第2章 理系クラスの秀才

第1話 校長室

 翌日、放課後になると、胡桃は担任の大貫と一緒に校長室へと向かった。


「――し、失礼します」


 職員室の横に校長室があるのは知っていたが、中に入るのは初めてなので少し緊張してしまう。校長室には来客用のテーブルとソファがあって、その奥に校長専用の高級そうな机がどっしりと構えている。校長はそこに着き、資料に目を通していた。胡桃を見ると、老眼用の眼鏡を取り外し、柔和な笑みを浮かべた。


「ああ、あなたが佐倉胡桃さんねっ。そちらへどうぞ」


 校長に促されるまま、胡桃は三人掛けのソファに腰掛けた。自分の他に生徒はいない。


「もうちょっとしたら理系クラスの子が来るから」と大貫は言い残して、校長室を出て行った。


 校長が執務をしているようなので、胡桃は黙ってソファに座っている。校長室の重厚な内装に居心地の悪さを感じながら、その「理系クラスの子」とやらが来るのを今か今かと待っている。


 コンコン。


「どうぞ」と校長が言った。

「失礼します」


 入ってきたのは赤い眼鏡を掛けたショートヘアーの女生徒だった。とても小柄で、前髪を几帳面なほど真っ直ぐに切りそろえている。まるで生まれたときから表情を動かしたことがないかのような感情の乏しい顔つき。


「ああ、まどかさん。どうぞ」


 校長が言った。胡桃のときとは違い、呼び方に慣れがあった。


 その名前を聞いたとき、胡桃はピンときた。理系クラスの上位にはいつも彼女の名前があった。御月女子校は理系と文系で棟が別れているので、顔を見るのはこれが初めてだ。


 円と呼ばれた女生徒は胡桃を一瞥いちべつし、胡桃の横に座った。


 自分以外の生徒が来てくれたことに胡桃は少なからず安心して、「こんにちは、佐倉胡桃です」と愛想よく言ってみた。


「こんにちは。まどか数美かずみです」と彼女は淡々と答えた。


 円数美は、寡黙な人のようだった。挨拶を交わした後、数美はもう話しかけないでくれと言わんばかりに黙り込んでしまった。しかし、言葉はないもの、胡桃のことを意識しているのはなんとなく分かった。


「さて、そろったので始めましょうか」


 校長が二人の前にゆっくりと腰掛けた。


 校長の話によると、試験後にはこうして理系クラスと文系クラスのそれぞれ1位の生徒に賞状を渡すことにしているらしい。


 校長は賞状に書かれたことを読み上げ、胡桃と数美に渡した。そして胡桃に対して、成績が急上昇した理由は何か、春休みはどのように勉強したのか、などといくつか質問をした。胡桃がたどたどしくその質問に答えると、校長はにっこり笑って「今後の成績にも期待しているから頑張って」という励ましの言葉をかけてくれた。数美はここの常連だからだろう、校長はあまり多くは語らず、「これからもこの調子で」というシンプルな助言で終わった。


 隣の数美は録音された音声を再生しているかのような単調さで「はい」と答えていたが、胡桃は校長から褒められることなんてなかったので嬉しくて天にも昇りそうな思いだった。


「失礼しました」


 話が終わると、二人で頭を下げて校長室を出た。ちょっとだけ気持ちが大きくなっていたので、胡桃は数美に話しかけた。


「円さんって、いつもあそこに呼ばれるんだよね?」


 数美はニコリともしない。


「いつもではありません。1位になったときだけです」


 スタスタと廊下を歩く数美を追うようにして、胡桃は話を続ける。


「でも、私いつも成績上位者の掲示板で円さんの名前をよく見てたもん。理系クラスではほとんど1番だったよね。――私、初めて校長室に行ったからすっごく緊張しちゃった」

「そうですか」


 数美は全く目を合わせてくれなかった。胡桃は数美の端正で賢そうな横顔をじいっと見た。彼女と、米園英梨華が並んでいると、それはそれはいかにも『デキる人たち』に見えるだろうなあと思う。


「ねえ、ここで米園さんと2人になったらどんな話をするの?」

「特にこれといって話はしません。すぐに別れます」

「そうなの? でも1年生のときから一緒なんでしょ?」

「確かに1年生のときから知っていますが、話はしません。米園さんもお忙しいでしょうから」


 もしかしたら、怒っているのかもしれない。


 そう思うくらいに、数美の言葉には愛想がなかった。これ以上話しかけてくるなと言われているような気がしたので、これはさっさと会話を切り上げた方が良いと思い、


「そっか。私も円さんに追いつけるように頑張るよ。今回は運が良かったんだよね。全部選択問題だったし。ほら、ビギナーズラックってやつ。――じゃあ、私トイレ行くから。またね」


 別に行きたいわけではなかったのだが、胡桃は本当にトイレに向かおうとした。


 すると、数美が踵を返した。


「それはビギナーズラックとは言いませんよ」

「――え?」


 胡桃はぴたりと足を止めた。


「それはビギナーズラックとは言いません」と、再度数美が言った。


 何の気なしの一言だったので、会話が続いて胡桃は少し驚く。


「あ、そうなの? でも、初心者の方が上級者よりも運がよかったりしない?」

「いいえ。ビギナーズラックが起きる原因はいろいろありますが、運に関しては初心者も上級者もありません。運のよかった初心者が、その後も継続して賭け事や勝負をしているだけの話です。そして賭け事を続けている人たちが、自分の経験を振り返って『ビギナーズラック』と言っているだけです。そもそも、佐倉さんは勉強に関しては初心者ではないので、ビギナーですらありませんから」


 数美の淡々とした口調に、胡桃は圧倒される。


「確かに運良く正解できた問題もあるかも知れません。けれど、もともと順位が低い人が平均点ほどの点数を取ったのならまだしも、1番の成績が取れると言うことは、基礎となる実力が必要不可欠になります。なので、先ほど佐倉さんがおっしゃったビギナーズラックという発言も、運が良かったという発言も適切ではありません」


「……ごめんなさい」


 胡桃は呟いた。


「そんな真剣に言ったつもりじゃなくて、」

「佐倉さんの実力です」

「え?」

「佐倉さんは、実力で1位を手に入れたんです」


 それが、数美からの遠回しな励ましの言葉だということに、胡桃はようやく気づいた。


「――あ、ありがとう」


 数美が角度45度のお辞儀をした。


「それでは失礼します」


 くるりと踵を返して、数美は去って行った。

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