第4話 梅雨明け

「そういえば、前にいた不審者。あれ以来音沙汰ありませんね」


 生徒会室である。2年生の修学旅行の宿を決めるために英梨華がタウンページをめくっていると、やることリストをまとめていた有村が思い出したように言った。


「覚えていますか? あの刀を持ったサムライみたいな不審者」

「覚えていますわ」


 英梨華は面倒くさそうに答えた。


 あいつが何物なのか、今の英梨華は知っていた。後日、なぜだか分からないが向こうから連絡をよこしたのだ。なんてことはない。3年C組の社城小町だ。英梨華のカバンの中に三つ折りされた「詫び状」の紙が入っていたのだ。先日、生徒会諸君に多大な労力を掛けさせたのは私、社城小町の軽率な行動によるものである。ここで罪を覆い隠すのは我が武士道に反する。この罪を詫びる意を込めて、ここに謝罪しよう。御免——


「……下らないですわ」


 はあ、と英梨華は小さくため息を吐いた。


「え?」と有村が聞いた。

「なんでもありません。おそらく生徒会のしつこい探求に恐れて、逃げ出してしまったのでしょう」

「……だったら良いんですけど」


 有村はペンをくるりと回して、


「あのときは大変でしたよね。2時間ちかく校舎を走って、みんなヘトヘトでした」

「本当ですわ」


 英梨華は目頭を押さえた。


「あれのせいで、家庭教師の時間に遅刻してしまいましたし」

「え? 生徒会長、家庭教師を受けていたのですか?」


 しまったと思っても後の祭りである。英梨華はなるべく何気ない口調を作って、


「ええ。ちょっと苦手なところを補おうと思ったのですけれど」

「意外です。会長に苦手な科目があったなんて」

「まあ、でももうやめてしまいました」


 有村が目をキラキラと輝かせた。


「なるほど、もう完全に理解なさったってことですね。さすが会長」

「——ええ、まあ」


 これ以上詮索されたくなかったので、英梨華は手にしていたタウンページをパタンと閉じ、


「ちょっと、お手洗いに行ってきますわ」

「あ、はいっ」


 別に本当にトイレに行きたかったわけではないのだが、とくに他に行く当てがあるわけではないので素直に向かう。


 手を洗い、鏡で自分の髪を整えながら、英梨華はぼそりとつぶやいた。


「家庭教師……ですか」


 文嘉とは先週の日曜日に別れてから、もう一度も会っていない。同じ棟なので鉢合わせる機会も多いはずだが、向こうが避けているのかもしれない。


 ——胡桃やからそう思ったんとちゃうの?


 ふう、と英梨華は息をついた。


 今さら気づいたところで、何もかも遅いのである。文嘉が言っていたことは、間違っていなかったのかもしれない。昨日と今日、胡桃のことを見ていて、それを英梨華はそう思うようになった。


 悪いことをしてしまった、と思う。


 これから、どのように話をしたらいいのだろう。胡桃にしても、文嘉にしても、どのように接していけば良いのだろう。こういうとき、どういう行動を取ったら良いのか、わからない。


 ぽたり、と蛇口から滴が垂れて、英梨華は鏡の中の自分がものすごく深刻な表情を浮かべていることに気づいた。


 ——らしくないですわ。


 ふふ、と英梨華は自嘲した。米園家長女のこの自分が、うじうじ悩むだなんて似合わない。トイレで一人、あれこれ考えるくらいなら、いっそのこと胡桃に直接会って、思っていること全てをはっきりと伝えるほうが良いに決まっている。


 簡単なことだ。


 たった一言。ごめんなさい、と言うだけだ。


 これまで、英梨華はあまり謝るということをしなかった。謝るというのは、自分の非を認めることであり、それを頻繁にすると、謝罪するという行為の意味が軽々しくなる。簡単に「すみません」という人は信用できないと英梨華は思っていた。


 しかし、今回はしっかりと謝るべきなのだ。


 教室で胡桃と会ったら、今度こそきちんと話しかけよう。そして、自分がした失礼な言動を、きちんとわびよう。


 そうしよう。


 英梨華は一度うなずき、トイレの出入り口へと体を向けた。



 そして、廊下にいる佐倉胡桃と目が合った。



「——え?」


 何が起きたのか、英梨華は理解できなかった。トイレの入り口の前で、佐倉胡桃が息を切らしてこちらを見ていた。


 悩みもここまで深くなると、ついに幻覚を見るようになるのか。


 ここは特別棟の3階であり、今の時間は生徒会役員である有村と自分しかいないはずなのだ。一般の生徒である胡桃が、こんなところにいるわけがない。


「……見つけた」


 胡桃がつぶやいた。


 そしてブレーキとアクセルを踏み違えた車のように、胡桃が勢いよくトイレに入り込んできた。


「見つけたっ!」


 胸ぐらを捕まれるかと思うほどの勢いだった。常に堂々とした立ち振る舞いをするよう心がけている英梨華だが、さすがに今回はひるんだ。目の前にいるのは、間違いなく佐倉胡桃だった。


「さ、佐倉さん。——どうしてここに?」


 一足一刀の間合いで、胡桃が英梨華を指さした。


「英梨華ちゃんを探してたの!」


 さらにひるんだ。同級生から「ちゃん」と呼ばれるのは初めてのことだった。

 胡桃は勢いで押し切ろうとしているのか、半ばやけくそのように、トイレ中に響き渡る大きな声でこう言った。


「英梨華ちゃん! 今度の学力試験、私と勝負して下さいっ! ——いや、しなさい!」

「——しょ、勝負?」

「そう! 今月の終わりに、2回目の学力試験があるでしょ? それで私と勝負して下さい」


 なんだこれは、と思う。今まさに、勝負のことを謝罪しようと思っていたのに。こんな無意味な争いごとを引き起こして申しわけなかったと、そう言おうと思っていたところだったのに。


「——佐倉さん。わたくしはもう、そういった勝負はやめようと思っているのです。実は、」

「なに? もしかして負けるのが怖いの?」


 ——はあ?


「あの、なにを、」

「私、この間の試験で英梨華ちゃんに負けた原因がなんだったのか、ようやく気づいたの。自分に足りないものが。だから、次は絶対に負けない。もう負ける気がしないの」


 両手を広げ、大袈裟に首を振って、佐倉胡桃が言った。


 英梨華はもう開いた口がふさがらない。


 これはなんだ、一体どうしたというのか。


「次は絶対に自分の実力で勝ってみせる。もう偶然だとか、たまたまで1位だなんて言わせない」


 そして、再度胡桃は英梨華を指さした。


「1位には、下位からの挑戦状を受ける義務があるんでしょ?」


 言ってやった、とでも言いたげな満足そうな笑顔。


 ——なんですかその顔は。


 その自信に満ちあふれた顔はいったいなんなのだ。悩みも何もかも解決したような妙にすっきりとした顔をしやがって。つい先日、136位をとって泣きそうな顔をしていたのは何処のどいつだ。


 気に入らない。


 むらむらと、英梨華にある感情が芽生え始めた。

 この高揚する気持ちは、最近ご無沙汰だったあの感覚だ。


 ——気に入りませんわ!


「良いでしょう! 受けて立ちますわ! わたくしも、中間試験で勝っただけでは物足りないと思っていたところです。きちんと学力試験で結果を示して、二度とその減らず口をたたけないようにして差し上げます」

「いいや、今度こそ私が勝つもん。残念だけど、英梨華ちゃんはもう1位を取ることはできないから」

「あれだけ大差を付けて負けたくせに、わたくしにそんな口がきけるだなんて、——ほほ、失笑を禁じ得ません。ご冗談にしてはなかなかセンスがありますわ。コメディアンを目指すのはいかがでしょう」

「笑ってられるのも今のうちだからね。数週間後には成績表見てむせび泣いてるに違いないんだから」

「おやめになってください。可笑おかしすぎて腸がよじれます。まあせいぜいそのユーモアを試験後になってもお忘れにならないよう願ってますわ」

「私だって、英梨華ちゃんの落ち込んでいる姿を見て、口から腸が出るほど大笑いしてやるんだから!」


 胡桃が英梨華を指さして、


「じゃあ、次回の学力テスト、この間と同じように成績表の順位で勝敗を決めるから。順位が高ければ勝ち。そうでなければ負け。それで良いね」


 にこりと英梨華も笑う。


「もちろんですわ。あなたのその自信がどれほどのものか、見せてもらいましょう」

「じゃあ、また明日。学校で」

「ええ、ごきげんよう」


 胡桃は踵を返して、トイレから出て行った。


 英梨華はしばらくトイレの中で立ち尽くしていた。鏡を見ると、金色の髪がきらりと輝いた。


 夢から覚めたような気がした。


 ——ふふ、ふふふ、


「お——————————————————っほっほっほ!!」


 あの女。

 佐倉胡桃め。


 やっぱりそうだ、あの女を見ていると無性に腹が立つのだ。


 何が「謝らなくてはいけない」だ。そんなことで悩んでいた自分が本当に情けない。つい10分前までの自分を張り倒してやりたい。


「……見ていなさい、佐倉胡桃」


 あの憎き女を、今度こそボッコボコのケチョンケチョンにしてやる。


 ずかずかと廊下を歩き、英梨華は生徒会室の引き戸を勢いよく開けた。


「あ、お帰りなさい」


 急須のお茶を入れ直していた有村が振り返った。


「ただいま。遅くなってしまってすみません。ちょっと気に入らない用事が入ったので、さっさと作業を終わらせましょう」


 え、と目を丸くする有村の横を大股で通り、英梨華は生徒会長の席にどすりと座った。


 のんびりと生徒会の仕事にかまけているような時間はない。今度こそあの憎き佐倉胡桃に思い知らせてやらなくてはいけない。この自分に勝負を挑むことがどれだけ無謀なことなのか、米園英梨華という女がいかにすごい存在なのか。


 電気ポットの横で目を丸くしている有村に向かって、


「有村さん。あなたはしおりに誤字脱字がないか確認してください。わたくしはこれから宿泊する宿をリストアップして、各所にアポイントを取りますから」

「え? ——あ、はい。このお茶を煎れ直したらすぐに取りかかります」


 慌てて湯飲みにお茶を注ぐ有村を横目に見て、英梨華は豪快に腕をまくった。


「さあ、さっさと作業を終わらせてしまいましょう!」


 タウンページを開き、候補になりそうな宿のページに付箋を貼り付けていく。


「お、お茶です」


 有村が遠慮がちに湯飲みを持ってきた。英梨華はそれに礼を言って受け取り、熱々のお茶に口を付ける。 


「——あ、あの、生徒会長」

「どうしました? 有村さん」

「トイレで、何かあったんですか?」


 英梨華は大袈裟に肩をすくめ、首を左右に振った。


「いえ、たいしたことはありません。嫌いな人とばったり出くわして、少々気に入らないことを言われて、無礼な申しつけをされただけですわ。ただそれだけです。心底不快ですけど仕事に支障を来すことはありません。さあ無駄口なんて叩かずにさっさと仕事を終わらせましょう。こうした不愉快なときは作業に没頭して我を忘れるに限ります」


 しかし有村は困惑したような表情で突っ立っている。


「……あのう、会長」

「まだ何か?」


 おずおずと、有村は英梨華の顔を指さした。


「会長、……なんで嬉しそうなんですか?」

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