第4章 旧校舎の変人!?

第1話 爆発

 御月女子校の自習室は休日にも解放されているので、胡桃は試験前になるといつも利用することにしている。家にいるとテレビや雑誌などの誘惑に負けてしまうから、というのもあるが、姉が自習室をよく利用していたのでそれを真似したいというのが本音だ。


 姉のお気に入りだった一番奥の席について勉強する。


 正午を過ぎると、胡桃は購買で弁当を買い、渡り廊下のベンチに腰掛けて昼食を取った。休日だというのに、学校の敷地内にはちらほら学生の姿が見える。おそらく部活動に参加しているのだろう。仲よさそうに話をしながら歩く女生徒たちをぼんやりと眺めながら、胡桃は弁当の鮭をつついた。


 昼食を済ますと、胡桃は自習室にはもどらず昇降口へと向かった。荷物を置いたまま自習室を離れるのは禁止されているのだが、旧校舎で消しゴムを拾ったらすぐに帰ってくるつもりなので大目に見てもらうことにする。それに、今日は自習室の利用者もさほどいないので、厳しく咎められることもないだろう。


 昇降口で靴を履き替え、旧校舎へと向かう。今日はとても晴れているが、それでもなお旧校舎はどんよりとした雰囲気をまとっていた。ホラー映画の舞台になりそうだというのも納得だ。


 裏口の扉を開け、靴を脱いで校舎の中へと入る。1人だからだろうか、少し昨日と校舎の空気が違う気がする。


 ——なんだろう。


 におい、が違うのかもしれない。昨日、数美と一緒に来たときはホコリっぽい匂いしかしなかったが、今日はほんのりとガスのような臭いがする。が、おそらく気のせいだろうと胡桃は思った。1人だから少し敏感になっているのだろう。


 忍び足で廊下を進み、階段を上った。こっそりと2年1組の教室に入る。昨日と同じ、ホコリの積もった机と椅子。


「——あった」


 昨日使った一番前の机の上に、ちょこんと置いてある消しゴムを見つけた。胡桃はそれを手にとって、


「ごめんね、もう忘れないからね」


 そんな独り言を呟くのは、消しゴムが見つかって機嫌が良いからだろう。胡桃は消しゴムをスカートのポケットに入れ、教室を出た。小さく鼻歌を歌いながら木造の廊下を歩く。



 ふと、声が聞こえたような気がした。



 胡桃は立ち止まった。背中に棒を通したかのように直立し、聞き耳を立てる。神経が高ぶり、しん、という音が痛いほど耳をついた。


 そして、その合間を縫って、確かに声が聞こえた。


 女性の声だった。

 ぼそぼそと、何かを言っている。


 背筋が凍る。


 忘れていた、ここは『学校の怪談』。人の近寄らない旧校舎だった。


 胡桃は歩き出す。早くここから離れたい。けれど一旦走り出してしまえばそれこそ怖くなるので、自ずと競歩のような足取りになる。廊下を渡り終え、階段を降りようとして、


 突然、


「きゃ——————!」


 背後からの悲鳴。


 階段を踏み外しそうになり、手すりを掴んでなんとか体勢を直す。振り返ろうとして、


 爆発音。


 度肝を抜かれた。


「——きゃあっ」


 抱きかかえるようにして手すりにしがみつき、胡桃は半泣きで天井を見つめる。2階ではない。おそらく3階からだろう。小さな爆弾が爆発したような音だった。足がすくんでしまって、胡桃は階段の途中でしゃがみ込んだまま動くことができない。


 心臓の波打つ音が、自分でも聞こえる。

 息をひそめたまま、胡桃は天井を見つめる。


 しかし、しゃがみ込んだ状態で、1分経っても、2分経っても、旧校舎の中は静かなままだった。すると、極度の緊張もピークを過ぎると、その反動なのか、驚くほど胡桃の心に冷静さが戻ってきた。さっきまでの恐怖心も、すっぽりと抜け落ちてしまった。心が麻痺してしまったのかもしれない。


 ——なんだったんだろう、さっきの。


 さっきの声は、幽霊ではなくて明らかに人だった。だれかがこの旧校舎にいるのだ。先生だろうか。あるいは生徒か。裏口から自由に出入りできるので、数美のように無断で利用している人がいるのかもしれない。


 胡桃は小さく息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。緊張して固くなった膝がポキリと鳴った。


 階段を一歩一歩音を立てずに3階まで上り、顔だけ廊下に出して様子を伺う。


『理科室』のと書かれた教室から、少し煙が出ている。


 安易に近づいていいものなのかどうか、少しその場で躊躇っていると、理科室から女の人の声。


「——あーあ、失敗しちゃったよ」


 少し鼻にかかった粘着質な声だった。


「——ちょっと硫酸の量が多すぎたね」


 ぶつぶつ呟く言い方——おそらく独り言だろう。その声の主以外に人の気配はない。声の感じからして、さっきの悲鳴はこの人だと思う。人がいることに少なからず安心して、胡桃は理科室へと近づき、後ろのドアからそっと中を覗いた。



 変人がいた。



 身なりからしてどう考えても変人だった。牛乳瓶の底のように分厚いグルグル眼鏡、アフロ一歩手前のようなボサボサの髪、焦げ痕や薬品のシミだらけでくたくたの白衣。手には緑色の薬品が入った試験管。なにが面白いのか、それを見つめる彼女の口には笑みが浮かんでいる。


 胡桃に見られていることに全く気づいてないようで、グルグル眼鏡はぼそぼそと独り言を続けている。


「次は濃度を薄くしてみよーっと。希硫酸にしたらおそらく平衡状態を保てるから、きっと失敗しないはずだもんね」


 机の横に広げたノートに、グルグル眼鏡は片手で器用に何かを書き込む。そして、次の実験の準備なのか、机の上の実験用具をごそごそと構い始めた。


 そんな様子を、胡桃は扉の陰から見つめている。しばらくして、胡桃はようやく思った。


 ——誰なんだろう。


 顔はよく見えないが、白衣の下に制服を着ているのでここの生徒なのだろう。こんなところにいるのだから理系クラスの生徒であることは間違いなくて、数美と同じように無断で旧校舎を使っているのかもしれない。


「ちょっと換気しなきゃねー」


 グルグル眼鏡が振り返った。想定してないタイミングだったので、胡桃はドアの外から教室を覗き込んだ状態のまま動けなかった。


 目が合う。


 一瞬の間。


「ん、んんんんん!?」


 胡桃がいたことによほど驚いたのだろう。グルグル眼鏡は文字通り飛び上がって、その拍子に座っていた丸椅子が弾け飛んだ。


「——ち、ちがうの、これは!」


 その後の彼女の慌てようといったらなかった。証拠隠滅のためか机の上の実験用具を片付けようとしたり、無理だと悟ったのか自分だけ逃げようとドアへ駆け込もうとしたり、しかしやっぱり道具はほったらかしにできないと戻ってきたり、椅子につまづいて転けたり、


「ああ! 見られちゃったよー」


 しまいには机の横にしゃがみ込んで頭を抱える始末。


「こんなことならきちんと申請しとけばよかったよー。こんな時間に人がくるなんて思わなかったんだよー」


 胡桃だって驚いた。目が合ったとき、全身の毛穴から汗が噴き出すほど焦りを覚えた。しかし相手が自分以上に慌てているのを見て、どうやら彼女も無断で旧校舎を利用しているらしいのだということを胡桃は悟った。


 胡桃は彼女のもとに駆け寄った。自分も無断で校舎に入ってきたのだから、安心して欲しいと伝えようと思ったのだ。


「あの、驚かせちゃってごめんなさい。私、」

「……しかたない」


 グルグル眼鏡がぼそりと呟いた。


「……口封じしよう」


 ——え?


 聞き間違いかと思う。


「すみません、今、なんて……?」


 しかし胡桃の質問にグルグル眼鏡は答えず、倒れていた丸椅子を立てて座わり、なにやら作業を始めてしまった。ポケットから白いガーゼを取り出し、机の上にあった茶色い瓶の薬品を数滴たらす。瓶のラベルには大きな字で『クロロホルム』と書かれている。


 クロロホルム。


 そういえば聞いたことがある。クロロホルムという物質には麻酔作用があって、一昔前は外科の手術で使用されたのだという。この前、夕食時に見たサスペンス系のドラマでそんな話をしていた。あのドラマでは、殺人犯がハンカチにしみ込ませて被害者の口を覆い、強引に眠らせてしまうというシーンで使っていたはずで——


 グルグル眼鏡と、再び目が合う。


 彼女の手にはクロロホルムがしみ込んだガーゼ。


「……え?」

「しばらくの間、寝ててもらいますね」

「ええ!? ちょ、ちょっと待、」

「科学の進歩に犠牲はつきものなのでっ!」


 言うが早いか、グルグル眼鏡は椅子を蹴り飛ばして胡桃に手を伸ばす。


「ひいっ!」


 反射的に胡桃は後ろへ体を反らし、足をもつれさせるようにして彼女から離れた。


 ここで、どっしりとした態度で彼女に向かい合い、言葉で解決しようとする姿勢を見せておけばまだ救いがあったのかもしれない。しかし、とっさの出来事に震え上がった胡桃の体は逃げることを選択し、そうして一歩逃げ足を出してしまった以上、二人の間には追うものと追われるものという構図が出来上がってしまった。こうなればもう取り返しがつかない。胡桃が捕まるか、あるいはグルグル眼鏡が疲れてあきらめるまで続く鬼ごっこの始まりだ。


「待てー!」

「いや———っ!」


 二人して理科室の中を走り回る。


「ま、待ってください! わたし、誰にも言いませんから! 誰にも言いませんから!」


 インドアな休み時間を過ごしてきた胡桃にとって、学校で走り回るなんて小学生の鬼ごっこのとき以来である。最初こそ調子良く机の間をすりぬけ、椅子を障害物にみたてて彼女から逃げていたつもりだったが、あっという間に疲れが来た。


「……だ、誰にも言いませんから……ホントに」


 いまや息も絶え絶えである。


 しかもこのグルグル眼鏡をかけた彼女、実験すること以外に能が無さそうなれのくせに、机の間を縫うようにして追いかける姿はまるでネズミを追う猫のように機敏なのである。理科室から逃げようにも、彼女に先回りされてドアへと近づくことすらできない。


「待ちなさーい!」

「……もう……勘弁……して……」


 勇ましい足音が後ろから近づいてくる。その距離は着実に狭まっている。


 もう無理だ、と胡桃は思った。


 が、鬼ごっこは思いがけないところで終わりを迎えた。走っていたのは数分にも満たない時間だったが、それでも運動不足の胡桃の足には相当こたえたらしい。


 椅子をよけようとした際に、足がもつれて胡桃は転けた。


 しかも、よりにもよってさっきまで実験が行われていた机に倒れ込んでしまったのである。ぶつかった拍子に卓上の実験用具や薬品が飛び跳ね、中身が飛び出してそれぞれが混じり合った。


 グルグル眼鏡が息をのんだのが、机の脇に倒れた胡桃にも見えた。


 ボソッと、


「……爆発しちゃう」

「……………………………………、ええ!?」


 膝が痛いと言っている場合ではなかった。胡桃はすぐさま立ち上がり、ドアへと逃げる。後ろから、グルグル眼鏡がついてくる。


「いや—————————————————————!!」

「きゃ—————————————————————!!」


 本日二度目の爆発音が、旧校舎に響き渡った。

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