第2話 乳首の理由
硫酸と硝酸の濃度の差による融解度の違いを調べる実験をしていた、とグルグル眼鏡は言った。
が、言われたところで胡桃には何のことだかさっぱり分からない。とにかく理科室に充満する煙たい空気を逃すべく窓を開いて換気をし、割れてしまったガラスの破片を片付けるために床を箒で掃かなくてはいけなかった。
彼女は御月女子校きっての弱小部として知られる理科部の部長だった。しかし部長と言っても名ばかりのもので、これまでリーダーらしき仕事をしたことがないのだと言う。
それもそのはずで、理科部には部員が彼女しかいないのである。
帰宅部の胡桃は当然知らないのだが、理科部の活動は週にたった1回しか活動がなく、もしも個人的な理由で理科室をつかう場合は、きちんと申請をしなくてはいけないらしい。その申請を毎度するのは面倒なので、こうして旧校舎に忍び込んで、こっそり実験をしているのだと合力真理は言った。
「もしも誰かに見つかったら、理科部は廃部になっちゃうの」
だから胡桃に見られていることに気づいたとき、相当驚いたのだという。理科部の廃部、理科室の使用禁止、二度と触れない実験器具たち――そんな場面が走馬灯のように頭を駆け巡り、気がつけばガーゼ片手に理科室を走り回ってた。
そうして二度目の爆発で我に返り、今こうして後片付けをしているのである。
「追いかけ回してしまって本当にごめんなさい」
理科室に散らばったガラスの破片を箒で集めながら、合力真理がしょんぼりとした様子で言った。
「後処理まで手伝わせちゃって、なんとお詫びしていいか」
欠けたビーカーを新聞紙で包んでいた胡桃は、いえいえ、と手を振って、
「大事にならなかったから結果オーライだよ。お互いケガもなかったしね。それに、覗き見してた私も悪いから」
笑顔ですんなりとそんな言葉が出てきたのは、事態が落ち着いて気持ちが大きくなったからかもしれない。
「また誰かに見つかっちゃったら悪いから早く片付けちゃお」
胡桃は新聞紙で包んだビーカーをビニール袋につめる。
真理は驚いたように胡桃を見て、ぼそりと呟いた。
「胡桃さん、アルカリ性の女の子だね」
「え? どういうこと?」
「アルカリ性だよ、アルカリ性。水素イオンの濃度より水酸化イオンの濃度の方が多い溶液のことだよ。小学校のときに勉強したでしょ?」
アルカリ性の女の子とはどういう意味なのか、ということを聞いたつもりだったが、うまく伝わらなかったようだ。胡桃は笑いながら頭をかいて、
「いやー、昔、リトマス紙の色を変えるとかなんとか実験した記憶があるくらいで、あんまり覚えてなくて。化学は苦手だったから」
「じゃあ、胡桃さんは『化学』選択じゃないんだね、理科は」
「うん。私は生物。化学とか物理とかは難しそうだったんだよね。生物だったら暗記が多いから、覚えるだけなら私にもできるかなって思って」
真理は少し不満げな表情をした。
「んー、生物は確かに覚えることも多いけど、ただの暗記科目にするにはもったいないよ。生命の神秘ってものすごく面白いんだもん。そう思わない?」
正直、そうは思わなかった。
生物の用語を暗記しながら、こんなことが何の役に立つのかと常々疑問に思っていたのである。人体の仕組みとか、DNAがどうとか、雄しべとか雌しべとか、――それを知ってどうなるというのか。
「ちょっと私には難しいかも。生物だけじゃなくて、理科自体がちょっと苦手なんだよね。この間の試験でも一番低かったし」
「ええ、もったいない。胡桃さんの体にだって、たくさん秘密はあるんだよ? たとえば、」
真理が胡桃の胸元を指さした。
「え? なに?」
「胡桃さんの乳首は何のために付いてるの?」
「――えっ? ち、乳首!?」
突然何を言い出すのか。
顔が赤くなったのが自分でも分かる。
ふざけているのだろうかと胡桃は思ったが、真理の表情には茶化したり冗談をいっている様子はない。
――何のためって、
胡桃は、とまいどい半分恥じらい半分といった口調で、
「えっと、赤ちゃんに母乳をあげるため……?」
うんうん、と真理は嬉しそうに頷いた。
「その通り。人間は哺乳類だから、生まれてきた子はみんな母親の乳を飲んで育つわけで、その母乳の出口として乳首はあるんだよね。これは他の哺乳類を見てもわかることで、犬や猫、牛もみーんな授乳のために乳首を使っているんだよ」
「う、うん」
とまどいの表情が顔に出ていたらしい。真理は胡桃の顔を見て、「くふふ」と笑った。
「じゃあ、なんで男の人にも乳首が付いていると思う?」
「――男の人に?」
胡桃は目を丸くした。
「なんでって……」
胡桃は言葉を切った。男性に乳首がある理由なんて考えたことがなかった。
「理由なんてあるの?」
「当然あるよ。人体に理由なくして付いているものは一つもないもん」
真理は嬉しそうに言った。
「男の人は普通、母乳は作らないよね。だから本来の役割である授乳もできないはずでしょ。でも、それなら男の人に乳首なんてなくてもいいって思わない?」
「……まあ、確かに」
「でしょ? 必要がないなら取っ払っちゃえば良いんだよ。必要なものは特化させて、いらないものは排除する、――生き物はそうやって進化を続けてきたんだからね。でも使わないにもかかわらず、男の人の胸には女性と同じように乳首が付いてる。一体どうして?」
――どうしてだろう。
その胡桃の表情を見て、真理は楽しそうに体を揺らした。
「これもね、高校の生物の内容で簡単に説明できるの。SRY遺伝子って覚えてる?」
胡桃は俯いてしばらく考えた。授業で聞いたことあるし、先生から説明してもらったことも覚えている、――けれど、
「……ちょっと曖昧かも。なんだっけ」
真理は人差し指を立てて、SRY遺伝子について説明した。人の性は二つの性染色体の組み合わせによって決定されること。その組み合わせがXXなら女性、XYなら男性であること。その男性だけが持っているY染色体には、SRY遺伝子という性を決定する遺伝子が含まれているということ。
真理の話を聞いているうちに、なんとなく授業の内容を胡桃は思い出してきた。
「ああ、そうだったかも。確か男性ホルモンを分泌する役割があるんだよね?」
「そう、それ!」
真理が嬉しそうに首を二度縦に振った。
「その遺伝子が関係しているんだけど、わかる?」
胡桃は首をひねった。正直言うと、それは全くのポーズでしかなかった。胡桃は理科が嫌いなので、なぜだろうと考える前に、「理科だから分からない」というフィルターが頭にかかってしまい、全く検討がつかなくなるのだ。
「……わかんない」
「実はね」
クスクスと真理は笑った。言いたくて仕方が無かったという口調で、
「男の人って、もともとは女の人だったんだよ」
3秒ほど真理の言っている意味を胡桃は考えて、――結局理解できなかった。
「……え? どういうこと?」
「つまり、母胎の中で受精した卵子は、男性女性にかかわらず、まず最初に女性の体になるの」
「……女性の体? みんなが?」
「そうだよ。人間の体は、女性が基盤になっているの。それでね、その体の染色体のなかに、SRY遺伝子があったとき、男性ホルモンが活発に働き出して、女性の体から男性の体になるの」
胡桃は自分の口が半開きになっていることに気づいた。
「えっと、つまり……、男の人の乳首って、女性だったころの名残ってこと?」
「そうそうっ。因みに、平均寿命が男性よりも女性の方が長いのは、これも原因の一つだって言われているんだよ」
「……そうなんだ」
――SRY遺伝子。
用語は知っていたが、それがまさか男性の乳首につながるだなんて思いもしなかった。
「ま、そんな感じでさ。私たちの身の回りのことに照らし合わせてみたら、生物ってものすごく楽しいんだよ。理科は私たちが住んでるこの世界のことをもっと知ろうって学問なの。自然界の現象にはすべて法則があるに違いない、と考えたのが物理学。目の前の物をばらばらに分解していくと最後には何が残るのかと考えたのが化学。そして、私たちはどのようにして生まれたのか、生物の神秘を解明しようとしたのが生物学。理科を勉強したら、この世界を知ることにつながるんだよ!」
ふう、と真理は息を吐いた。
「しゃべりすぎて喉が渇いてきちゃった。これからコーヒー淹れるから、一緒に飲もうっ」
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