第2話 静かな熱意

 再び数美に会ったのは、翌日の放課後のことだった。


 御月女子校の学食は、校舎とは別の、特別棟と呼ばれる建物の1階にある。胡桃は小腹が空いていたので、自習室に行く前に学食へと寄った。


 チーズケーキとホットコーヒーを買い、カウンター席に着こうと思ったら、一番端の席に数美が座っているのに気づいた。数美はイチゴタルトを食べながら、ノートを見つめていた。


「こんにちは、数美ちゃん」


 声をかけると、数美がノートから視線をあげた。相変わらず抑揚のない口調で、


「こんにちは」

「一人? 隣、座ってもいい?」


 どうぞ、と数美が言って、席を引いてくれた。礼を言って胡桃は腰掛ける。


 話を聞くと、数美は塾に通っているらしく、授業が終わってから塾までの時間をこの食堂で過ごしているらしい。塾の宿題をやり、それが終わったら数学の問題を解いたり眺めたりして時間を潰すそうだ。


 数美が見ていたノートをのぞき込むと、なにやらややこしそうな数式が書かれていた。


「リーマン予想です」と数美が言った。

「ドイツの数学者、ベルンハルト・リーマンが提唱した未解決の数学の問題です。ずっと気になっていて」


 胡桃は目を丸くした。


「ええ、すごい! 解いてるの? その未解決の問題を」

「いいえ、眺めているだけです」

「――え?」

「私にはまだ解けません。知識が全然足りないので。でも、見ているとワクワクするので、いつもこうして眺めているのです」


 単調な口ぶりではあるが、数式を眺める数美の目には憧憬どうけいの色が浮かんでいた。


「解けないのに、ワクワクできるの?」

「はい。冒険に出るときのようなワクワクがあります」

「……冒険?」

「そうです。目の前には巨大な扉が開けていて、数学の世界が広がっているんです。この中のどこかに、きっと答えはある。真実は隠されているはずなんです。それを、私は見つけ出したい。探し出してみたい。そんな興奮が、この問題にはあるんです」


 なんだかロマンチックな例え方をするなあ、と胡桃は思う。


「でも、解けないんでしょ?」

「残念ですが」数美は相変わらず単調な口ぶりで、「今は装備が少ないのです。だから、開かれた扉の前で、指をくわえて突っ立っていることしかできないんです。無限の可能性があるその世界を、探索することができないんです」

「ということは、大学では数学を専攻するの?」

「はい。数学の世界をより深く知りたいので」

「すごい」


 感嘆の言葉がこぼれ落ちた。


「私、理系の科目が本当に苦手だから、数美ちゃんみたいな人見ると尊敬しちゃう。私ほんとうに数学苦手だから。素質がないっていうか、計算があんまり得意じゃないんだよね」

「受験の数学に素質なんて必要ありませんよ。誰にだってできます」


 デキる人の言葉だなあ、と胡桃は思う。


「そうかなぁ。私でも数学が得意になれる方法とかあったらいいけど」

「点を取る、ということでしたら簡単です。解法を暗記したらいいのです。高校数学の解法なんて限られていますから」

「暗記? 数学なのに?」

「はい。公式、解き方、定石、これらをしっかりと暗記すれば問題は解けます」

「でも、そんなに単純なものなの? 数学って論理的な思考力というか――そういう素質みたいなのがいるんじゃないの?」

「素質や才能なんて必要ありません。だって、受験の問題は、全て解いてもらうために作られているのですから。数学の問題たちは私たちに確認しているだけなんです。――あなたは私の解き方を知っていますか、きちんと勉強しましたか、と。私たち受験生はそれに答えさえしたら良いんです」


 胡桃はコーヒーを一口くちに含んだ。


「……そうなのかなあ」


 コーヒーの苦みを感じながら、胡桃はそう呟いた。


「でも、暗記して解けるなら、数学なんて面白くないと思うんだけど。大学で研究する必要とかって、あるの?」

「ありますよ。当然。だって、受験の数学と、数学者が扱う数学という学問は、まったく異なるものですから」

「……え? そうなの?」

「授業で教わる数学は、数学という学問の入り口に過ぎません。さっきも言ったとおり、解くために作られたものです。いわば、自然公園のアスレチックです。ゴールまでたどり着くためには、丸太の上を歩いたり網を渡ったりしますけれど、そこにはきちんと敷かれたコースがあります」

「――えっと、数美ちゃんのいう『数学』は違うの?」

「はい。目の前に広がっているのは、本物の自然です。どこを進めばゴールにたどり着くのか、全く分からないんです。自分が先陣を切って、まだ開拓されていない野を突き進んでいかなくてはいけないんです。むやみに走っていたら、崖から転落するかもしれません。ゴールを見失って遭難して餓死してしまうかもしれません。そういう危険性が数学にはあります」

「危険性って。いくらなんでも、本当に死んだりするわけじゃないんだし」


 言ってから、なんてバカな発言をしたんだろうと胡桃は思った。


 しかし、意外なことにも数美は可笑おかしそうにくすりと微笑んだ。初めて数美が見せた表情らしい表情だった。


「たった1問に、一生を掛けても答えが見つからない可能性だってあるんですよ。実際に、そんな数学者はたくさんいます。底のない数学の沼に足を取られ、何もできずに生涯を終えてしまう。それはつまり、遭難して死んでしまうのと同じかもしれません」


 数美は、手元の「リーマン予想」の問題を見た。


「ゾクゾクしませんか?」

「いやあ、どうだろう」胡桃は頭をかいた。「なんでそんなにやりたいって思うの? 解けるかどうか分からない問題に一生を捧げるなんて……」

「知りたいですか?」


 数美が胡桃を見据えた。


「数学は、他の学問と比べて圧倒的に美しいんです。前提と前提が完璧に型にはまった論理は、数学にしか出せないんです。その美しさを、胡桃さんも知りたいですか? 味わってみますか? 答えが見つかったときの、心が震えるあの感覚を」


 感情の乏しいと思っていた数美の瞳に、胡桃はいつしか心を奪われていた。気がつけば、胡桃は「うん」と頷いていた。うねるような数学への熱が、彼女の黒い瞳の奥に確かにあった。


「では場所を変えましょう」

「え? どこかに行くの?」

「数学の魅力というのは、大きな黒板に書かれた数式の中に転がっているのです。――ほら、胡桃さんも早くチーズケーキを食べて下さい。早くしないと、せっかくぬくもってきた数学への熱が、手元のコーヒーのように冷めてしまいます」

「う、うん」


 チーズケーキを急いで口に運びながら、胡桃は数美の顔を伺った。


 数美はせっせと机の上のものをカバンにしまい、食堂を出る準備をしている。顔にはいつもの無表情が戻っていたが、この人は不器用なだけで、実はとても熱い人だと胡桃は思った。

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