのはアカウントの横断検索だろうね。登録時に入力必須にしている個人情報のいずれかから、非公開でも検索できる。特定すれば、このツールからその人のPLもCLも見放題だ」

「父さんのも見える?」

「残念ながら僕を含むWIRE社員のものは見えないよ」

「ちっ、惜しい」

「目の付け所は悪くないね。……その他、属性別の検索もマーケティング部門に言われて充実させた。こういう人の母集団を探しているんだけど、と言われればすぐ対応できる。あるいは……ゴースト投稿機能の方が好みかな。特定母集団のパブリックラインに同じ投稿を潜り込ませる機能だ。広告用に開発したが、更にアレンジして、そのパブリックラインにいそうな架空のアカウントをその一投稿のために作って、既読直後に削除することもできる」

「そんなもの、何に使うんだ?」

「それは君次第だよ、紅子。君が政治家なら自分の政策を支持する世論や、敵対する政治勢力を貶める投稿を作ればいい。君がテロリストなら、今の日本は間違っているという空気を作ってもいい。大事なのは、分速三〇〇〇〇の濁流の中で、君が何になって、何をしたいかだ」

「神にも、悪魔にも?」

「探偵にも、怪盗にも」

「刑事にも、殺人鬼にも?」

「ヒーローにも、怪人にも」

「父さんは私に、何になって欲しい?」

「何になりたいか自分で決められる人に」

「セコい」

「誰の父親だと思っている」

「私は父さんみたいにセコくない」

 蒼一郎は声を上げて笑った。いつも陽気でよく喋る人だった。そういうところは遺伝しなかった。

 すると蒼一郎が手を伸ばし、ファンクションキーを叩いた。画面が初期化された。

「さて紅子、チュートリアルだ」

「取説とかないの?」

「習うより慣れろだ。まずは……母さんのアカウントを探してみようか」

「……いいの?」

「大切な家族のことはもっと知りたいだろ?」

「距離感も大事だと思う」

 応じつつ、検索欄に母の名前を入力しようとする。羽原友梨香。

 だが、エンターキーを押そうとした紅子の手を蒼一郎が止めた。

「君は羽原友梨香の娘ではない。時々そこの道ですれ違うだけの、赤の他人の女子高生ということにしよう。さあ、君は彼女について、どんなことを知っている?」

 紅子は一度、にやにやと笑う父親を睨んだ。

 それからまたモニタへ向かう。

「居住地、東京都烏丘区。四〇代女性。家族構成、夫と……きっと子供がいるだろう。着ている服。比較的高級ブランド。よく提げているスーパーの買い物袋、シュミット南烏丘店。パートとかはしていなさそう。ICT技術やネットの話題には疎そう。でも公式のニュースとかは購読してそう。暇にあかして無料のインターネットTVとか見てそう。これで絞り込む」

 二〇ほどのアカウントが残る。

 次はどうする、と煽る父を無視して紅子は条件を加えていく。

「子供がいるってことは……教育評論家のアカウントとかフォローしてそう。高校生くらいの子供との生活のコミックエッセイを投稿するクソアカウントとか。クソみたいな子育て奮闘記とか。他には、高学歴の芸人。後は……買い物袋から野菜が見えたから、レシピサイトとか。ブン殴ったら死にそうな男子のスポーツ選手についての投稿。韓国の清潔感ある俳優。物知りオネェ系には関心ないけど、ガチの上質知ってます系には興味がある」

「僕が言ったら炎上しそうだ」

 残ったアカウントは三。

 紅子はそのひとつひとつを精査していく。

「このあたりにWIREの社長が住んでいることはご近所で有名。新興企業だから尚のこと噂になる。三のうち、たまに病んでる投稿をするのが一。ハイクラスへのコンプレックスが垣間見える。スーパーへの買い物にもブランド品を、それもロゴが見えるものを持つ人物像と一致する。これだ」

「お見事」

「でもこれ、大半の情報は公開されてるぞ。こんなツールは要らない。グーグルとWIREの標準の検索機能でだって……」

 すると蒼一郎は、耳慣れない単語を口にした。

OSINTオシントだ」

「……お新香?」

「オープンソースインテリジェンス、略してオシント。インターネットを介して行われる諜報活動の大半は、対象についての公開されている情報を集めることで行われる。NSA式諜報活動の基礎編だ。このツールは、その手間を少しばかり減らしてくれる。そして公開されない個人間のコミュニケーションも暴けるんだ」

「ふーん……」

「なあんだ、感動が薄いな。これさえあれば大好きなあの子や憧れのあの人のプライベートも覗き放題だっていうのに」

「どっちかっていうと、気に食わんやつの弱みを暴きたいな、私は」

「悪趣味だなあ」

「誰の娘だと思ってる。こんな最悪のプレゼント寄越してさ」

「でも最高だろう?」

 紅子はにやりと笑って応じる。「最高だね」

「じゃあ紅子、儀式をしようか」

 儀式、と首を傾げる紅子。蒼一郎は愉快そうな笑みを崩さないまま、紅子の肩を抱いて耳元に口を寄せた。

 父からそんなふうにされたのは久し振りだった。

「インターネットの先人たちに倣って、今日から暗闇へ足を踏み入れる君に、祝福の言葉をあげよう」

「はあ」

「――Welcome to Underground.」

 決まったぜ、という様子の蒼一郎。モニタのバックライトに照らされた顔は、まるでレタッチされて雑誌に載った後のようだった。

 紅子は思わず苦笑いになって応じた。

「それ、カッコいいと思って言ってる?」

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