第3話 アルカリ性の女の子
コーヒー豆をミルで挽くと、芳ばしい香りが理科室に漂いだした。
コリコリと豆を砕く音が机を伝わり、置いた手が少しくすぐったい。
「豆は酸化するから、できるだけ飲む直前に挽きたいんだよね。その方が、コーヒーの酸味が少ないから」
アルコールランプでお湯を沸かし、真理はまるで熟年のバリスタのような手際の良さでコーヒーをドリップした。
「はい、お待たせっ」
「あ、ありがとう。――ってこれ、」
胡桃は受け取ったコーヒーのグラスをまじまじと見る。
「ビーカー、だよね?」
「そうだよ。ふふ、ビーカーコーヒーってやつ。いかにも理系の実験室って感じでしょ」
真理は自分のコーヒーに砂糖を入れ、ガラス棒でビーカーをかき混ぜる。
「胡桃さん、砂糖いる?」
「あ、ちょうだい」
ビーカーには取っ手がないので、口部分を持たなくては熱くて仕方がない。真理に倣ってコーヒーに砂糖を入れる。ガラスとガラスがあたって割れないように注意しながらかき混ぜていると、なんだか自分も科学の実験をしているような気分になってくる。
「いつもこうして実験してるの?」
「まあね。なにか不思議なこととか、気になることがあったらここに来るんだ」
「……すごいなぁ」
ぽろりとこぼれ出てきた。
「実験が好きなんだね。真理ちゃん」
「うーん、実験が好きっていうより、気になることを自分の手で確かめなきゃ気が済まないんだよ」
そうかなあ、と胡桃は思った。コーヒーに口を付け、
「いや、やっぱり実験が好きなんだよ。だって、さっきやってた実験って教科書に載ってるんでしょ? 答えが分かってるのにわざわざ自分で同じ実験をするなんて、普通に考えたら意味がないと思うし」
真理のグルグル眼鏡がぎらりと光った。
「意味が、……ない?」
「うん。――いや、だって答えも全部載ってるわけでしょ? だったら教科書を読んで理解できたらそれで良いんじゃない? 結果が分かってることをやるなんて二度手間っていうか、効率的じゃないって言うか」
「……効率的?」
真理はビーカーを机にごつん、と置いた。
「そんなもの、硫酸に溶かしちゃえよ!!」
「――硫酸に!?」
「何が効率的だよ! そんなことを言っているから理科嫌いは増えるんだよ! そんなの、インターネットで写真が見れるから観光地には行かなくてもいいって言ってるようなものだよ! 現地の空気を、質感を、自分の目で見て、肌で感じるから感動するんでしょ。理科だって同じだよ。科学は教科書の暗記じゃないの。しっかりと肌で触れて、身をもって体験するから理科は楽しいの」
ビシッ、と音が聞こえるくらいの勢いで真理が指をさした。
「胡桃さん、さっき授業では『動物と生殖』の単元をやってるって言ってたよね。じゃあ、多分、教科書にはウニの受精の実験が載ってるはず。違う?」
「えーっと、うん。確かにあったかも」
「じゃあ、実際にウニの受精の実験をしてみようよ!」
「え?」
「今日は無理だけど、来週にでも準備を整えて一緒にここでやってみよう。そうしたらきっと理科が好きになれるはず。どう?」
胡桃は真理の顔を見る。
「――本当に私も実際にやってみたら、理科が好きになれるかな」
「なれる。絶対なれる。私が保証するよ。だって胡桃さん、理科を好きになりそうな顔をしてるもん」
なんだそりゃ、と胡桃は思った。
が、真理は真剣な表情なのである。奇抜な格好だし、行動もちょっとおかしいところがあるが、でも真理が理科を愛しているのはものすごく伝わってきた。彼女も、数美と同じような熱を持っているような気がした。
「わかった。私もやってみたい」
「じゃあ、決まりだねっ」
真理は心底嬉しそうに笑った。
「知識が経験に変わった瞬間に、生物は胡桃さんにとって、もう暗記科目じゃなくなるよ。じゃあ、ウニの用意とか、いろいろ準備が整ったら胡桃さんに連絡するね。来週には全部整うと思うから」
だから電話番号を教えて、と言われ、胡桃は真理と連絡先を交換した。
「ウニってどこで用意するの? 魚屋さん?」
「いやいや、なに言ってるの。ウニは海にいるんだよ?」
さも当然のように真理は言う。
「――え? まさか取りに行くの?」
「当然でしょ」
「いや、いままだ4月だよ? 海水とかめちゃくちゃ冷たいと思うけど」
「ああ、それなら大丈夫。ドライスーツを着るからね。私のおじいちゃん漁師だから、田舎に帰ったときはよく素潜りさせてもらってるんだ」
ドライスーツというものがどのようなものかを胡桃は知らなかったが、なんとなく水泳の選手が着るような全身水着を想像した。
「私、海って本当に好きなんだ。珊瑚が広がっている海底に色鮮やかな魚達が泳いでいるのを見ると、海って生命の母だって実感するよねぇ」
さらりとそう言う真理をみて、少しだけかっこいいと胡桃は思った。あまり自分から行動したことがなかったので、真理の行動力が羨ましかった。
――私も、ウニを捕り行くのについていきたいな。
そう思った。
そしてそう思った瞬間、姉の姿が頭をよぎった。机にしがみつき、食いつくようにして参考書を読む、姉の横顔。
浮ついた気持ちが現実に叩き付けられる。
そうだった。自分は受験生なのだ。暢気に遊んでいる暇なんてないのだ。それに、中間テストが2週間後に――
「――あっ!」
胡桃が声を上げ、真理が飛び上がった。
「――と、突然どうしたの!? ビックリするよ」
「ごめん、真理ちゃん。中間テストの勉強しなきゃいけないから、来週は無理だった」
胡桃は腕時計を見る。
ちょっとした休憩のつもりだったのに、自習室を出てからもう2時間も経ってしまった。自習室に勉強道具を置きっ放しなのだ。自習室に荷物を放置するのは禁止されていて、それを頻繁に行うと自習室利用ができなくなる。まさか一度で
「中間テスト? ――あー、そうだったね。忘れてたよ」
慌てる胡桃とは対照的に、真理はのんびりと言った。
「じゃあ、実験は試験が終わってからにしよっか」
「うん。ごめん、私自習室に荷物置きっぱなしだったの忘れてたから、もう帰らなきゃ。コーヒー、ありがとう」
胡桃は空のビーカーを真理に渡す。
え、と真理は驚いたようだったが、窓から差し込む西日に気づいて、
「あー、もうこんな時間だったんだ。わかった、また連絡するね」
「うん。じゃあまたね」
手を一度振って、胡桃は踵を返し出口へと向かう。
理科室を出ようとした際に、ふと、これだけは言っておこうと思った。
胡桃は振り返って、
「あの、今日はありがとう。時間を忘れて話をしたのって、久しぶりだったから、――その、楽しかったです。実験楽しみにしてるね」
グルグル眼鏡の奥で、真理の目が驚いたように見開かれた。そして照れるように笑って、
「私も楽しかったよー。ありがとう」
それじゃっ、と胡桃は敬礼のようなポーズをして、理科室を出て行った。
理科室に一人残された真理は、廊下を掛ける足音が遠ざかって行くのを聞きながら、手元のビーカーをくるくると回した。
くふっ、と笑って、
「やっぱり胡桃さんって、アルカリ性っぽい。触ると溶けちゃいそうだもん」
とっくに冷めてしまったコーヒーを一気にあおって、真理は鼻歌まじりにビーカーを流し台に持って行く。
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