第2話 人間解剖実験サンプルA

 英梨華は今日も生徒会の用事があるようだった。


 二人が教室が出て行くのを横目で見て、胡桃はゆっくりと息をついた。他人と比較する必要はない。自分は、自分のために、勉強をするのだ。


 胡桃は帰り支度をすますと、ポケットから携帯電話を取りだした。

 昨日届いた真理からのメールを確認する。


『ウニが手に入りました! 明日の午後4時半に理科室で待っています!』


 約束の時間には少し早いが、なんだか歩き出したい気分だったので、胡桃は理科室へと向かった。


 昇降口で靴を履き替え、人気のない旧校舎の裏口からこっそりと中に入る。駆け足気味に階段を上り、理科室の扉を開けた。


 理科室の中を見渡す。


「——真理ちゃん?」


 理科室には誰もいなかった。


 その代わりに、いつも真理が使っている机には発泡スチロールの箱が置いてある。胡桃はそのふたを空けて、


 ——わあ、


 4匹のウニが入っていた。思っていた以上に平べったいウニで、とげはそんなに長くない。胡桃は人差し指でちょんちょんとウニをつつきながら、これを真理が取りに行ったのかと思うと少し羨ましい気持ちになった。自分もこうやってやりたいことのために真っ直ぐに行動できたら良いなあ、と思う。


 胡桃は発泡スチロールの蓋を閉じ、理科準備室の扉を開いて中を覗いた。窓が小さいため薄暗い理科準備室。人がいる気配はない。


 約束の時間までまだ30分ほどある。胡桃は椅子に座って真理が来るのを待つことにした。


 しんとした静寂。


 この間は真理がいたからあまり気にならなかったが、こうして一人でいると理科室が蜘蛛の巣まみれであることに気づく。用具棚の中でホコリを被るビンには干涸らびた爬虫類はちゅうるいの死骸がたくさん入っていて、その脇にはかつて教科書として使われていた本が日焼けして倒れるように置いてある。つま先に体重移動するだけできしむ木造の床。針が外れてのっぺらぼうの壁時計。締まりの悪い蛇口からしたたる水がピチャピチャと音を立て、劣化してかみ合わない窓からほんのりと生暖かい外気が滑り込んでくる。


 ああ、ダメだ。

 胡桃はうつむき、ブラウスの胸元をぎゅうっと握った。


 怖くなった。


 一度そう思ったらもうどうしようもない。理科室の隅にたたずむガイコツの標本は今にも動き出しそうだし、用具棚の引き戸の隙間から誰かがこちらを覗いているような気がする。


 帰りたくても、体がすくんでしまって、その場を動けない。


 視線をさまよわせているとガイコツや用具棚の中の誰かと目が合ってしまうかもしれない。かといって目を閉じるとそれこそ怖いので、胡桃は机の角の一点を凝視する。気がつかないうちに奥歯に力が入る。


 突然だった。

 じりりり、とけたたましいベルの音がした。


「きゃあっ!!」


 腰が抜けた。理科準備室からだった。ベルの音はすぐに止んだが、一度地面に崩れ落ちた胡桃の体はもう起き上がることが出来ない。胡桃は目の前にある椅子の脚をぎゅっと抱きしめ、背中が隠れるよう壁まで後ずさった。


 理科準備室から、人のうめき声が聞こえた。


 今度は間違いなかった。だれかが理科準備室にいる。いつからいたのか、どうやってここまで来たのか。全然気づかなかった。自分がこの理科室に来てから、人の気配なんて一度も感じなかった。


 準備室で、だれかがごそごそと動いている。その足音が、やがて理科室と準備室をつなぐ扉に向かって歩いてくる。すぐそこだ。木造のドアの向こう。ホコリとヒビとガムテープだらけのガラスの向こうに、人影が見える。


 胡桃の想像力がフル回転する。


 あそこにいるのは薄汚れた人体模型で、かつての生徒が悪戯で隠した心臓を探し回っている真っ最中なのだ。さっきのベルが、妖怪たちの活動するきっかけなのだ。今から出口に行っても、もう扉は開かないだろう。自分はこの旧校舎に閉じ込められたのだ。自分はこれから人体模型に「心臓ヨコセ」と校舎中を追いかけられ、解剖台に磔にされ、人間の解剖実験のサンプルAにされるのだ。


 理科室の隅にたたずむガイコツは、かつて身ぐるみ剥がされた生徒のなりの果てだ。自分の行く末はあそこなのだ。


 恐怖で身動きができない。胡桃は自分の椅子の足をぎゅうっと握り、涙を浮かべた目で扉を凝視したまま硬直している。


 人影がドアノブを握った。


 油の足りない音を立てて、


 ゆっくりと、


 ゆっくりと、


 ゆっくりと、ドアが開き、


 人影の姿が、




「ふぁ~~。よく寝たぁ」



 真理だった。眠たそうな目をこすり、ぼさぼさの頭をかいて、


「ん、胡桃さんもう来てたんだ。——あれ? どうしたの、椅子なんか持って、」

「真理ちゃーん!!」

「うおおっ! ど、どうしたの?」


 突然抱きついてきた胡桃に真理は目を白黒させた。


「こ、こわかったよぉ」


 真理の白衣にしがみついて、胡桃はびいびいと泣いた。


 しばらくすると胡桃もだんだん落ち着いてきた。てっきり人体模型に解剖されるかもしれないと思ったと話すと、真理は笑った。


「でも、真理ちゃん。いつ準備室に来たの?」

「授業が終わってから、ずっといたよ」

「え? でも、さっき確認したけど、」


 そう言うと、真理は準備室へと付いてくるよう言った。真理の後を追い、準備室に入ると、作業台の影に緑色の寝袋が落ちていた。枕元にはご丁寧に目覚まし時計まで置いてある。胡桃は寝袋を手に取った。少し生暖かい。


「昼寝してたの」と真理は言った。

「……こんなところで?」

「うん」

「——なんでわざわざ学校で?」

「眠たかったんだもん。眠たいときは眠るのが一番でしょ」


 胡桃は部屋の中を見渡す。ここは幽霊が出るとうわさの旧校舎なのである。それもよりにもよって理科準備室。こんなことを言うと失礼かもしれないが、そこら中に不気味なものがたくさんある。ビニールシートを被った人体模型。真っ赤な液体が入った瓶。まるで人の顔のような壁のシミ。こんなところで一人で眠るなんて、正気じゃない。自分なら100万円積まれても絶対に断る。


「じゃあ、眠気も取れてすっきりしたところで、実験を始めましょっ」


 真理は一度大きく伸びをすると、心の底から清々しそうな表情を浮かべた。公園を走り回る子供のように、純真無垢な顔だと胡桃は思った。

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