第10章 勝利への方程式

第1話 ゴールへの進み方

 翌日、放課後になると胡桃はさっそく学食へと向かった。


 お一人様用のカウンター席の一番隅の席で、円数美は例のごとく数学の問題を眺めていた。


「私に相談ですか」


 赤い眼鏡の奥で、感情の乏しい目がパチパチと瞬いた。


「私に答えられることでしたら、構いませんけど」


 数美の横に座り、胡桃はこれまでのことを話した。中間テストでさんざんな結果だったこと。次の試験ではきちんとした点数を取ろうと思っていること。そして、そのために勉強の計画を立てていること。


 数美は無表情で胡桃の話を聞いていた。


「なるほど、つまり前回のテストではがむしゃらにやって失敗したと胡桃さんは思っているのですね」

「そうなの。それで計画を立ててみたんだけど、これまであんまり計画表って作ったことなかったからアドバイスをもらおうと思って。数美ちゃん、計画とか立てるの得意そうだから」


 数美はテーブルに置かれた手帳をちらりと見た。


「確かに計画は立てます」

「それで、私の計画表を確認してくれない?」

「良いですよ」


 数美はあっさりとした口調で言う。


「でも私にできるのは本当にアドバイスだけです。計画はその人の得意不得意や現時点での学力によって立て方は変わりますから、胡桃さんの計画表は胡桃さんにしか立てられません」


 分かった、と胡桃は答えて、カバンから計画表を取り出し、おずおずと机の上に置いた。「……これなんだけど」


 数美は眼鏡を中指で押し上げ、計画表を手に取った。しばらく目を通す。

 そして、きっぱりと言った。


「よくないです」

「——え?」

「熱意は感じますけど、あまりに理想的すぎです。これでは計画倒れになってしまいます」

「……そうなんだ」


 もちろん完璧な計画だとは思っていなかったが、これほどはっきりと言われると、ほんの少しへこむ。


「えっと、具体的にどのへんが?」

「全体的にです。この計画表は『これができたらいいな』っていう理想によって作られています。心意気はいいと思いますが、精神論だけでは達成できるものもできなくなってしまいます。やる気だけからまわって、計画通りに進まずに全部ご破算になる可能性が高いです。ストレスは暗記の天敵ですからね」

「そっか。じゃあ、もっと量を減らした方がいいのかな。……でもそうしたら成績が、」


 数美は眼鏡を押し上げて、


「ちなみに、目標とする点数はいくつですか?」

「——点数?」


 考えていなかったのだが、とりあえずで胡桃はこう言った。


「9割5分、とか」

「全科目でですか?」

「うん」


 そうですか、と数美は呟いて計画表を眺めていたが、やがて、


「もう少し、優しい目標を立てたらどうですか? まだ受験まで半年あるわけですから、今はそれほど慌てなくても大丈夫だと思いますけど」

「いや、それは……」


 胡桃の頭に、英梨華の顔が浮かぶ。


「——できることなら、次の試験でもう1回、1位がとりたくて」

「1位ですか」


 数美があごに手を当てた。


「確かに、受験生である以上、1番の成績を取りたいというのは分かりますけど」

「あ、いや、そういうことじゃなくて、」


 英梨華に勝ちたいのである。

 しかし、なかなかその言葉が胡桃は言えなかった。数美だって英梨華と同様、成績優秀者の一人なのである。勉強に真剣に取り組んでいる人たちに「米園に勝ちたいから」という理由で勉強すると言うのが、少し恥ずかしかった。


 が、ここまできたらそんなことも言っていられない。


「実は、——実はね、私、英梨華ちゃんに勝ちたいの」


 胡桃は英梨華との勝負のことを数美に話した。

 数美はずっと黙っていたが、話が終わるとあっさり納得した。


「なるほど、そういうことですか。米園さんに。そういう理由なら、もうちょっと違う計画を立ててみましょう」

「——笑わないの?」


 数美が不思議そうな顔をした。


「どういうことですか?」

「いや、だって、誰かに勝ちたいとか、そんな理由で勉強をするなんて、なんか、受験をなめてるみたいで。頑張る理由が不純だとかって言われると思ったんだけど」

「不純だなんて思いませんよ」数美が言った。「勝ちたいって目標があるんですよね? だったらそれでいいと思います。目指すところがあって、そこにいくための手段を見つけて、努力をしているなら、別に理由なんてなんでもいいと思います」

「——そうかな」

「はい」


 数美のその言葉が嬉しいやら恥ずかしいやらで、胡桃は手元のコーヒーを煽った。


「では、そういうことならきちんと計画を組み直しましょう。漠然と9割5分を目指すのではなくて、米園さんに勝つように勉強するべきです」

「わかった」


 とはいえ、勝つための計画なんてどうやって組めば良いのだろう、と胡桃は思った。


 顔に出たらしい。数美は胡桃の表情を見て、こう言った。


「目標を達成するために大事なのは、逆算することです」

「逆算?」

「ゴールにたどり着くには何が必要かを見積もって、今何をするべきなのかを計算するんです」


 数美は淡々と言う。


「試験の数学を思い出して下さい。求めるべき答えは、いつも問題文の中に示されています。『点Pの軌跡を求めよ』『回転体の体積の値を求めよ』『二辺が平行であることを証明せよ』——ゴールは全て決まっているのです。その場所へとたどり着くためには何が必要なのか、どの公式を、どの定理を用いたら良いのか、それを考えるのが受験における数学です。問題を全体で把握してその筋道を見つけるのです」

「なるほど」

「計画を立てるのも似たようなものです。まずは具体的で明確な目標をまず決めなくてはいけません。それが曖昧だと計画もあやふやなものになってしまいます。自分がたどり着きたい場所はどこなのか。そこにたどり着くために、何が必要か。今日することは何か。それらを計算して、計画を立てるのです。胡桃さんも、たどり着きたい明確な場所が明確に見えたら、自ずと道は見えます」

「……私のたどり着きたい場所」


 そのとき、5時を知らせるチャイムが鳴った。

 数美が腕時計をちらりと見て、ほんの少し残念そうな顔をした。


「すみません。塾に行く時間になってしまいました」

「——あ、ごめん。ありがとう」


 数美は申し訳なさそうに立ち上がり、空になったストロベリーパフェのグラスをお盆に載せて返却口に返した。話が中途半端になってしまったことを数美は気にしているようだった。カウンターの上の文房具を片付けながら、念を押すように、


「計画を立てるのに、予定を詰め込みすぎてはいけないし、足りなくてもいけません。始まりから終わりまで、無駄なくピースを当てはめるんです。この現実でできる限りの、論理的な因果をつなげるのです」


 スクールバッグを手にとって、


「正しく努力する。——そうすれば、きっと実を結びます。私はそう信じています」


 それでは、と角度45度のお辞儀をして、数美は学食を出て行った。


「……逆算、かあ」


 胡桃は天を仰いだ。


 自分がたどり着くべき場所。それはどこなのか、もう一度しっかりと確認してから計画を立て直さなくてはいけない、と思った。

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