第3話 生命の誕生

「じゃあ、胡桃さんもこれを着て」


 準備室から道具を理科室へ運び終えると、真理がカバンから新品の白衣を取り出した。


「用意してくれてたの?」と胡桃は聞いた。白衣の胸元には、「さくらくるみ」とピンク色で刺繍されていた。


「理科の実験には、欠かせないでしょ」


 そう言って、真理は笑った。


 胡桃は白衣を羽織った。それだけで、研究者になった気分だ。


 さっそく、2人で実験に取りかかる。

 ウニも生き物である以上、食事をするための口がある。「アリストテレスの提灯」とよばれるウニの咀嚼器そしゃくきからの下部分にあって、その口の周りの色で性別を見分けることができる。オレンジ色ならオス、白色ならメスである。


 胡桃はウニを手にとった。持って初めて気づいた。無数にある小さい針が、ちょっとずつ動いている。表情も何もないのに、生きているということを途端に意識した。自分が手にしているのは、生き物なのだった。


 裏側の口の部分をみると、オレンジ色をしていた。雄だ。


「じゃあ、精子の摂取といこう」


 真理はウニの口部分をピンセットでくりぬき、海水で満たしたビーカーの頂上に乗せた。すっぽりと穴が空いた口部分に、塩化カリウム水溶液を数滴垂らす。すると、ウニの背中部分から白い精子がサラサラと出てきて、ビーカーの底に流れ落ちていった。


「わあ、精子だ」と胡桃は見たままのことを言った。

「じゃあもう一つのビーカーに卵子を摂取しましょ。やってみる?」

「うん」


 発泡スチロールから雌のウニをとり、真理がやったように口部分を取り除く。ぽっかりと穴の空いたウニを見て、なんだか可哀想に思うのは、多分研究することに慣れていないからだろう。今の生活があるのは、多くの命の犠牲の下に成り立っているんだなあと、漠然とした考えが頭をよぎった。


 スポイトで塩化カリウム水溶液を2、3滴垂らすと、雄と同様、背面からオレンジ色の卵子が出てきた。


「これが、——卵子」


 見たままのことを胡桃は再びつぶやいた。


「じゃあ、これを顕微鏡で見てみることにしようか」

「あ、ちょっと待って」さっさと準備に取りかかる真理の手を、胡桃は制した。「せっかくだから、次は私が先にやりたい」


 真理はその言葉がとても嬉しいようだった。


「分かった。じゃあこっちきて」


 胡桃は真理の椅子に座り、スポイトを手に取った。真理に教示を受けながら、精子の漂う海水をスポイトの半分くらいまで吸い取り、それをプレパラートの上に垂らす。そして、その上にガラスを乗せ、顕微鏡にセット。


 胡桃は教科書を見る。顕微鏡は40倍にすると書いてあるので、それにならって胡桃も倍率を合わせる。


「——これで、良いのかな」

「覗いてみて」


 覗いた。ねじを回して、ピントが合うように調節する。


「……わあ、すごい」


 ピントが合った途端、無数の精子が動き回っている様子が目に飛び込んできた。肉眼ではただの海水の一滴に過ぎなかったのに、こうしてレンズを通して見たら、そこにはたくさんの物体がいた。右へ左へ、上へ下へ、無数の精子が元気よく動き回っている。先端の丸い部分が頭部、うねうねと動いているのが尾部、そしてそのつなぎ目のところが中片部。一問一答の参考書で必死に覚えた知識が、いまこうして頭に浮かんでくる。


「じゃあ次は卵子を見てみよう」


 すぐ横の真理の言葉ではっと我に返った。胡桃は顕微鏡から目を離し、先ほどと同様に卵子の海水をプレパラートに垂らす。顕微鏡にセット。


 覗く。

 卵のサイズは精子に比べてとても大きい。激しく動き回る精子とは違い、卵子はあまり動かない。なるほどこうしてみるとそれも当然のように思った。卵子が無駄にエネルギーを使えば、すぐに力尽きてしまう。それぞれに役割があるのだ。


 受精するとどうなるんだろう。


 胡桃は教科書を食い入るようにして読んだ。記載されている通りにペトリ皿に卵子の入った海水を入れ、そこに精子が含まれた懸濁液をスポイトで垂らす。それらを再び顕微鏡にセットし、レンズを覗く。


 卵子の周りを精子が動き回っている。受精しようと、無数の精子が卵子に群がっている。


 ——あ、


 受精した。


 卵子の周りに膜が出来る。この名前は受精膜、これ以上精子が近づかないように作られるのだ。


「真理ちゃん、これっていつくらいに分裂が起きるの? ウニって発達が早いんだよね」

「そうだよ。だいたい、1時間くらい」

「……1時間か」


 ——早く見たい。


 顔に出たらしい。胡桃をみて、ふふっと真理が笑った。


「実際に見てみたら楽しいでしょ?」


 胡桃はゆっくりと頷いた。


 確かに、楽しいと思った。教科書の中でしか見たことない物体が、目の前で動いている。教科書に載っている事柄が嘘だと思ったことはない。——思ったことはないが、それが本当だという実感もなかった。それらは自分たちとは全く無関係なところにある世界のものだった。


 だけど、たしかにここに生き物はいた。目の当たりにしてしまった。新しい世界を見つけたような、妙な高揚感があった。自分が知らないだけで、世の中には面白いもので溢れていると思った。


 ——生命の神秘ってものすごく面白いんだもん。


 かつての真理の言葉が頭をよぎる。 


「私、もっと生物のことについて知りたいかも」


 うんうん、と鼻歌まじりに真理はチョークを手に取った。


 真理は黒板にウニの絵を描きながら、それぞれの現象を説明した。必死になって頭に詰め込もうと思っていたあの知識が、今は驚くほどすんなりと頭の中に入ってきた。


「じゃあ次、私の番ね。顕微鏡かして」


 一通りの説明が終わると、真理はそう言った。ウニの受精に熱中していたので、胡桃は顕微鏡を独り占めしていたことに気づかなかった。


 卵子の分裂が起きるまで待たなきゃいけない。その間、何をしていようかと考えていると、机の上に「実験ノート」とマジックで書かれた大学ノートが置いてあるのに気づいた。実験中にいつも真理が何かを書き込んでいるノートだ。


「この実験ノートっていうの読んでもいい?」

「うん」


 真理は精子と卵子の海水を混ぜるのに夢中のようで、顔も上げずに答えた。


 胡桃はノートの表紙をめくった。てっきり実験の概要などが書かれていると思っていたが、ノートの1ページ目には、たった一言、大きな文字でこう書かれていた。



『失敗は成功の母』



 突然の格言に胡桃は意表を突かれ、しばらくその言葉をじっと見つめた。


 ——失敗は成功の母。


 顔をあげて、真理の方を見る。


 真理は顕微鏡を覗いているところだ。受精する卵子の様子に集中していて口が半開きになっている。


 胡桃はノートに視線を戻す。

 その次のページからは、これまでに行ってきた実験のまとめがずらりと書かれていた。お世辞にも綺麗とは言えない字がズラズラと並び、ところどころ重要そうな単語が丸で囲われていて、そこから矢印があちらこちらに飛び交っている。


 正直、何のことかさっぱり分からない。


 ——でも、


 胡桃はパラパラとページをめくった。所狭しに書かれたメモ。黒鉛で黒ずんでしまったノートのページ。


 本当に実験が好きなんだ、ということは伝わってくる。


 実験の意味なんて全く分からないのに、胡桃は夢中になってそのノートを読んでいた。そして、何ページか進んだときに、胡桃の手が止まった。


『4月28日』


 化学薬品による爆発のことが書かれている。


「……実験中の不注意行為による爆発?」


 ——これって、


「ねえ、真理ちゃん」

「んー?」

「この4月の28日のやつ。爆発がどうとかって、もしかして」

「ああ、胡桃さんと初めて出会った日だね」


 真理は間髪入れずに答えた。顕微鏡から顔を上げ、


「あのときは本当にごめんね。薬品の近くで走り回るなんて普通に考えて危ないよね」

「ずっと記録しているの? ミスしたことを」

「うん。私、よく失敗しちゃったりするんだよね。だから、同じミスをしないようにしてるの。そうすれば、次に成功する確率は上がるから」


 にこっと真理が笑った。

 その顔を見て、鼻の奥にツンとした痛みが走った。


「真理ちゃんは、強いんだね」


 ぽろりと、そんな言葉が胡桃の口からこぼれてきた。

 真理が、手を止めて心配そうな顔をする。


「どうしたの?」

「え?」

「胡桃さん、悲しそうな顔してる」


 真理の優しい口ぶりに、胡桃はすがりたくなった。


「私には、無理。ミスしたら、立ち直れない。失敗したときに、自分を嫌いになっちゃうから。どうして自分はダメなんだろうって、思っちゃうから」

「何か、あったの?」


 胡桃はしばらく唇を噛みしめていた。


「米園英梨華って、知ってる?」

「生徒会長さんだね。知ってるよ、もちろん」

「米園さんと、勝負をしていたの。中間テストでどっちが多く点数がとれるかって。だけど、それで全く点が取れなくて。——勝負にすらならなかった。勝負を受けたこと自体が、おこがましいなって。自分が情けなくて、消えてなくなりたいって思って。真理ちゃんみたいに、そんな前向きになれない」


 んん? と真理は首をかしげた。


「そんなに自分を責めない方がいいよ。失敗したら、他の誰かがちゃんと自分のことを責めてくれるからそれでいいじゃない。自分は次に同じ失敗をしないようにすれば良いだけだよ」


 真理が胡桃のそばまで来て、


「胡桃さんは勝ちたかったんでしょ? だったら、どうして負けたのかを考えて、次は勝つようにしたらいいんだよ。何度もそれを繰り返したいいのよ」

「……そうかな」

「そうだよ。今だって、胡桃さんは米園さんに勝ちたいんでしょ?」

「……うん」


 勝ちたい。できることなら、もう一度勝負して、英梨華に勝ちたい。


「じゃあさ、勝とうよ。胡桃さんの方から、勝負を挑んでね」


 にっと歯を見せて真理が笑った。

 その顔を見て、胡桃も笑った。


「私から。——うん。そうだね」

「そうと決まれば、すぐに言いに行こう。生徒会長さんは今どこにいるの?」


 いるとしたらおそらく生徒会室だと思う。ついさっき教室で2年生とそんな話をしていたのを聞いた。しかし、


「今日はいいよ。明日教室で会うから、そのときに、」


 真理は首を横に振った。


「せっかくその気になったのに、いま動かなきゃどんどん萎んでいっちゃうよ。思い立ったらすぐ行動、だよ」


 ——思い立ったらすぐ行動。


 グルグル眼鏡の奥で、真理の大きな垂れ目が優しく笑った。


「私はここで待ってるから。ね?」


 胡桃は立ち上がって、


「ありがとう、真理ちゃん。ちょっと行ってくる」

「うん、いってらっしゃい」


 真理に背中を見送られて、胡桃は理科室を飛び出した。


 気持ちが高ぶっている今、この今のうちにはっきりと言ってやらなくては。

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